ぱちりと目が覚める。瞳を閉じる直前まで隣にいたはずの姿はどこにもなくて。触れて感じる体温もないことから、いなくなったのは随分前だということを察する。
起き上がり固まった体ほぐすように伸びをすれば、こきん首が鳴った。人の腕に頭を乗せて寝るというのは少女漫画の王道だけれど、本当にやるとなると肩が凝るのだと、ここに来て初めて知った。それでもあの人はこれをしたがるから、私にとやかく言うことはできないのだけれど。
名残惜しく思いながらも心地よいシーツから抜け出す。ペタペタ音を立ててリビングへと続く扉へ近寄れば、わずかに感じていた香りが徐々に強くなる。この匂いは、お味噌汁だ。
「…おはようございます」
大きな背中に声をかければ、動かしていた手を止め振り向く。眠そうに少しだけ垂れた目は、あの時から何を考えているのかわからない。
「おはよう。ちょうどよかった、そろそろ起こそうと思ってたんだ」
今時珍しい割烹着を脱ぎ、椅子にかけていた灰色のジャケットを羽織る。少し乱れていたネクタイを直せば、彼がいつも仕事へと向かう格好になった。横目で見た時計の針はまだ七を指している。彼が家を出る時間はまだ三十分は後のはずなのだけれど。
ナマエ。ぼけっとその姿を眺めていると、まるで子猫でも呼ぶように名前を呼ばれ、手招きをされる。素直に近寄ると、これまた子猫を愛でるように頭を撫でられた。
「悪いな。今日は早く行かなきゃいけない日なんだ」
「…そう、ですか」
「食事の用意はしておいたから、ゆっくり食べろ」
「…わかりました」
返事をする間にも彼の手はするすると移動し、最終的に私の後頭部へと添えられる。上を向かされ、ゆっくりと近づく彼の顔。ちゅ、と可愛らしい音を立てて一瞬だけ触れた唇は、ほんの少しかさついていた。
「いってくる」
再び優しく頭を撫で、私の返事も聞かず彼は部屋を出た。がちゃりと閉められた鍵の音を聞きながら自分の頬に触れる。熱い。
おぼつかない足取りで部屋の奥へと進み、大きいサンダルを履いてベランダへ出れば、彼の背が道の先に小さく見える。なんとなしにその背を見つめ続け、曲がり角で見えなくなった瞬間、吹いた風に髪をさらわれた。
不意に感じた冷たさに思い出す。あの日からもう、四ヶ月が経ったのだ。
親の転勤が理由でなんとも中途半端な時期に転入する事となったその私立中学は、小学校からのエスカレーター式ということもあり常に行動を共にする人、いわゆる仲の良いグループというものがすでに出来上がっている所だった。
そんな所に飛び込んだものだから、まあ当たり前のように友達はできず。別段いじめられているというわけではないけれど、特に仲の良い友達というものもいなかった。
それに不満があったわけでも、悲しみを感じていたわけでもない。それにどうせ進学先は別。あと少しの関わりだと残りの学生生活を過ごしていた時、その人は現れた。
「やっと見つけた」
夕暮れ時。人通りの少ない道で聞こえた、低い声。どこかで聞いたことがあるような、けれどどこかはわからない、そんな声。
それが誰なのか、何なのかを確認する前に、次の瞬間には視界は真っ暗になっていて。徐々に遠くなるその声が、どこか嬉しそうだったのだけは覚えている。
忘れもしない、六月十五日。壁に掛けられたカレンダーはあれから四度切られ、今は十月になっていた。
彼の名は福本というらしい。歳は二十代後半で、料理が得意。普段はあまり喋らないけれど、アイドルのこととなると途端に饒舌になる。職業は驚くことに、警察らしい。信ぴょう性は定かではないが、もし本当だとしたら警察が誘拐に加え軟禁なんてしていいのだろうか。いや、警察でなくてもしてはいけないのだけれど。
住んでいる部屋は一人暮らしにしては少し広めな2LDKのマンション、三階角部屋。日当たり良好で、ベランダではシソの葉やらトマトやらを育てている。見た目に似合わず意外と家庭的。
全部屋冷暖房はついてるし、大きなテレビもある。外へ出ることは許されていないものの、それでも不自由しないほどの贅沢を与えてもらっている。
本来ならすぐにでも泣いて喚いて、隙があればでも逃げ出すべきなのだろうけれど、なぜかそんな気は起きなかった。暗闇から目を覚ました瞬間から、私の頭はただただ当たり前のようにこの出来事を受け入れていた。なにより、
「ナマエ」
あの低い声で名を呼ばれると、身体のどこかが、懐かしさで震えるのだ。
見たことも、会ったこともない筈なのに。
「…福本さん」
そして私が彼の名を呼ぶたび、あの人もとても嬉しそうに口角を上げる。それを見るたび、これが幸せなのだと感じる。
「…………朝ごはん」
大きく育ったシソの葉を一枚千切り、部屋の中へと戻る。福本さんのご飯はとてもおいしいから、それほど好きでもなかった味噌汁も毎日飲むようになった。福本さんが可愛いと言ってくれるから、もう少し女らしくしようと思えた。福本さんが嬉しそうにしてくれるから、誰かに何かをしてあげたいと思うようになった。全部、福本さんがいるから。
どこかでかちりとピースがはまったような気がした。根底にあるなにかが、脱出の気をゆるやかに溶かしていく。
出会ったあの日から、彼が私の世界の全てになった。
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