「まったく…女性がはしたないですね」
遠くで誰かの声がする。この棘のある言い方は三好さんだろうか。
「甘利さん、あとはお願いします」
「頑張れよ。旦那なんだし」
からかうような実井さんと、波多野さんの声。騒がしい館内でもしっかりと認識できるのは、聞きなれた声だからだろう。
それと、返事をする甘利さんの声が、誰よりも近くで聞こえる。そういえばなんだか温かい。なにかに包まれている感覚と、足が地についていないような浮遊感。
もしかして、抱き上げられてる?
ぼやけた頭でそう思ったけれど、ゆらゆら揺れる感覚と少しだけ香るシトラスが心地よくて、わずかに開いていた瞳を閉じた。
かちゃ、ぱたん、ぎしっ。
極力抑えている生活音を合図に、意識の輪郭が徐々に明確になっていく。体に感じる柔らかさと、肌に触れるなめらかさの正体がわかり、閉じていた瞳をゆっくりと開いた。
「…甘利さん?」
「あ、ごめん。起しちゃった?」
申し訳なさそうに眉を下げ、私の頭を撫でる。おそらく一服しようとしていたのだろう、その口にはまだ火のついていない煙草が咥えられていた。
ほんの少し視線を動かし周囲を確認する。見慣れない部屋に造りに、やや大きめのベッドと、サイドの小さな机。置かれているのはそれだけだった。まるで、必要最低限のことのみ行うだけの部屋。
………部屋?
「!」
ここがどこかを理解した瞬間、自分でも驚くぐらいの早さで飛び起きた。そして物凄く痛む頭。
「っ…」
「どうした、いきなり飛び起きて」
煙草を灰皿へ置き、頭を抱える私を労わるように背をさする甘利さんに、別の意味で頭が痛くなった。
「す、いません、驚いて…」
落ち着けと自分に言い聞かせ、ここに至るまでの経緯を思い返してみる。
たしか今日は、珍しく雑務が早く片付いたからと街に出る皆さんについて行って、行きつけだという店で乾杯をして、久しぶりのお酒だったからいつもよりわりと早めのペースで飲んで…。
ここだ。ここからの記憶が曖昧だ。考えることで痛む頭を押さえ必死に記憶の糸を手繰り寄せる。
三好さんの呆れた声。からかう実井さんと波多野さん。浮遊感と、シトラス。そこまで思い出して、ようやく全てのことを理解した。
「思い出した?」
「私…」
血の気が引くとはまさにこのことなのだろう。とんでもない醜態を晒してしまった。
直前の三好さんの声。最悪だ。普段から女性として色々足りないだとかお小言をいただいているのに、こんなみっともないところを見せてしまうなんて。明日もまた何か言われるのだろう。想像しただけで辛い。
「甘利さんにご迷惑を…」
「別に気にして無いよ。それよりも、まだ頭痛いだろ?シャワーは明日浴びればいいから、今は寝てな」
「でも、」
「いいから。今日はもうここでゆっくりしよう。な?」
まるで子供に言い聞かせるような物言いに、ますます申し訳なさが募る。いくら恋人とはいえ、こんな酔っ払いを押し付けられてさぞ迷惑だっただろう。
促され再びベッドへ寝転ぶも、嫌な意味ですっかり冴えてしまった頭では寝付けそうにない。ちらりと彼に視線を向ければ、こちらに背を向け煙草に火をつけていた。
頭まで布団をかぶり、気づかれないようため息を吐く。
お互い忙しくてただでさえ時間が合わないことが多いのに、最近はそれが特に酷かった。だからこそ今回は、少しでも一緒にいられるのならと彼らについて行ったのに、結局迷惑までかけてしまって。情けない。
明日からまた忙しい日々が、触れられない日々が続くというのに。ここで二人きりの大切な時間を潰してしまうなんて。自分の情けなさにほとほと呆れてしまう。
夜、連れ込み宿、二人きり、ベッドの上。
……ちょっと待て。もしかしてこれは、チャンスではないのか。
いやもう、もしかして、なんかじゃない。こんなの、今行動に移さずしていつ移すというんだ。ここで瞳を閉じたら、それこそ朝まで寝て終わってしまう。それだったらいっそのこと、一緒に寝てもらって、少しでも触れ合えるようにするのが得策なのではないだろうか。
酔っていたせいでこんな簡単なことも思いつかなかった。それにもし、もし!気分が乗らないからと断られても、そうですかと流して翌朝覚えていないふりをすればいいのでは…?
こうなる事はさすがに予想していなかったけれど、ある意味棚から牡丹餅だ。
この機会を逃してどうする。女は度胸だ…!
