※展新規衣装の話1

 朝から続けていた書類の整理を終え、傾いた陽が窓から差し込んでいるのに気が付いた頃。そろそろ業務を終えてもいいと結城から許可を貰ったナマエは、お先に失礼しますの言葉と共に執務室の扉を開けた。
 協會は古いこともあり、窓のない廊下はまだ陽があるうちでも薄暗い。勿体ないとは思いつつ電灯のスイッチを入れれば、ジジッと砂嵐のような音の後、辺りがやわく明るくなった。
 まだ明るいのだし、せっかくだから夕飯の買い出しついでにカフェにでも行こうか。そんな事をなんとはなしに考えながら、とりあえず乾いた喉を潤そうと、ナマエは食堂へ向かい階段を下りていく。
 今日は授業そのものが休みだったため、機関生達は昼頃から揃って出かけている。加えて佐久間も参謀本部へ呼び出されているらしく、誰もいない建物内は恐ろしいぐらい静まり返っていた。こつこつと響くヒールの音がやけに大きく聞こえる。

「…あれ?」

 階段を下りきったとき、ナマエは一つの違和感に気付く。廊下の突き当りにある目的地の食堂から、わずかに光が漏れているのだ。消し忘れかとも思ったが、今朝最後に食堂を離れたのは他でもないナマエ自身だ。部屋を出る際、きっちり消灯したのを覚えている。
 ならば機関生の誰かが早々に帰宅をしたのだろうか。それにしては気配がほとんどなかったことを不思議に思いながら、ナマエはゆっくりと食堂へ近付く。そしてドアノブに手をかけたようとした、そのとき。扉が勢いよく開かれた。
 まるで狙ったかのようなタイミングで開け放たれた扉に、ナマエは思わず大きく肩を跳ねさせ。持っていた数枚の書類を、ぐしゃりと握り潰してしまった。

「ナマエ、お疲れ様。仕事はもう終わ…どうした?」
「…た、ざきさん……?」
「そうだけど……」

 さすがに幽霊の類が出てくると思っていたわけではないが、それでも突然の出来事に驚いてしまうのは人間の本能だろう。大きく早鐘を打つ心臓を落ち着けようと、ナマエは目の前に現れた人物の名前を、確認するように呟く。
 呼ばれた張本人である田崎は、大きな目を見開きながら、おそらく結城から預かったであろう書類を握りつぶしているナマエの姿に、ようやく状況を悟ったらしく。「ああ、」と納得したように小さく声を漏らす。

「ごめん、驚かせたかな……ふふっ」

 まるで小説にでも出てきそうな、"驚きました"という露骨な反応がよほど可笑しかったのか。謝罪をしながらも、弧を描き薄く開いた唇からは、窓から風が漏れるような、耐えた笑い声が聞こえている。

「田崎さん…」
「いや…まさかそんなに驚くとは思わなくて」

 確かに、仕事も終わり誰もいないと油断しきっていただけに分かりやすい反応をしてしまったが、そこまで笑わなくてもいいのではないだろうか。
 気恥ずかしさを誤魔化すようにナマエは一つ咳ばらいをし、「皆さんとお出かけにならなかったんですね」と当初から脳内に浮かんでいた疑問を口にする。
 ちらりと視線を向けた食堂内、机の上に文庫本が置かれているところ見るに、田崎は少し前に帰ってきたわけではなく。どうやらずっと食堂へいたようだったからだ。

「ああ…うん。用事があるからな」
「こんなお時間から?珍しいですね」
「うん。デートだから」
「…でぇと」

 デート、と言ったか。まさかの発言に、ナマエの脳内はその単語の意味を理解するまで数十秒かかってしまった。
 しかし次の瞬間には、なにかが腰を落ち着けるように胸の中へ、すとんっと落ちていく。その姿を認識したときから感じていた違和感の理由が、ようやく分かったからだ。

