※展新規衣装の話2
真っ白なカップに注がれた紅茶を一口すする。先ほどまで目に見えるほどの湯気を昇らせていたそれはすっかり冷めてしまったらしく。溶け切らなかった砂糖が喉を刺激し、ナマエは思わず顔をしかめた。
溜まっていた書類の整理を急いで終え、昼も少し過ぎた頃。協會から歩いて十分ほどの場所にあるカフェにナマエが訪れたのは、先日の仕事終わり、街へ向かおうと階段を下りていく機関生らの最後尾を歩いていた実井に、声をかけられたからだった。
「よければ明日の昼頃、一緒にあのカフェにでも行きませんか。新作を食べたいって仰ってましたよね?」
まさか実井に誘われるなんてという驚き。そしてなにより、誘われたカフェは先ほど実井が述べた通り、以前にナマエが「新作ケーキを食べに行きたい」と、世間話程度に呟いた場所でもあり。その何気ない言葉を彼が覚えていたというその事実が一層、ナマエの喜びを押し上げ。気付けば優しい声色の誘いに、ナマエは一も二もなく返事をしていた。
そうして待ちに待った翌日──つまりは今日。午前から外に出る用事があった実井は、書類に埋もれながら仕事をこなすナマエに「こちらは終わり次第先に向かってます」と笑いながら出かけていき。それから数時間遅れで、ナマエはその店へ向かうこととなったのだ。
やや急ぎ足で訪れた店の中。きょろきょろと視線をさまよわせると、同じくこちらに気付いたらしく、窓際の席に座っていた実井はナマエを呼び寄せるように大きく手を上げた。
「遅れてすみません」の言葉と共に席へ着いたナマエは、とりあえず紅茶を注文する。食べたかったケーキは紅茶と相性が良いというのを事前に聞いていたからだ。
さすがに待ちくたびれました。遅いですよ。などと嫌味を言われるかとも思い、乱れているであろう髪を手櫛で整えながら、ナマエはぱっと顔を上げる。
けれどそこにいたのは、わざとらしく不機嫌に口を尖らせるでもなく。かといって笑顔でちくちく責めるでもなく。ただあの大きな瞳をさらに丸くさせてこちらを見つめる、実井の姿だった。
「…実井さん?」飲もうとしたのだろう。幾許か中身の減ったカップに手を添えたまま固まり動かない実井に声をかけると、彼は何かに気が付いたように一瞬息を飲む。そうして勢いよく立ち上がり、「ナマエさんはここで待っていてください」の一言を残すと、そのまま姿を消してしまったのだ。
声をかけた瞬間から、静止の言葉をかけることも、理由を聞くこともできず。あっという間に店を出て行った様子に呆気に取られ。
あとに残ったのは、突然置き去りにされたナマエたった一人と、気まずそうに店員が運んできた紅茶だけだった。
「お待たせしました、こちらハムサンドになります」
「ありがとうございます。すみませんが、紅茶のおかわりをいただけますか。…あとこのカップ、下げてもらって大丈夫です」
座っているのは一人なのに、カップが二つというのもおかしいだろう。しかも相手は帰ってくるのかも分からない。言外そう告げれば、察したらしい店員は憐れみを滲ませたような笑顔で「かしこまりました」と裏へ消えていった。
まあどう見ても、いきなり男に帰られた憐れな女に見えているだろうから、その扱いに対して怒りを覚えることはない。同じ状況を見たら、ナマエも顔に出さずとも同じことを思っていただろうから。
──まさか突然置いていかれるとは思ってもいなかったが、それよりもずっと驚いたのは、あの時の実井の態度だった。
おそらく外から見たら落ち着いているように見えただろうが、共に過ごし、彼を観察してきたナマエには分かる。あれは少し慌てて、なんなら焦っていた。普段飄々としている実井の慌てる姿が見れただけでも、儲けものなのかもしれない。
そう切り替えれば少しは気も紛れるかとも思ったが、落ちた髪の毛を耳に掛けた瞬間、ふわり感じた香りに、結局心は負の連鎖へ引き戻されてしまった。
柔らかく甘い花の香が鼻をくすぐったと思ったら、徐々に落ち着きのある重たい香へと変化し。けれど不意にふっと、空気に溶けてしまいそうな爽やかさを感じさせる香水は、静かな彼らしいと思い購入したもので。普段使用しているものより香りが強かったため、どこで使うかと思案していたものを、まさに今日下ろしたばかりだった。
それだけじゃない。新作のおしろいに、淡く目元を輝かせるアイシャドウ。頬にはほんのり色付く、こちらも新作のチーク。普段使うものよりやや色味が強く、けれど主張しすぎない赤の口紅は、協會から少し歩いた駅向こうの店にしかないもの。──どれも下ろしたて。実井がよく着ているスーツの色に合うようにと、選んだものばかりだった。
カフェに行くということは、向かい合って座り、互いに目の前の人物だけに意識を向け、会話をするということだ。その瞳に自分しか映らないのならば、普段よりわずかでも整った姿で映りたいと思うのは、いけないことではないと思う。
