「おかえり♡」
「…なんでいるんですか」

 灯りがついていた時点でおかしいなとは思っていた。泥棒だろうかと一瞬思ったけれど、扉を開けた先にいた笑顔に、その心配は杞憂に終わった。
 …これならまだ泥棒の方が良かったかもしれない。よりにもよって、こんな時間に。
大東亜文化協會から徒歩で十分ほど。歓楽街とは真逆の方向にあるそのアパートは、本格的に機関を設立するにあたりあの男所帯に女一人を放り込むのは如何なものかという周囲の意見から与えられた、新たな生活の場だった。
 といっても機関は貧乏世帯。そんなにいい場所を借りられるわけもなく、女性としては大問題であろう風呂無しという物件だ。かろうじてトイレは個別だが、まあほとんど寝に帰るだけだから別にどうだろうと構わない。それにいざとなれば機関の風呂を借りるし、銭湯だって歩けば近くにある。どうとでもなるのだ。
 その日もいつものように、講義を終え街へ出る彼らを見送り、溜まった書類を片付けていた。ただほんの少し違ったのは、その書類がやたらと多くていつもより時間をくってしまった事。聞けばそのほとんどが参謀本部から送られてきたものらしく、どれだけ目の敵にされているんだと頭が痛くなるほどだった。
 時折々休憩がてら結城さんへお茶を汲んだり体を動かしたりしてたら、いつの間にかどっぷり日が暮れていて。気付けばいつもよりずっと遅い時間に帰路へとついていた。
 今すぐ眠りたいほど疲れたというわけではないけれど、何をしたいかと言われればとりあえず一息つきたいというのが一番だ。一人になる時間はそうそうないので今晩はゆっくりしようと思ったのだが…それは目の前の人物によって見事に打ち砕かれた。
 私の言葉にわざとらしくむすっと口先を尖らせる。感情を隠しもしないなんて、彼にしては珍しい。そう思ったけれど、彼が持つグラスと机の上に置かれた瓶にその理由を瞬時に理解した。人のお酒勝手に飲まないで下さいよ。

「なに、そういうこと言っちゃう?」
「いやだって…さっき皆さんと、今日は何人に声かけられるかとか話してたんで…」
「あんなの嘘だって分かってただろ?」

 嘘だったんですね。正直いつも通りの光景すぎて見抜けなかったし、いちいち気にしてるほど暇でもなかったからあまり聞いていなかったのだ。もしかしたら彼なりのサインを出していたのかもしれないけれど、まあ今となってはどうでもいい。もうこの場に彼がいる事実は変わらないのだから。
 荷物を下ろし靴を脱ぐ。ハンガーへ上着をかけワイシャツのままエプロンを付け台所へ立てば、いつの間か背後にいた神永さんが物珍しそうに私の手元を覗き込んでくる。

「なんか作るのか」
「ええ。今日忙しくて、なにも食べてないんです」
「でもお前、この時間はいつも何も食べないだろ」
「さすがに一日中食べてないと辛くて…まだやる事もありますし、いいかなって」
「なるほど」

 袋から野菜を取り出し軽く洗って一口大に切っていく。福本さんから教えてもらった簡単な野菜炒めは、こうした忙しい日にはとても重宝しているレシピだ。もう何度も作っているから、調味料なんかも全て頭に入っている。

「なに作ってんの」
「野菜炒めです」
「ふーん。俺も食べたい」
「なにか食べて来なかったんですか」
「酒飲んできただけ」

 あの時間に外に出て私が帰るまでの数時間飲んでいたというのに、まだお腹に余裕があるんですね。
 彼は見た目のわりによく食べる。成長期はとっくに終わっているはずなのに、その体のどこに入っているんだってぐらいの量をいつも食べている。いつも一人分じゃ足りなくて、三好さんからおかずを貰っているぐらいだ。まあ波多野さんには敵わないけれど。そういえばあの人も体格のわりによく食べてたな。

「……………」
「……………」
「…………座ってていいですよ?」
「ん?ああ、うん」

 そう返事をしたのに、神永さんは一向に座ろうとしない。それどころかずっと私の背後に張り付いていて、何かをする度にひよこのように付いてくる。
 …気になる。スパイとしての悲しい性なのか、背後に立たれるとどうしても意識がそちらに向いてしまうのだ。同時に複数の事をしながら周囲にも気を配るなんて簡単なことだけれど、こうもべったりだと、やり辛さは拭えない。