「…なるほど。だから、そんな素敵なスーツを着ていらっしゃるんですね」

 ──青紫系の少し強い色のベストに、ラベンダーを思わせる淡さのあるジャケット。白いズボンに白いパナマ帽。ベストと同じ色のボウタイが、清潔感と爽やかさを感じる全体を綺麗に引き締めている。
 暗めの色を好む田崎にしては珍しい華やかなそのスーツは、初めて見るはずなのに、以前から着ていたと言われてもなんの違和感も感じさせないほど彼によく似合っていた。

「ああ。この前テーラーで仕立ててもらったんだ。どうかな?」
「お似合いです。とっても」
「ありがとう」

 ナマエの言葉に微笑みボウタイを整える姿は、まるで褒められたことを喜ぶ子供のようにも見えた。
 それも当たり前か。ナマエは胸の中で独り言ちる。デート用と銘打ち、田崎という男を引き立てるためだけに一から仕立てたものを、いざこれから本番という前に褒められたとあれば、嬉しく思わないはずがないのだから。

「…そんな風に新しいお洋服で共に歩いていただける幸せなご婦人は、どのような方なんですか?」

 機関生達の中では良い意味でも悪い意味でも女性関係に淡白なはずの田崎に、"デート"というものに浮かれる心を持たせるまでの相手とは、いったいどんな人物なのか。知りたいという、ほんの少しの好奇心がありつつも、知ったら最後、嫉妬と後悔に苛まれるだろうことはナマエも分かっていた。
 けれどどうしても、抑えることはできなかった。浅はかな思いを悟られないよう震える声をなんとか鼓舞し、自身が最も傷つき、けれど最も知りたいと願う、彼の心を射止めた人物のことを問いかける。

「…そういえばナマエ。この間のワンピース、どうした?」

 しかし田崎はその問いに答えることはなく。逆にナマエへと問いかけてきた。
 明確にはぐらかされたことに驚きつつも、"ワンピース"という単語に、ナマエの脳内へ一気にある記憶が舞い戻ってくる。