けれど気付かれてしまうと少し恥ずかしいから、服装はあえて変えず、普段のスーツのまま。彼を意識して購入した化粧品だけを使って、雰囲気の違う姿を見せられたら──そんな、淡い気持ちだった。
そうしてわずかに浮かれた心は、来てたった数分で見事に打ち砕かれることとなったのだが。いや、打ち砕かれたまでは言い過ぎかもしれない。実際のところ涙は一滴も出ていないし、食事も喉を通らないなんてことはない。本来の目当てだったはずのケーキでなく、ハムサンドを食べてしまうぐらいにはお腹も減っているのだから。
まあ、少しも気にしていないといえば嘘にはなるが、同時に納得してしまっている自分の存在も、また事実であった。
「………」
そうこう考えているうちに、八切れもあったハムサンドは無くなっていたらしく。掴もうと伸ばした手は空を切ってしまった。その事実にさえわずかに苛立ちが生まれ、ナマエは誰にも気づかれぬよう小さく溜息を吐く。
「お待たせしました。紅茶になります」の言葉と共に再びやって来た店員に、あっという間に空になった皿を返しながらお礼を言うと、どうぞごゆっくりと微笑まれる。おそらくやけ食いと思われたことにまたも気づいてしまい、いよいよ心中苦笑いを浮かべる他なかった。
再び心にかかり始めた靄を振り払うように紅茶を一口すすり、わずかに開けられた窓へと視線を向ける。ついこの間まで身を焼いていた暑さもすっかり鳴りを潜めたようで。窓から入る風はわずかに冷たく、思わずうっそりと息を漏らしそうになる程度には心地良く感じられた。
──これなら、あと三十分ほど待ってもいいだろう。今はありがたいことに、午前にこれでもかと頑張ったおかげで急を要する仕事も用事も、特にないのだから。
店員と客のわずかな話し声を背景にしながら、ナマエはゆっくり瞳を閉じ、頬を撫でる風に集中する。
鼻をくすぐる爽やかな香りは、今度は心を乱さなかった。
「…すみませんナマエさん、お待たせしました」
わずかに乱れた低いトーンが聞こえた瞬間、喧騒は耳の奥に消える。聞こえたそれが誰のものかなんて、考えなくても分かる。先ほどからずっとナマエの心を乱していた人物、その人なのだから。
置いて行かれた可能性もないと言い切れなかっただけに、戻ってきたことに多少驚くと同時に、それならば何故ここまで待たせたのかという、怒りと疑問の方が浮かんできて。ナマエはほんのわずかに苛立ちを含めたような声と視線を声の──実井の方へと向ける。
「どこに行ってらしたんです、か…」
徐々に小さく消えてしまいそうな声になったのは、最後に見た記憶の中の実井とは、大きく異なっていたからだった。
──ウィンドウペーンと呼ばれる、最近英国で流行しているという格子柄が薄く入ったベストは、深い緑色という色のわりに、そこまで重たい印象を持たせない。さらにそれを引き立てるカーキ色のネクタイにアームバンド。濃い目のベージュのズボン。仕上げとばかりに被っているカンカン帽子も、普段のパナマ帽と違い柔らかな印象を与えている。
まるで恋人と出かけるかのごとく華やかなその服装は、少なくともこの数ヶ月共に過ごしてきた中で、ナマエが初めて見るものだった。
「ど、どうされたんですか、その格好…」
「貴方に合わせたくて」
理由も話さず置いていったと思ったら、今度は貴方に合わせたと、整えた出立ちで戻ってくる。これまでの流れを思い返したところで、やはりナマエには何一つ、実井の意図が理解できなかった。
しかしその困惑の発端であるはずの実井は、ナマエとは正反対に普段と変わらず。これまで自身が座っていた椅子へ静かに腰掛けると、近くにいた店員に「僕にも紅茶をお願いします」と微笑んだ。
柔らかな笑みに騙されたらしい店員は分かりやすく頬を赤らめると、足早に裏へと戻っていく。よく見るとそれは、先ほどナマエに憐れみの視線を向けた店員で。自身に対するものとは明らかに違う対応に心中苦笑いを浮かべつつも、今はそれどころではないと、ナマエは実井に向き直る。
「私に合わせるって、いったいなんの……」
ことですか、と言葉を続けられなかったのは、こちらを見つめる実井の瞳に込められた熱に気が付いてしまったからだった。
「…おしろいとチークは、この前出たばかりの新作。口紅は駅向こうの店にしかない色のもの。それに目元もとても綺麗な色で、僕が普段着ているスーツともよく合う」
つらつらと並べられていく言葉たちは、一つの間違いもなく。まさしくナマエが実井のためにしたこと全てだった。
呆気に取られ言葉を失うナマエの様子に、実井はどこか申し訳なさそうに眉を下げる。
「…僕のために着飾る貴方を蔑ろにする程、冷たい男のつもりはありませんよ」
「まあさすがに化粧はできないので、格好だけでも合わせたいと思いまして」気恥ずかしくなったのか、実井が誤魔化すように少し口早に言葉を続けたことにも、今のナマエは気付けなかった。
