三好さんが街へ出ると言った時、両手をポケットから出していたなら、それは合図だ。大東亞文化協會から西に一キロほど歩いた所にある連れ込み宿の、伍階一番右端の部屋。普段共にいる事の出来ない私達が、唯一恋人として過ごせる場所。

「一本、良いですか」
「…駄目で、」

 最後まで言い終わる前に、三好さんは煙草へと火を着けていた。枕元に置かれたランプの灯りだけの薄暗い部屋に、煙草の僅かな灯りが加わる。吐き出された煙に煙に視界があっという間に薄白くなった。

「駄目って言ったのに…」
「すいません、聞いた時にはもう火着けてたんで」
「それ聞く気ありませんでしたよね」

 ええ、と楽しそうに返事をする姿に、相変わらずだと思った。出会った時からこの人はこうだった。機関のほぼ全員に言える事だけれど、この人の胡散臭さは頭一つ抜きん出ていると思う。飄々とした態度はわざと作っているものなのか、それとも元来の性格なのか。その辺りはあえて詮索しないようにしている。それはきっと三好さんも同じだ。

「臭いがつくんですよ」
「煙草の?」
「はい。私吸わないのに臭いつくなんて可笑しいでしょう?この前甘利さんに、吸った?なんて聞かれちゃって。冷や汗かきました」

 私は煙草を一切吸わないし、いくら彼らと同じ屋根の下過ごしているとはいえ、臭いがつくほど常に近くにいる訳ではない。だからこそ私から煙草の臭いがすると、勘がいい人、例えばこの場合は甘利さんとか。そういった人に、誰かと過ごしていたと一瞬でばれてしまうのだ。あれには少し焦った。

「良いですね、そういうスリル」
「スリルになら普段身を投じてるでしょう…だいたい、味わったのは三好さんでなく私なんですけど」

 すみませんと謝りつつも、悪びれた様子はない。それどころか誤魔化すように空いた手が私の頭を撫でてくるのだから、こちらも何も言えなくなってしまう。
 男性にしては華奢な、けれど女性とは違う逞しさを持ったその手に撫でられるのが好きなことを、きっと彼は知らない。

「ナマエさんは煙草、嫌いでしたっけ」
「…どうしたんですかいきなり」
「何となく気になったものですから」
「今更ですね」
「ええ。今更ついでに、教えていただけませんか」
「…嫌いとか好きとか、そういう風に考えたことはありません。でもまあ、皆さん吸われてますから、美味しいのかなと思った事はありますけど」

 臭いからして美味しいとは到底思えないけれど、あれだけの数吸われたら気になってしまうのは仕方のないことだと思う。ああでも、吸っているのに三好さんはあまり臭わないな。香水を付けているとはいえ、彼は元々良い香りがするからだろうか。

「よければ吸ってみますか?」

 口元へ差し出されたそれは、三好さんが咥えていたせいか、噛み潰していた部分が少し湿っている。その生々しさに、思わずどきりとしてしまう。

「…いいです。今度こそ臭いが付きそうなので」
「それは残念」

 そう言って再び煙草を咥え、ゆっくりと吸い込んでいく姿を横目で見る。伏せられた長い睫毛が頬に影を落としていて、さながら彫刻のようだと思った。黙っていれば隣を歩くのすら遠慮してしまうぐらい美人なのに、口を開けば皮肉ばかりだからもったいない。
 機関内でも身長は低い方だし、ヒールを履いて仕舞えば私と目線はほとんど変わらない。けれどその立ち振る舞いはやはり私とは違って、男性らしさがある。その違いが、なんとも心ざわつかせるのだ。
 じっと見つめていれば、ばちり、視線が合う。数秒見つめ合って、煙草を灰皿に押し付ける。そのまま流れるように近づいてくる端正な顔に瞳を閉じれば、少し乾いた唇が触れた。

「ん…」
「んぅ、ん…っ!」

 僅かに開いた隙間からするりと入り込んできた舌に、されるがまま唇を開けば、口内へ一気に広がる苦味と煙。
 まずい、噎せる。焦って三好さんの肩を押せば、意外にもすんなりと唇は離れた。咳と共に煙を吐き出せば、喉に走るほんの少しの痛み。

「〜げほっ、な、にするんです、かっ、」
「どうですか?」
「は、っけほ、なにが、」
「味ですよ。気になってたんでしょう?」
「……苦かったです…」
「そうですか」

 そうですか、じゃないですよまったく。思わず滲んだ涙を拭うように枕へ顔を押し付ければ、後頭部に柔らかい感触。ちらりと視線を上げれば、私の髪に顔を埋めすんすんと匂いを嗅ぐ三好さんと目が合う。

「ちょっ、汗かいてるんで止めた方が…」
「心配しなくても、微かに香る程度ですよ」
「…それは汗ですか?それとも煙草の?」
「両方です」
「…汗かいて煙草の臭いまでしたら、確実に何してたか気付かれますね」
「あと僕の香水の匂いも少し」
「もっとまずいやつですよ!」
「神永辺りは匂いに敏感なので、気付くかもしれませんね」
「……そうなったら、困るのは三好さんじゃないですか」
「…そんなこと。僕はとても嬉しいですよ。あなたが僕のものだと、皆さんに分かってもらえるじゃないですか」

 泣きたくなった。この人は、そうしていとも容易く愛を囁くのだ。お互いの本当の名前さえ知らぬ者同士が愛を確かめ合うなんて、これほど滑稽な事があるだろうか。私が今何を考えているか、この人はきっと気付いてる。それでも、まるで壊れ物に触れるかのように唇を落としてくるのは、この関係の終わりを考えるのが、酷く怖いから。
 未来なんて、希望なんてない。あるのは、真っ暗な孤独だけ。いつかこの気持ちも殺して、私達は生きていかなければならないのだ。

「っあ…みよし、さ、」
「ん、」

 触れ合う度流れ込んでくるこの苦味と僅かな甘さを、私は一生忘れる事が出来ないだろう。それはたった少しの生きる希望と、彼がたしかに私を愛してくれていたという証明に他ならないからだ。


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