薔薇の花を一輪。それと、銀色の指輪。私だけでなく、食堂にいた全員が目を見開いていて。けれど彼はそんなの気にする様子もなく、さらに言えば恥ずかしがる様子もなく、私の手を握り言ったのだ。
「俺と、結婚してください」
なにかが触れている感覚に目を開けば、そこには頬杖をつきながら笑顔でこちらを見る田崎さんの姿があった。窓から漏れる光に今が朝で、何かの感覚は彼が私の頭を撫でているものだと、ぼやけた頭で理解する。
「おはよう」
「…おはようございます」
顔にかかっていた髪を払われ、額に小さく唇が落とされる。そのくすぐったさに身をよじれば、彼が小さく笑ったのがわかった。
機関があった神田からいくつも電車を乗り継いだ場所にある、少し古びた住宅。二人で暮らすには十分な広さのそこは長い間住民がいない空き家でほとんど手つかずの状態だったらしく、全て自分たちでなんとかするならという条件のもと安く譲ってもらったものだ。
何故わざわざそうまでしてそこにしたのかは、探していた際の田崎さんの一言が理由だった。
──扉を開けて一番最初に目に入るのは台所がいい。
その言葉に、私も、相談を受けていた店主も驚いていて。どうしてですかと、予想もしていなかった面白い理由に笑いながら問えば、少しだけ照れ臭そうに「安心するんだ」と呟いた。
それを聞いた瞬間、持っていた間取り図を勢いよく店主に差し出し、ここにしますと言っていた。彼はとても驚いていたけれど、すぐに嬉しそうに笑ったのを覚えている。
「何か夢でも見てたのか?」
「…どうしてですか?」
「ずいぶん幸せそうに寝言を言ってた」
「…う、嘘!」
「本当だよ」
あの日の、この生活を始めるきっかけとなった田崎さんの告白が夢に出てきたのは本当だけど、まさか寝言まで言っていたとは。予想もしていなかった気の抜けっぷりに恥ずかしさが込み上げてくる。何か変なこととか言ってないといいけど。
「まだ寝るか?」
「いえ、もう起きます…」
「ん。じゃあとりあえず風呂に入らないとな」
ちらりと私の格好を見ながら田崎さんは言った。そういえば寝ぼけてて気にしていなかったけれど、昨日はそのまま寝てしまったから体がべたべたしているのだ。意識してしまうと途端に感じる不快感。それに、肌寒いからと何となしに着ていたしわだらけの彼のワイシャツも洗わなければならない。
「そうだ」
「?」
「せっかくだから、お湯張って一緒に入ろう」
「……まだ昼ですよ?」
「昼に入っちゃいけないなんて事はないだろ?」
「それは…そうですけど」
「じゃあ決まり。早く脱いで」
昨晩と同じ台詞を、今度は子供に聞かせる親のように言う。私が返事をする前にボタンを外していく指先は、心なしか楽しそうだ。
「自分でできますよ」
「俺がやりたいんだよ」
ここに暮らし始めてからというもの、田崎さんはやたらと私の世話をしたがるようになった。着替えに始まり、髪を整えるのも、化粧をするのも、果てには着るもの買う物の選択まで彼がするようになった。これだけ聞くとまるで子供の世話をしているようだけれど、そこには見返りとでもいうように夜の行為も入っているのだから、なんとも言えない。
けれどそれも嫌な気はしない。何もかも自分でやっていたあの頃に比べて、誰かに何かをしてもらうというのはとても嬉しい。それが恋人となれば、なおさら。
とまるボタンは残り一つ。田崎さんの指がそれにかかった瞬間、なんとも間抜けな音が響いた。
「……………」
「………ふっ、」
「わ、笑わないでください!」
「はは、ごめんごめん。そうだな、何か食べようか」
「冷蔵庫、何があったんでしたっけ…」
「野菜が少しと…あとベーコンに、食パンかな」
「ああ、だったら野菜スープ作りますね。それにパンでいいですか?」
「そうか、その手があったな。野菜炒めしか思い付かなかった」
「…田崎さんって変なところで抜けてますね」
「料理はあまり得意でないからな」
「田崎さんが料理できないなんて、最初は驚きましたよ」
「どうして?」
「だって、できない事は無いのが貴方達だったじゃないですか」
「理解はしていたさ。ただ、実際に手を動かすとなるとな。料理は手順が大事だろう?」
「まあ、確かにそうですけど…そんなに難しいことですかね?」
「できるやつはみんなそう言うんだよ」
ほんの少しだけ口を尖らせそう呟く田崎さんに、そういえばと思い出す。
学校が出来たばかりの頃、給仕さんを雇うお金なんてないから掃除洗濯は自分たちで全て交代で行っていたのだが、料理だけはセンスもあるから当番はまずいという事になり、機関生の中で一番上手い人にやらせようと話し合いで決まったのだ。その決定のために開かれた調理大会なるもので、田崎さんはぶっちぎりの最下位を獲得してしまったらしく…それ以来彼は料理に関してだけは何もしないようにしている。といっても一般的に見れば普通に上手い部類なので時々手伝ってもらってはいるが。
