夢を見る。
今よりほんの少し昔の風景。教科書で何度か見たようなその中に、私がいる。誰かと並んで歩いて、手が触れ合う度ときめいて。目が合えば、彼も私も嬉しそうに笑う。
幸せだった。彼がいれば他になにもいらないと、本気で思えた。
彼って、誰。
けたたましく鳴るチャイムに目が覚める。重たい頭を持ち上げ眩しさに細めた目でテレビの端に表示された時計を見れば、二十三と表示されていた。
今日は遅くなるからと事前に用意されていたご飯を食べてからお風呂に入り、リビングでドラマを見ていたのだけれど、どうやら眠ってしまっていたらしい。
最近特になにをしているわけでもないのに、ひどく眠たい。日中暇というのもあるのだろうけれどそれにしたってこの眠さは異常だ。何か病気だろうか。陽に当たらなさすぎて、とか。はは、笑える。
未だ鳴らされるチャイムに意識を向け、考える。このマンションは新聞の勧誘や訪問販売は管理人さんの所で止められるし、郵便物に関しても管理人さんが居住者の代理で受け取り部屋のポストまで届けてくれるという、極力人と会わないで過ごせる場所だ。だからこそ人が訪ねてくることは本当に稀で。ましてやこんな時間に管理人さんに通してもらえたということは、ここの住人もしくは居住者の知り合いということだ。
どうしたものか。ここに来たばかりの頃、福本さんに「誰が来ても絶対に出るな」ときつく言われていた。だから普段は、まあほとんど人なんて来ないのだけれど、絶対に扉は開けないようにしている。ならば今回も同じように居留守をつかえばいいのだけれど…なんていうか。この鬼気迫る感じの鳴らし方は、受け流すにしてはいささか気になる。あと単純にうるさいし、近所迷惑。
なにかに背中を押されるようになるべく音を立てずに扉へ近づき、覗き穴から外を伺う。そこにはある意味予想通りと言うべきか。その大きな体を力なく俯かせる福本さんと、彼を支える見知らぬ顔がいた。
茶色の所々跳ねた髪に、こちらから見てもわかるぐらい垂れた大きな瞳。人懐っこそうな顔は、おそらく女性にもてるだろう。福本さんを重そうに抱え直し、再度チャイムを押す。若干眉間にしわを寄せじっとこちらを見る瞳に、覗いていることが勘付かれたような気がした。
言いつけを守るのならば居留守を使うべきなのだろうけれど、福本さんの姿があるのならば放っておくわけにはいかない。それに、わざわざチャイムを鳴らしたということは、彼は中に人がいることに気づいているということだ。でなければ福本さんの鞄の中でも漁ってさっさと鍵を出しているはずだし。
しかたない。意を決して鍵を外し、ゆっくり扉を開く。隙間から顔を覗かせれば、私の姿を確認した途端、垂れた瞳は驚いたように見開かれた。
「…ナマエ?」
「…え?」
思わず出てしまった間抜けな声に、彼の表情はみるみる明るくなっていく。今この人、私の名前呼んだ?