──あの実井が、いじらしくも自らのために着飾ったナマエを、笑うでもなく、気が付かないふりをするでもなく。その想いを蔑ろにはしないと、ここまでしてくれるなんて。
そう実感した途端、つとめて感情を表に出さないようにしていたナマエの瞳が、いよいよ大きく揺れ始める。視界がわずかに滲んだことに気付き、咄嗟に頬の内側を噛み締める。そうして無理やり涙を引っ込めるナマエの様子に、実井は正反対の笑みを浮かべる。
「そんな険しい顔しないでください。せっかくのお化粧が勿体無いですよ」
「だ、誰のせいだと…」
「僕ですね」
「………」
事実とはいえ平然と言ってのける様子になにも返せなくなってしまったナマエは、とにかく一度落ち着こうと紅茶をすする。我ながら現金だとは思うが、嚙み締めた場所に痛みを感じこそすれど、ぬるさに不快感を感じることはなかった。
「ああそうだ忘れてた。これ、どうぞ」
「え…」
ナマエの緊張が解けたことを察したのか、ふと思い出したように実井は被っていた帽子を取ると、どうぞの言葉と共に、小さなリボンが巻かれた薔薇を一本、ナマエに差し出した。
まるで手品師が中から鳩を出すかのごとく。少しわざとらしいその仕種に驚くよりも先に、ナマエは突然目の前に差し出されたその薔薇に、目を奪われる。
「青い薔薇…」
「来る途中の花屋で見つけたんです。…貴方のようで綺麗だったので、どうしても渡したくて」
こうした場での最低限のマナーを、実井を含めた生徒に叩き込んだのは、他でもないナマエだった。それを充分理解しものにしていた彼にしては、席についてもなお帽子を取らないのは珍しいなと思っていたが、まさかこんなものが隠されていたとは。
突然現れた、本来存在しないはずの青い薔薇にナマエは一瞬で目を奪われる。驚きで、飲んでいた紅茶が喉を通る時はしたなくも大きく音を鳴らしてしまったが、正直そんなことを気にしている余裕はナマエにはなかった。
いよいよ言葉を失い、呆然と薔薇を見つめたままのナマエに痺れを切らしたのだろう。実井はその手元から今にも滑り落ちてしまいそうなカップを奪うと、代わりとばかりに薔薇を握らせた。
「そういえば、ケーキはもう食べてしまいましたか?」
「え、あ、ま、まだですね……」
手渡されたそれをどうすればいいのかと未だ混乱中のナマエを余所に、実井はメニューに目を走らせている。
なにせやけ食いにも似た状態でハムサンドを食べていたのだから、ケーキなんて食べているはずもなく。恥ずかしさを感じながら言葉を濁したが、勘の良い実井にはそんなこと既にお見通しなのだろう。
案の定、「そうですか」とメニューに目を走らせる実井は、どうにも微笑ましさを含んだ笑みを浮かべていた。
「たっ、食べたい物、決まりましたか?」
「ええ。これにしようかと思ってるんですけど…どうです?」
「どれです、っ」
広げられたメニュー表を覗き込もうと、ナマエも同じく身を乗り出したとき。実井は彼女の首筋に顔を寄せると、スンッと小さく鼻を鳴らし、その鼻腔にナマエの香りを吸い込んだ。
あまりに自然に行われたその行動に固まったナマエを置き去りに、実井は乗り出した身を元の位置戻すと、少し考えるような素振りを見せて彼女に問いかける。
「…ああ、やっぱり。香水も変えてますよね?」
「か、えてます、けど……」
ほとんど確信を持っているような問いかけだった。おそらくナマエの言葉が欲しかったのだろう。予想通りのはずの肯定にも、実井はなぜか嬉しそうに笑うと、緊張からかわずかに握り込まれたナマエの手を柔らかく包み込んだ。
男性にしては小さく、けれどナマエより確実に大きい手は、心なしかほんの少し冷たく感じて。ナマエはおそるおそる、高鳴る心臓の音が聞こえないことを祈りながら、顔を上げる。
ばちり。ひどく恍惚とした、まるで悦楽に浸っているかのようなとけた瞳が、じっとナマエを見つめていた。
「すごく僕好みだったので驚きました。…てっきり、誘われているのかと」
まるで内緒話でもするかのように小さく、けれどはっきりと聞こえるその声は、とてつもない甘さと、どこか湿り気さえ感じられるほどの熱を含んでいて。
聞いた瞬間一気にナマエの身体と心臓を支配し、もはや目を逸らすことはできなくなっていた。
──柔らかく甘い花の香が鼻をくすぐったと思ったら、徐々に落ち着きのある重たい香へと変化し、けれど不意にふっと、空気に溶けてしまいそうな爽やかさを感じさせる香水。静かな彼らしいと思い、購入したものだった。
「…ね、ナマエさん。よかったらこのあと、少し先の公園に行きませんか。そこの紅葉が、とても綺麗なんですよ」
デートのやり直しも兼ねて、なんて。優しく微笑みながら告げられた言葉に、耐えていた熱がじわじわと頬を赤くしていくのを感じる。
ついに耳まで真っ赤に染めてしまったナマエの様子に「でも、まずはケーキですね」と、実井は小さく笑ったのだった。
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