ちなみに作ったものは玉子焼きにおみおつけという、いたって普通の献立。ならば何が原因だったのか。後々福本さんから聞いた話によると、どうやら大体の原因は手順にあったらしい。
おみおつけの出汁を取るためにお湯を沸かすのを忘れてしまう、中身の野菜を切っている間に玉子焼きを焦がしてしまう、米を炊き忘れる、などなど…聞けばなんとも可愛らしい失敗ばかりなのだけれど、本人にとってはそれなりにショックだったらしく。それを聞いた私は、彼にもできないことがあるのだなとその光景を想像して微笑ましくなったし、なにより私がしてあげられることがあるのだと嬉しく思ったのだが、まあ不機嫌になるのでそれは言わないでおく。
「…なに笑ってるんだ」
「いえ、別に…ふふ」
「……………」
「わ!」
ボタンを外し終えたシャツは肩から抜かれ、ベッドの下に放り投げられた。あ、と思う間も無く体重をかけられた体は再びシーツの上に寝転ぶ。驚いて彼を見れば、至極楽しそうな顔。あれ、なんか、嫌な予感。
「た、田崎さん?」
「なあ、」
「…はい?」
「ご飯とお風呂、どっちが先がいい?」
「…お風呂に入りたいです」
「それは良かった」
その言葉に、彼がなにをしようとしているのかを察する。察してしまう。慌てて起き上がろうとするも、胸元へと落ちてきた唇にそれも叶わなくなる。ちう、とやけに可愛らしい音を立てて吸われ、痕が残されたのだと見なくてもわかった。
「ちょ、田崎さん…」
「ん?」
「ん?じゃなくて。お風呂、入るんじゃなかったんですか」
「お湯が溜まるまで、まだ時間があるだろう?」
溜まるまでもなにも、まだ蛇口を捻っていないし、ましてやバスタブを洗ってすらいない。冗談にしてはいささか笑えないなと思いつつも、触れる舌の熱さにすっかりその気になってしまった体は、いやらしくも彼を求め始める。
「ん、ふあっ、」
「ん…」
近づいてきた顔に瞳を閉じれば、唇が重なる。そのまま入り込んでき舌と絡めれば、あっという間に息苦しくなる。でも、嫌じゃない苦しさだ。
さっきまでべたつきに不快感を感じていたのに、そんなものは何処かへ行ってしまった。縋るようにその背にゆっくりと腕を回せば、隙間がなくなるぐらい強く抱きしめられた。
「流すぞ」
「はーい」
目をつむれば、頭の上からお湯をかけられ泡が流れていく。数度それを繰り返した後、もういいよと声をかけられ瞳を開く。後ろで新たに泡を立てる音がしているから、おそらく次は体だろうと予想すれば、案の定腕を取られ丁寧に泡が肌を滑っていく。
毎日一緒に入って、お互いを洗い合う。暮らし始めた最初の日に決めたルールだ。なんというか、随分馬鹿みたいな取り決めだなとは思うけれど、やってみれば存外楽しくて。今では大切なコミュニケーションの一つになっている。
ようやく溜まったお湯に足先をつけ、溢れないようゆっくりとつかる。先に湯船に入った彼の胸に背中を預けるように座れば、自然とお腹に腕が回された。
二人で入ってもゆっくり足を伸ばせる猫脚のバスタブは、海外の家具だけを扱う店でわざわざ買ってきたものだった。以前英国にいた際使用していたく感動したらしく、それに合わせるために浴室だけ壁から床から全て作り直したのだ。おかげでこの家は木造建築の中にタイル張りの洋風浴室を兼ね備えた、なんともちぐはぐな家になってしまったのだが、どちらにしろ元々あった風呂釜は古いこともあって建て替えなければいけなかったのだし、結果オーライというやつだ。慣れればなんてことはない。
彼の肩に頭を乗せ見上げれば、綺麗な白い首筋にうっすら痕がついていることに気がつく。そういえば昨日つけてほしいと言われて、恥ずかしい思いをしながらも必死につけたのだ。ぼんやりそんなことを思い出しながらそこへ唇を落とせば、油断していたのか彼の肩がびくりと跳ねる。
「どうした?」
「一つだけついてたんで、なんとなく」
「珍しいな。またつけてくれるのか」
「もうつけませーん」
後から知ったことだけれど、彼は痕をつけられるのが意外と好きらしい。今までは訓練で女性を口説くこともあったからあまりつけないようにと私に言っていたし、なにより私自身もそこまで独占欲が強いわけではなかったから、お互いそういった事はしてこなかった。
けれど、卒業し本格的に任務に就くようになってからというもの、その意見は彼の意思とは全く正反対だったという事を知る。むしろどんどんつけてくれ!ぐらいの勢いで私にもつけてくるものだから、何か心境の変化があったのかと思うほどだった。
今では自分の体を見れば、彼の唇が触れていない場所はないんじゃないかってぐらいいたる所に痕がついている。加えて、それらは消えることがほぼない。首から無くなったと思ったら、今度は足についているなんてことが当たり前になっていて、少し如何なものかと思う。
