普段の倍はあろうかという書類の量に音を上げそうになったのを、久方ぶりにもらえた明日の休日を思ってなんとか踏ん張ったのは約二時間前。それから時計の針は進み、勤務終了の打刻ができたのは終電も間近な時間だった。
ヒールでむくんだ足を鼓舞しながら駅の階段を駆け上がり電車に飛び乗って、一時間もしない程度揺られながら最寄りの駅に着いた瞬間、駅前のガードレールに腰かけ白い息を空気に滲ませていた姿に、ナマエは重要なことを忘れていたと気まずさを覚えるのだった。
「お疲れ」
「お、疲れ様です…」
同じ課に所属しているとはいえ、係長補佐であるナマエと捜査班員である波多野では仕事の内容が少し異なる。特に事件後の書類確認は佐久間とナマエにしかできないということもあり、事件が立て続けに起きれば必然的に終電間近の残業も多くなってしまうのだ。
そんな彼女を心配したのだろう。帰りが遅くなる時は必ず連絡をするというのが、同棲を初めてから二人が決めた約束事だった。それは、二人の自宅がある地域は駅から一本路地を入るとすぐに住宅街が広がるため夜間の人通りはぐっと少なくなることに加え、暗い夜道を一人で出歩かせるのは危ないからという波多野の希望でもあった。
「お前さ、遅くなるなら連絡しろっていつも言ってるだろ」
「う…すみません、すっかり忘れてて…」
「そんなことだろうと思った」
にも関わらず。忙しさを理由にしてはいけないが、すっかり連絡を忘れてしまったナマエはよりにもよって迎えに来た波多野本人の姿を見た瞬間に、そのことを思い出したのだ。
ナマエの反応にそれはもう察しているのだろう。むすっとしながらも立ち上がると、呆れたようにナマエの鞄を奪い「帰るぞ」と呟いた。鞄を取られたことで反射的に出た手も、しっかりと掴みながら。
「つーか、何で今日こんなに遅いんだよ」
「え、あー…捜査一課から回された書類の山がすごくて。さすがに佐久間さん一人では捌き切れなさそうだったんで、手伝ってたんです」
「へー…」
「…あの、波多野さん」
「あ?」
「なんか…怒ってます…?」
「………」
あ、これは怒ってるやつだ。
波多野はD課の中では口数が多い部類に入るが、それでも内面を簡単にさらけ出すような直接的な言葉はとても少ない。
その代わり表情や仕草が雄弁に物語っていることに気が付いたのは、あの時代とは違い何も隠さず、近くで見れるようになったからこそだろうか。
「ごめんなさい、私何かしちゃいましたか」
「…別に、怒ってはいねえよ」
「…嘘言わないでください」
「本当だ。ただ…あー……心配しただけだよ」
歯切れ悪そうに答える姿に、これもまた嘘だと気付く。納得できないと口を尖らせるナマエに、今度は波多野が気まずそうに視線を逸らす番だった。
「…佐久間さん」
「え、佐久間さん?」
「残業の間、あの狭いオフィスでずっと一緒だろ」
「一緒って…あ、」
D課がある場所は多くの職員がいる本部からは隔離された不便な場所にある。なおかつ警察組織の闇と噂されているせいか、よほどの用がない限り寄り付くもの者はほとんどいない。それはつまり、数人の職員を追い出してしまえば簡単に密室のような状況が作り出せるということだ。
合点がいってしまった。つまりは、全員が帰宅してしたオフィスで恋人であるナマエが佐久間と二人でいたこと、なおかつ約束していた残業の連絡もなかったことで心配になり、少しだけ、そう。拗ねてしまったと、そういうこと。
「なんだよその顔」
「や、波多野さん、そういうこと気にするタイプじゃないと思ってたんで、その…びっくりしたというか…」
「…前まではそうだったよ」
恥ずかしさはあるものの、ここまで言ってしまえば今更と諦めがついたのか波多野は言葉を続ける。
「お前が鈍いのは分かってたし、佐久間さんと変なことがないのも分かってる。だから、とやかく言う気はなかった」
ただまあ、あんまり良い気がしないのもたしか。
もう吹っ切れたのだろう。先程までの気まずそうな雰囲気はすっかり身をひそめ、溜まっていた自身の思いを淡々と述べる波多野に、逆にナマエが恥ずかしさで言葉を飲み込んでしまう。
「あの、すみません…その…これからは、なるべく気を付けます…」
「いや、仕事なんだし仕方ないだろ。つーか、あれだな。今度から俺も残る」
「え、いやそこまでしなくても…!」
「馬鹿、察しろ…そこまでしてでも、二人にはさせたくないんだよ」
ぽつりと呟かれた言葉も、静まり返った道でははっきりと聞こえて。吐く息は白く、頬を刺す空気がぴりりと痛むはずなのに。握り返した手とようやく絞り出した「…はい」という返事が、冬とは思えないほど熱を帯びていた。
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