「あ、甘利さん」
ワイシャツの裾を、ほんの少しだけ掴む。もう寝たと思っていたのだろう、彼の肩が小さく跳ねた。
「どうした?」
なるべくゆっくり起き上がり、目線を合わせる。私の様子に何かあると察してくれたのか、わざわざまだ長い煙草の火を消して向き合ってくれる。
髪はボサボサで、ワイシャツはしわだらけ。こんな姿、あの人に見られたら怒られてしまいそうだけれど、今はそんな事気にしていられない。
「あの、その、」
「うん」
「その、ええと…」
「大丈夫だから。落ち着いて言ってごらん」
「……あ、のですね」
「うん」
「い、」
「い?」
「一緒に寝てもらいたいなあ、なんて…」
ああ言ってしまった。だんだんと尻すぼみになってしまったのは、込み上げる羞恥に耐えられなかったから。
目が合わせられなくて、逃げるように視線を落とす。寸前に見えた瞳は大きく開かれていた。
さっきみたいに、子どもに言い聞かせるように「酔っ払いは寝てな」って言ってくれれば、それで何かしら誤魔化せるのに。
あ、もしかしてあれかな。酔って面倒な事言いだしたとか思ってるのかな。だとしたらこの反応も納得かも。それどころか、忙しくて近寄られないのが逆にちょうど良かった、とか。
駄目だ。お酒のせいで思考がどんどん悪い方向へといっている。しかもなんだか鼻の奥が痛くなってきた。まずい、泣きそう。
「す、すみません、わすれてくださ、っ 」
不意に、俯く私の肩を彼の手が押した。力の抜けていた体は抵抗する間もなく、ベッドの上へと倒れこむ。驚いて起き上がろうとするも、次いで覆い被さってきた甘利さんにそれも叶わなくなる。そうしてそのまま、唇が重なった。
「っ、ん!」
突然のことに、頭は一気にパニックとなる。慌てて彼の胸を押すけれど、その手すらも掴まれベッドへと縫い付けられてしまう。
「う、んんっ」
くっついては離れ、離れてはくっついて。息つく間もなく重なる唇に呼吸が乱れていく。
「あ、っまり、さ、」
「口、開けて」
途切れ途切れに名を呼べば、少し動けば再び触れてしまいそうな距離で囁かれる。熱を帯びたブラウンの瞳が、全ての思考を麻痺させる。
言われた通り指一本ぐらいの隙間を開けば、すかさず舌が入り込んでくる。彼とキスは何度もしたから、言われた時点でなにをされるかなんてわかっていたけれど、やはりこれは、いつまで経っても慣れない。
「ふ、あっ」
「ん、」
熱い舌先が上顎を撫で、歯の裏側をなぞり、私の舌と絡む。互いの唾液を交換するような激しいそれに、耐えていた涙が溢れるのを感じた。
「ん、あっ、んぐっ、ふ、」
「は、ん…」
時折漏れる甘利さんの声が鼓膜を刺激して、背筋をぞくぞくとなにかが駆け上がっていく。含み切れなかった唾液が頬を伝った頃、ようやく唇が離される。かかっていた細い糸がぷつりと切れた。
「っふ、は、はあ、」
みっともなく開いた口元の唾液を彼の指が拭う。そうして感触を楽しむように、親指腹が唇を撫でた。
いきなりどうしたというんだ。女性に優しい彼が、静止の言葉も聞かず無理に事を進めるだなんて。嫌ではないけれど、こんなこと初めてで少し驚いた。
「…危なかった」
肩口に顔を埋め、ため息交じりにそう呟く。
「な、何がですか?」
「襲っちゃいそうだった」
「……………」
もう襲っているようなものですよ、という言葉は飲み込んでおく。
「せっかく我慢してたのに、あんな顔で言うから」
「…あんな顔?」
「真っ赤で、ふにゃーって顔」
「し、してませんよそんな顔!」
「いーや、してた。俺見ちゃったもん」
もん、じゃないですよ!
恥ずかしくて顔を背ければ、ごめんごめんと機嫌をとるように頬に口づけられる。
「あんまり酔ってる時には手出したくないんだよ」
「…どうしてですか?」
そういえば、と思いだす。お酒の席でそんな雰囲気になっても、彼は絶対に手を出してこようとはしてこなかった。今回はそのことをすっかり忘れていたけれど、いつも少なからず疑問に思っていた事だった。
訓練だったら、酔った女性に声をかけてそのまま、なんて事は当たり前にある。だからこそ、そこで躊躇する意味がわからなかった。さすがにそうはっきりとは言えないけれど。
しかしそこは勘のいい彼らしく、私の考えていることなんとなく察したようで、なんとも言えない表情をした。
「まあ、訓練だったらその方が楽だけど…本当に好きな子を抱くなら、酔っている時よりきちんと意識がある時の方が、記憶にも残っていいだろ?」
「は、」
不意打ち。完全に油断していた。
間抜けに開いた口から出た間抜けな声に、いたずらが成功した子供のように笑う。ああもう、顔が熱い。
「ほら、やっぱり真っ赤」
「う、やめてください…」
私が恥ずかしがっているとわかっていて、あえてそう言う。酔っているからなんて気を使うくせに、こういうところは意地悪だ。
「ご期待に添えなくて申し訳ないけど」
「もういいですから…」
「ははっ」
楽しそうに隣へ寝転んだ彼に、思いっきり抱き締められる。少しだけ苦しく思いながらも同じように腕を回せば、さらに力が込められた。
「そのかわりと言ってはなんだけど、今日はゆっくり話をしよう」
「話、ですか…?」
「そう。この前渋谷で寄った店の料理が美味かったとか、東京駅前の小間物屋にお前に似合いそうな髪留めがあったとか、協會の裏手に最近猫が子供を産んだとか」
温かい手が、頬に触れる。
まるで宝物でも愛でるかのような手つきで撫でられ、嬉しそのあまり擦り寄れば、彼も嬉しそうに笑う。
「日常の些細なこと、なんでもいい。お前が感じたものを、俺にも感じさせて?」
きゅう、と心臓が締め付けられた気がした。愛おしさが溢れて、全身が柔らかい何かに包まれたような感覚に陥る。
「…いいんですか?そんなこと言ったら、朝までかかっちゃうかもしれませんよ?」
「構わないさ」
私の前髪をかき上げ額に一つ唇を落とす。甘利さんが以前言っていた、私を飛び切り甘やかしたい時の、合図。
「ふふ、くすぐったいです」
「もう少ししたいから、我慢して?」
「…仕方ないですね、もう」
なんて。本当はたくさん触れてもらえるのが嬉しいのだけれど。
私のどんな言葉も込められて意味をくみ取って優しく笑ってくれるから、彼の言う、ふにゃー、なんて顔になってしまうのは、仕方のないことだと思うんだ。
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