 ──遡ること、約三週間前。その日仕事を終えたナマエは、田崎と共に街へと繰り出していた。
 辺りは薄暗くなり始め、ぽつぽつと街灯が付き出す時刻。街が夜の雰囲気へと変わるこの時間帯に外出することがあまりないナマエは、「珍しい酒を出す店があるんだ」の言葉と、柔らかく繋がれたあたたかい手に誘われ。どんな店なのかと期待に胸躍らせながら、田崎の後を着いて歩いていた。
 しかしそんなナマエの予想に反して連れて行かれたのは、煌びやかな看板が輝く店ではなく。ショーケースの中でマネキンが淑やかにポーズを作り、華やかなワンピースを身に纏っているブティックだった。
 店の場所を具体的に告げられなかった時点で多少の疑問を感じてはいたが、まさかこんな所へ連れて来られるとは。ぽかんと口を開けて疑問符を浮かべるナマエの手を引いて、田崎は迷うことなく店内へと入って行く。
 ──そしてそこから、戸惑うナマエを置いていくように更に予想外のことが起き続ける。
 店主らしき背の低い小太りの老人は、田崎と「頼んでいたものは?」「完成しております。お持ちいたしますね」などと慣れた様子で会話をしたと思ったら、そのまま店の奥へと消えていき。数十秒後には、トルソーに着せられた一着のワンピースを運んできた。
 白いスタンドカラーに、海のように揺れる無地の淡い青。肩口はふんわりと膨らみ、柔らかな雰囲気を作り出している。きゅっと締まるウエスト部分から長く落ちるようにタイトなシルエットは、柄が無いおかげで足を長く見せてくれそうだ。きっと華奢なバングルで止める黒いヒールは、この服とよく合うのだろう。
 目の前に現れた、自らの好みともぴったり合致する服。思わず見とれていると、そんなナマエの心情を察したらしい田崎は「気に入ってくれて良かった」と嬉しそうに微笑んだ。そしてそのまま店主の方を振り向くと、同じく店主も納得したようにトルソーからワンピースを丁寧に脱がし。上等な箱へと畳み仕舞いだした。
 気に入ってくれて良かったという田崎の発言と、洋服を丁寧に梱包する店主を確認した瞬間、ナマエは何故自身がここに連れてこられたのか。混乱する脳内でようやく察することができた。
 田崎はこのワンピースを仕立ててもらい、それを贈り相手でもあるナマエと受け取りに来た。この時代、男からの贈り物を女が断るなど言語道断。ましてやそれが、男が、"一から"準備し、"彼女のためだけに"様々考え、"誰かの前で贈ったもの"なら、なおさら。
 たとえばナマエがそんな、『男主導の行動に振り回され結局女が折れるのは馬鹿げている』という思考を持ち合わせていたとしても、それはあくまで興味のない男にされた場合に限る。相手が田崎──好意を持っている相手ともなれば、断ることなど、できはしないのだ。
 そんなナマエの思考回路をすべて理解したうえで、田崎はわざわざこの状況を作り出した。そしてそれにナマエが気が付いたときにはすでに遅く。素直に受け取る以外の道は残されていないというわけだ。
 この後、ナマエが「せめて代金だけでも払わせてほしい」と食い下がるも、「男が贈ったものに、女性からお金を払わせるなんてさせられない」と田崎に笑顔で丸め込まれ。結局ナマエは震える手で大きな紙袋を抱え、田崎に肩を抱かれながら店をあとにする他なかった。
 ちなみに、当初の目的でもあった"珍しい酒を出す店"の話は一応本当だった。ナマエも以前任務で訪れたことのある諸外国の酒もあり、それはそれは楽しい時間を過ごせた。そのおかげで、田崎のこの奇行を問い質す間もなかったわけだが。
 それともう一つ。翌朝そのワンピースを着てみたところ、まるでナマエの身体全て知っているとでも言いたげに馴染んでいて。当たり前だが田崎にスリーサイズ等々教えたことのないナマエは若干の恐怖を覚えたが、鏡に写るワンピースの可愛らしさと、恐怖を上回る至福に、それはあえて聞かないでおこうと心に誓ったのだった。


「それが、生憎まだ似合うような場所に出掛けられていなくて、着られていないんです。…すみません」

 まるで走馬灯のように思い出された出来事に、密かに胸の中で苦笑しながら答える。業務が立て込んでいたのもあるが、元々行動範囲は協會の周辺しかないナマエにとって、あのワンピースが似合うような理想の場所へ出掛けられていないというのは、一応理由の一つではあった。
 だがその大部分を占めるのは、"せっかくの田崎からの贈り物を着てしまうのが勿体ない"の気持ちからなのだが、それはあえて言わないでおく。

「そうか…。それは良かった」
「…良かった、ですか?」
「ああ、ごめん。悪い意味じゃなくて」

 自分が贈ったものを相手がどうしているのかというのは、確かに気になるところだろう。考えに考えて贈ったものをナマエがまったく着ていないことに対し、少しばかり何か言うつもりなのだろうかとも思ったが、返ってきた言葉はまったく予想外のものだった。
 ──まさか。せっかく贈ったものを着ていないのならば返せと、そういうことだろうか。田崎に限ってそんなことは言わないだろうが、そうなると"良かった"の単語の意図が分からない。
 不安が過ったことでナマエが眉をほんの少しひそめたことに気が付いたのか、田崎は少し慌てた様子で謝る。

「ナマエのことだから、汚したら申し訳ないとか、着てしまうのが勿体ないとかで、中々着られないんじゃないかと思って」
「…仰る通りです……」
「だからこのスーツは、ナマエがワンピースを着るきっかけ作りに役立ちそうだなって。そういう意味での"良かった"、だよ」