「…あの、なにか用ですか?」
「え?」
「いや、ずっとくっついて来てるから…見てても面白いことありませんよ?」
「ああ、別にそういうつもりで見てたんじゃないから」
「はあ…」

じゃあどういうつもりですか。目線にそう込めて見れば、察しのいい彼はすぐに私が言わんとしていることに気が付いた。そしてあの、外で女性を落とす時と同じじ顔つきになる。

「なんか新婚みたいでいいよなあって思って」

 耳元で甘く囁きながらお腹に腕を回わし、さらには肩に顎を乗せ密着してくる。
 落とす時の彼の常套手段だとわかっているのに、背中にあたる体温に不覚にもときめいてしまう。
 が、次の瞬間感じた香水の香りに、ほんの少し高揚していた心は一気に地へと落ちた。この甘さは彼が普段つけているものでない。おそらく声をかけてきた女性のものだろう。なにが新婚だ。

「…それはちょっと遠慮したいですね」
「なんで」
「新婚でこんな香水の匂いつけて帰ってくる旦那さんなんて、絶対に続かないと思うので」
「なに、やきもち?」
「はっ倒しますよ」

 一瞬、どきりと胸がなった。やきもち、要するに嫉妬。そうではないと自分に言い聞かせてきたのに、それをいざ当人に指摘されると動揺してしまう。
 私と神永さんの関係を一言で表すなら「曖昧」が打倒だろう。
 体は重ねる。家にだってこうして勝手に上がって、それを許容している。けれど彼は女性に声をかけるし、なんなら私と寝るより他の女性と寝る回数の方が多いぐらいだ。
 そして私も、必要とあらばどんな男とでも寝るし、彼がふらりといなくなることに関しても特に何も言わない。いや、そちらに関しては、言えないでいるの方が正しいのかもしれないが。
 いっその事開き直ってしまおうかと思った事は、何度もあった。けれどあと一歩のところで私を踏みとどまらせているのは、あの人にスパイとして育てられたプライドと、女としての、ほんの少しの意地。いつか私のことだけを選んでくれるんじゃないかって、そんなことを夢見てる、うすら寒い感情だ。
 こんな考え、きっと笑われてしまう。けれど口にも行動にも出していないのだから、せめて思うぐらいは許してほしい。

「…なあ、」
「なんですか?」
「……なあー、」
「だから、なんですか?」
「…暇」
「ええ…」

 彼は二人きりになると、途端に子供のようになる。口調も普段より崩れているし、わりと我がままを言うようになる。それが悪いというわけではないけれど、なんていうか、きゅんとするからやめて欲しい。彼が一夜を過ごす女性たちにどんな風に接しているのかは知らないけれど、かっこよく声をかけてきたと思ったらこんな甘えられたら、まあ、落とされるよね。
 大きな目でこちらをじっと見つめてくる姿はなんていうか、そう、あれ。犬に似てる。だってほら、なんだか尻尾が見えるもの。構ってもらえなくて垂れ下がってる。あと耳も。

「ご飯食べたかったんじゃないんですか?」
「うーん…あとどれくらい?」
「…二十分ぐらいですね」
「そんなに?」
「待てないんですか?」
「待てない」
「子供じゃないんですから待っててくださいよ」
「やだ」
「やだって…お腹減ったんでしょう?」
「腹は減った。でも暇なのも嫌」

 そんなこと言われても、あとは炒めて、机やらお箸やらの準備をするだけだ。あ、あと協會の台所に残ってたからと貰ってきた煮物を温めるぐらい。二十分って言ったけれど実質そんなにかからないから、せめてそれぐらいは待っていてほしい。

「もう、子供じゃないんですから待っててください」

 なんて言いつつ、まるで子供を叱り付けるような口調になっていることに内心笑ってしまう。
 その言い方が不満だったのか、すぐ横で彼が唇を尖らせたのがわかった。わかりやすい彼の癖だ。不満を感じるとすぐそうした顔をする。そういうところが歳のわりに子供っぽくて可愛いということに気づいてないんだろうな。