「やっぱり。ナマエだろ」
「え、えっと」
「なんだよお前、いたならさっさと連絡よこせよ。お前だけいないのかと思って皆心配してたんだぞ」
「え、」
「一緒に暮らしてるのか?福本なにも言わなかったからまだ会えてないのかと…」
「あ、あの、」
「ん?そういえばお前、なんか縮んだ?あの頃はもっと背高かったよな」
矢継ぎ早に投げかけられる質問に戸惑い答えられずにいると、目の前の彼は何かに気づいたように視線を上から下へと滑らせた。
数分考えるような素振りをした後、再び眉間にしわを寄せ、それまで軽口を叩いていたのが嘘のように神妙な面持ちになる。
「お前、今いくつ、」
「神永」
低く、重たい声が、夜の静かな空気に響いた。ずっと眠っていると思っていた体はゆっくりと立ち上がり、彼から私を隠すように部屋の中へと入ってくる。
「ふ、ふくもとさ、」
「悪い、もう大丈夫だから。今日のところは帰ってもらえないか」
普段の福本さんからは想像もできないような声に、何か発しようと開かれていた見知らぬ彼の口は思いとどまったよう閉じられた。
「……明日ちゃんと説明しろよ」
不満げな彼の言葉に「ああ」と小さく返事をするや否や、勢いよく扉が閉められる。がちゃりとかけられた鍵の音が、耳の奥でこだまする。
「ナマエ」
名を呼ばれ、恐怖で固まっていた体がびくりと跳ねる。しまった、明らかに怒っている人に対してこの態度は煽るだけだ。
案の定小さく舌打ちをした福本さんは、私の腕を掴み引きずるような形で部屋の奥へと進んでいく。
「っい、痛いです!福本さん!」
非難の声を上げるも聞いてもらえず、むしろさらに力が込められる。そのまま明かりのついていない寝室へと連れ込まれ、二人で寝るにはやや小さいベットへと放り投げられた。
こんな乱暴なことを福本さんがするなんてと半ば信じられない気持ちで彼を見れば、リビングから漏れる明かりで確認できる程度だけれど、その目は明らかに怒りを含んでいた。
「どうして出た。絶対に出るなと言っただろう」
得体の知れない何かと会話をしているようだった。普段から低い声はさらに低くなり、呼吸することすらはばかられるような空気が漂う。
返事をしなければ。そう思っているのに、喉から出るのはひゅうひゅうと情けない音だけだった。
「…そのまま逃げ出すつもりだったか?」
「っ、」
「俺が無理矢理ここに連れてきたんだ。そう考えるのは自然だよな」
自分で言っているのに、どこか寂しそうで。そうして合うのはこの前と同じ、誰を見ているのかわからない、あの瞳。
「っ、ん!」
言葉を発しようとした瞬間腕を掴まれ、大きな体が覆いかぶさってくる。気付いた時には、視界が福本さんでいっぱいになっていた。
「ふ、くもとさ、っ!」
重ねられた唇の端から、にゅるりとなにかが入り込んでくる。途端に口内で好き勝手に暴れ始めたそれは、痛いぐらいに私の舌と絡んだ。
これ、福本さんの、舌
そう頭が理解した瞬間、全身が粟立つのを感じた。
福本さんはまるで恋人のように私の世話を焼いてくれたけれど、決してキス以上の行為をしてこなかった。だから私は、彼と共にいることになんの恐怖も感じていなかったというのは、理由の一つとしてある。そしてそのキスだって、大人の彼からしたら可愛いものであろう、触れる程度のものだった。
だから知らない。こんな、全てを蹂躙するようなキスは。
「っんぐ、ふ、んんんっ」
目の前の人が、途端に知らない男のように思えてきて。怖い。その感情だけが体を支配していく。
押さえつけられた腕を動かし必死に抵抗するけれど、全てが意味をなさなかった。当たり前だ。福本さんはそれなりに体格もいいし、なにより成人男性なのだ。中学生の、ましてや女の腕を抑えつけるのなんて、赤子の手をひねるより簡単だろう。
息が苦しくなり、頭がぼうっとしてくる。そろそろ気を失うんじゃないかと本気で思った頃、ようやく唇が離された。
端から溢れた唾液を、さっきまで好き勝手にしていたとは思えないぐらい優しく、彼の舌が舐めとる。至近距離で交わった視線は、まるであの時のようだった。
「…今度はもう、どこにもいかせない」
耳元で囁かれる言葉に、身体はまるで人形にでもなってしまったかのように動かなかった。
再び口づけられる。絡まる吐息と触れる手の熱さが、どこか非現実的で。頭の中で彼の言葉を繰り返して、何故だかわからないけれど涙が溢れた。
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