 ジャケットの裾元をぴらりと軽く捲りながら「どういう意味か分かる?」と訊いてくる田崎に、ナマエはその"きっかけ"を考える。
 田崎がスーツを仕立てることにより、ナマエが大切なワンピースを着ようと思えることが起きる、と。そういうことなのだろうが、そもそもワンピースを贈られた時点で、ナマエには田崎の思考回路などまったく読めていないのだ。今更必死に考えたところで、その真意を理解することなどできるわけがない。
 田崎は首を傾げ唸るナマエを楽しそうに見つめると、ジャケットの胸元へ手を差し込む。そしてわずかに身を屈め、ナマエと視線を合わせた。
 近くなった距離に緊張で身体を固めるナマエの様子を楽しむように、いやにゆっくりとした手付きで田崎がそこから取り出したのは、恐ろしいほど真っ青な、一輪の薔薇だった。
 なぜ薔薇が、形も崩れずにそこにいたのか。よく考えればおそらく彼お得意の手品で、そもそもそこではないどこかに隠し持っていたのだろうと想像できるのだが。ナマエは存在しないはずの青色に、すっかり目を奪われてしまっていた。

「お嬢さん。もしお時間が宜しければ、そのワンピースを着て、これから俺と一緒にお茶でもいかがですか?」

 もはやに考えていたことは、すべて彼方へと飛んでいってしまった。ナマエの空っぽになった脳内には、代わりに薔薇の柔らかな香りが一気に流れ込んでいく。
 ナマエが大層大切にしていたワンピースを着るほどの"きっかけ"とは、これつまり。田崎がこのためだけに仕立てたスーツを着て、彼女をデートに誘うことだったのだ。──まさかこんな、手間もお金もかかったであろうプランを練っていたなんて。
 面倒だったんじゃないですかとか、私のためにすみません、とか。申し訳ないという気持ちを表す単語が次々出そうになるものの、それは田崎の望むところではないだろう。それはナマエもよく分かっている。
 だからここは、"ナマエのためだった"という事実だけを喜び、そしてはっきり伝えるべきなのだろう。
 ナマエは震えそうになる声色を必死に抑え、返事をする。

「…私で良ければ、喜んで」

 ──そういえばあの淡い青は、彼のスーツに似合う色だった。二人揃って歩けば、きっとすれ違う人全員が目を奪われるだろう。
 そんなことを本気で思えるぐらいには、ナマエの心は踊っていた。彼女の返事に、田崎はきゅっと目を細め。「良かった」と口角を上げる。

「あっ、じゃあすぐ準備してきます…!すみません田崎さん、もう少し食堂でお待ちいただいても大丈夫ですか…?」
「何時間でも待つよ。…なんなら着替え、手伝ってあげようか?」
「っ結構です!」

 わざとらしく揶揄いを含んだ声に、ナマエはほんのり顔を赤くしながら、咎めるように声を上げる。踵を返し自室のある三階へ小走りで向かえば、背後から「転ぶなよ」と、子供を心配する親のような言葉が聞こえた。
 さすがに転びませんよと思いつつも、もしかしたらそれぐらい慌てて、もしくは浮かれているように見えたのかもしれない。そしてそれは決して間違っていないのだから、否定の言葉は意味をなさないだろう。
 自室へ飛び込み、ベッドの上に書類を放り投げる。勢いよく開け放ったクローゼットの中で、皺一つ付かぬよう丁寧に仕舞われた淡青のワンピースが、待ってましたと言わんばかりにこちらを見ていた。
 ずっと、決心がつかなくてごめんなさい。一人胸の中で謝りながら、ナマエは鏡の前に立ち、ワンピースと自身を照らし合わせる。
 顔には薄く粉を叩いて、邪魔をしない程度に赤い口紅を引いて。髪もまとめようか。ああそれと、ヒールはあまり高くないものを履いて。黒で、彼の靴の色と合わせて。
 次々思い浮かぶ魔法に、いったいどれから手をつければいいのか。興奮冷めやらぬまま緩み切っているであろう頬をきゅっと押さえれば、火傷しそうなほど熱を帯びていて。やはり堪え切れぬと、ナマエは再び笑みを浮かべるのだった。





BACK | HOME