「…なあ」
「今度はなんですかー」
「………………」
「神永さん?どうし、」
「結婚しよう」

 くるり。向きを変えられて、視線がぶつかる。肩に添えられた手に、痛いくらい力が込められているのを感じた。
香ばしい匂いに、油がはねる音が背後からする。人参がしんなりしてきたから、次はキャベツともやしを入れなくちゃ。あ、でも先に塩を振らないと味が薄くなる。神永さんは結構味にうるさいから、そこはきちんとしないと。
 人参、もやし、キャベツ、塩と、神永さん。神永さん……?
 頭の中をぐるぐる駆け巡っていた言葉が、目の前で不安そうに歪む顔を見た瞬間、一気にどこかへ飛んでいった。代わりに、理解の追い付いていなかった単語が占領し始める。
 結婚。想い合った男女が、夫婦になること。
スパイとは、見知らぬ土地にたった一人溶け込み、周囲の者たちに疑惑の念を抱かれぬよう妻を娶り、家族を作ることがある。そして任務が完了すると、忽然と姿を消すのだ。
 それは彼だけでなく、私自身も当たり前のように行う行為で。恋慕の情など簡単に作り出せるものだと理解している。だから、

「…本気、ですか」

私のこの言葉は、至極当然のものだと思ってほしい。

「…疑ってるのか」
「そ、れはまあ、そうなるでしょう、普通…」

 痛いところをついてしまったらしい。苦い顔で気まずそうに視線を反らす。
 数秒、あー、だとか、うー、なんて唸った後、何かを決意したかのように「よし!」と大きな声で自らを鼓舞したと思ったら、再び視線が合う。

「なあ、」
「う、は、 はい」
「言っておくけど、これは断じて嘘なんかじゃない。正真正銘、俺自身の言葉だ。スパイだとかそういう事は一切抜きにして考えてほしい」

 早口で捲したてる。肩を掴む手が震えていることに気づく。痛いくらいに込められた力。同じように自分の手も握りしめてしまう。

「俺と結婚するのは嫌か。…嬉しく、ない…?」

 いつもの余裕な笑みはどこへやら。だんだんと小さくなっていく言葉と共に、神永さんは今にも泣きそうな顔になった。その顔に、彼が本気だということを悟る。
 嬉しいかどうかなんて。そんなの、

「…死ぬほど嬉しい、です」

 耳を澄まさないと聞き逃してしまいそうなほど、小さな声だった。普段の自分が見たら情けないと笑っていただろう。けれどそんなこと、今は気にしていられなかった。
 言葉にしたことによってより鮮明になったその単語に、言い知れぬなにかが身体の中を駆け巡って。気付けば、瞬きを忘れた瞳からは温かいものが落ちていた。
 神永さんは突然泣き出した私にとても驚いた顔をしていたけれど、すぐにその大きな手で涙を拭ってくれた。親指が目尻を撫で、次いで唇が触れる。まるで泣く子をあやす父親だ。これじゃあどちらが子供っぽいかなんてわからないな。

「で、でも」
「ん?」
「私、なにも知らない…神永さんのこと、」

 私の言葉に、今気づきましたみたいな顔で目をぱちくりさせる。そうしてしばらく考えるような素振りをした後、楽しそうに目尻を下げて笑った。

「なに言ってるんだ。全部知ってるだろ」

 いつもと同じ。安心する音が、脳内に響く。

「顔も、声も、耳の形も、まつ毛の長さも、お前に触れる手も、抱きしめる体も、その時の体温も、全部」

 一つひとつ、確かめるように触れていく。そうしたら、彼の体温を感じない場所なんて、どこにもなかった。

「それじゃあ駄目?」

 駄目なわけ、ない。
 いつだったか、三好さんが言っていた。名前や経歴なんて、その個人を認識するためのものにすぎない。結局はその人物がどんな性格をしてるのか、どんなものが好きで、どんなことがしたいのか。それが自分と合っていて、一緒にいたいと思えるかどうかが重要なのだと。
 ああ、そうだ。一番最初に知るであろうそれを知らないけれど、それ以外の全ては知っているんだ。それを理解した上で彼の言葉を嬉しいと思えているのなら、一緒にいる理由なんて、それだけで充分じゃないか。

「あ、あとはどこが感じるかも」
「……この流れでそれ言いますか」
「だってお前がこんなに泣くと思わなくて。笑わせようと思ったんだけど」
「もっと別のこともあったでしょう…」
「面白くなかった?」
「…今は面白かったって言っておきます」
「そりゃどーも」

 嬉しそうにそう呟く神永さんの唇が額に触れる。こめかみ、瞼、鼻先、頬、数秒交わる、視線。そのままゆっくりと重なる唇から伝わる熱がひどく心地よくて、止まったはずの涙がこぼれるのを感じた。
 深夜十二時、少し焦げた野菜炒め、古びたアパート。
 きっと明日も私はここで、具材が変わっただけの野菜炒め作るのだろう。そしてそれを嬉しそうに食べる神永さんの正面で、同じように笑う私。
 この幸福感の、なんと形容しがたいことか。



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