けれど本人にそう言えば、服を着れば見えないような所につけているし、なによりすぐ消えるから大丈夫だと返される。違う、そういう事ではない。いくら言っても無駄だとわかっているから、それ以上は何も言わないのだけれど。
「これからどうしようか?」
私の髪を指先で弄りながら訪ねてくる。うーん、そうだなあまずは、
「ご飯を食べましょう」
彼にはしては珍しく、ぽかんと口を開けて数秒。色気がないなって呆れた顔。
「そんなに腹が減ってたのか」
「どこかの誰かさんがご飯食べる前に押し倒してきたもので」
「それは仕方ないな。彼も男だから、我慢できなかったんだ」
「そういう訓練も受けてきたのに、そこは我慢しないと駄目ですよね」
「好いた相手が自分の服を着て、まして裸で目の前にいたら、どんな男も狼になるさ」
好いた相手。不意打ちに少し照れてしまう。何気ない会話でもこうして甘い言葉を囁かれるのは、未だに慣れない。彼が女性を口説く場面なんてたくさん見てきたし、それどころかあの頃だって、まだそんな仲にはなっていなかった私にも「今日の髪型いいね」とか「一緒に食事でもどう?」と神永さん顔負けの言葉を吐いていたのに。それに照れずにいたのは冗談だと分かっていたからなのだけれど、いざこうしてきちんと「私」みて言っているのだとわかっていると話は別だ。しかも彼にはその考えさえ知られてしまっているということが、さらに恥ずかしさを上塗りしてくる。
「そろそろ上がるか」
うなじに一つキスを落とし、腹に回した腕を脇へ移動させ軽々と持ち上げられる。そのまま脱衣場へと連れて行かれ用意していたタオルで全身を拭かれると、その柔らかさに思わず顔が緩む。
「飯を食べたら、お前が欲しがってたワンピースを買いに街へ出よう。あと、食べたがってたケーキの店にも」
「…いいんですか?」
「無理をさせたからな」
「じゃあ、帰りに少し歩いて公園に行きましょう?沈丁花の花が咲いてて、すごく綺麗なんですよ」
「ああ、そうだな」
肩にタオルをかけ、手を引かれるままリビングへ連れて行かれる。鏡台の椅子に座らされ、体を洗われたのと同じように、今度はクリームを乗せた手が肌の上を滑る。全身からする甘い香りは、以前彼が好きだと言っていたものだ。
最後にほんの少し粉を叩けばお風呂上がりのケアは終了。まだ出かけるまでは時間があるからと、洗濯しておいた下着と部屋着を渡されもそもそと着替えれば、隣では田崎さんが箪笥を漁っていた。あんなに時間をかけてじっくり私の世話を焼いていたのに、自分のこととなると彼は少し雑になる。現に今だって、私が服を着るほんの数分の間に同じように服を着終え、髪についた水滴を拭う事もせず箪笥を漁り始めているのだから。
「田崎さん、ちゃんと拭かないと風邪ひきますよ」
「ん、ああ」
「もう…何探して、」
「あ、あった。今日はこれ」
そう言って取り出したのは、レースをあしらった白いブラウスと淡い水色のスカート。これにヒールを履けば、田崎さんお気に入りのファッションの出来上がりだ。
「…田崎さん、この格好好きですね」
「ああ、お前に一番似合うからな」
「そうですか?なんていうか…可愛すぎません?」
「そんなことないよ」
服の裾を私の肩口に合わせ何度か瞬きをする。きっと今日の化粧の仕方でも考えているのだろう。この間淡い桃色の口紅を買ったから、もしかしたらそれを付けるのかな。
暫くしてようやく考えがまとまったのか、満足げに頷く。
「…田崎さんって、白が好きなんですか?」
「どうして?」
「だって、選ぶもの全部白とか、淡い色のものが多いじゃないですか」
「ああ、そういう事か。別に白が好きなわけではないよ」
じゃあどうしてですか。私がそう口を開く前に、彼は全てわかっているといわんばかりに優しく微笑む。そしてほんの少し、あの切れ長な目がきゅうと垂れる。
あ、私の好きな顔。
「いつも真っ黒なスーツばかり着て、もったいないと思ってたんだ。お前には明るい色が似合うのに」
頬を撫でる手や、その声色。スパイとしてではなく、彼に愛された一人の女として、その言葉がすんなりと私の中へと入り込んできた。
「それに白って、花嫁みたいでいいだろ?」
「…さすがにそれは違いすぎますよ」
「気分だよ。こういうのは」
ああ、何て言うんだったか、この感覚は。ふわふわして、きらきらしてて。
想像もしてなかった。できなかった。幸せだなんて単語は自分とは一番縁遠い場所にいたものだと思っていたし、そもそも誰かとともにいることすら考えたこともなかったというのに。窓から差し込む光と、私を見て楽しそうに笑う田崎さんに、心まであたたかくなった。
あいかわらず彼の本名は知らないし、任務ともなればお互いのことなんて忘れて、他の誰かを愛することだってある。それでも何故か、この時だけは永遠に続くという、妙な確信がある。
「飯、作ろう。俺も手伝うから」
ああなんて、幸せなんだろう。
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