「ナマエ」

 かちゃかちゃと食器が重なる音と水を流す音が止まり、代わりに低い声が響いた。追っていた文字から目線をそちらへ移せば、脱いだ割烹着を畳んでいる福本さんと目が合った。

「買い物に行くが、お前も来るか?」
「行きます!」

 彼が言い切るや否や返事をすれば、小さく笑いながらいつもの買い物かごを持ち「じゃあ準備しろ」と言われる。
 背もたれへかけていたジャケットを着て、すでに準備を終えている福本さんの後について外へ出た。




 今日の献立は小田切さんリクエストの秋刀魚らしい。あとは豆腐のお味噌汁と、ホウレン草のおひたし。福本さんのお味噌汁はとても私好みの味で、密かに毎日の楽しみになっているのだ。
 八百屋でいくつか野菜を買い、あとは協會に一番近い魚屋で秋刀魚買えば終わりというところで、空が曇り始めている事に気が付いた。魚屋の主人と世間話をする福本さんの後ろで、干したままだった洗濯物の事を思い出す。帰ったら急いで取り込まないと、干してきたのは全員分のシーツだったから、このままでは夜全員寝床がない状態になってしまう。
 そんな心配をしながらぼうっと空を眺めていた時、不意に足元で何かが動く気配がした。驚いて視線を落とせば、宝石のように輝く金色が見えた。あ、と漏れる声と同時ににゃあという鳴き声。

「どうしたの、こんな所で」

しゃがみ込み手を差し出せば、小さな舌でペロリと舐められる。どこかで飼われているのだろうか、えらく人懐っこい猫だ。

「君、名前は?」

 返事があるわけないとわかってはいるけれどつい聞いてしまうのは、可愛いものに出会った時の人間の性だと思う。喉の下辺りを撫でてやればゴロゴロと気持ちよさそうにしている。

「ナマエ、急にいなくなるな」

 話を終えたらしく、どこか呆れた顔の福本さんに頭を小突かれた。そういえば以前も、気になった事があるとすぐそちらに意識がいってしまい子供のようで危なっかしいと怒られたばかりだったのだ。どうも福本さんの前では
自分をうまく偽る事が出来なくなってしまう。心の底から信頼しているからなのか、それとも私という人間の本質なのか。正直まだわからない。

「すみません。猫がいたもので…」
「猫…ああ、こいつか」
「ご存知なんですか?」
「この前世話になってな」

 この前という事は、私が任務でいなかった期間の事だろう。となると参謀本部がまた何かやらかそうとしていた件か。波多野さんがそんな事言ってた気がする。
 しゃがみこむ私の隣に同じ様にしゃがんだ福本さんに、驚く事に猫は自分から近寄っていった。そしてその足に体を摺り寄せ、嬉しそうにみゃあと鳴く。

「懐いてますね。いいなあ」
「余った魚の切り身をやったら懐かれた」

 大きな手で撫でられるのが気持ちいいのか、私の時より幾分心地良さそうな顔をしている。わかるよ、福本さんの手は優しいからね。

「名前をつけたりはしたんですか?」
「野良だからつけてないな」
「んー……」

 たしかに、野良に名前をつけても意味は無いだろう。別に飼いたいわけではないけれど、福本さんの話を聞く限りこの辺りが縄張りなのかもしれない。という事はまた会う可能性があるという事だ。こういう時すぐに人の顔を覚えられるのはとてもありがたい。そのために訓練を受けたわけではないし、ましてや相手は人ではないのだけれど、どんな場面でも役立てられるなら便利というものだ。

「…まさか名前をつける気じゃ、」
「ヨルにしましょう」
「…黒いからか?」
「そうです」
「………………」

 なんですかその、安直だなみたいな顔は。無表情だなんだって言われてますけど、私にはわかるんですからね。
ヨルちゃん。名前を呼べば、金色が満足げに細められたように見えるのは自己満足だろうか。
 ポケットの中を探しお目当の物を取り出す。音を立てて割り地面へとばら撒けば待ってましたと言わんばかりに食いついた。お店のお魚を取ろうとする常習犯らしいから、きっとお腹が空いているのだろう。

「どうしたんた、その乾パン」
「随分前に佐久間さんのポケットから拝借しました。あの人隙だらけで面白いですよね」
「…………………」

 まだ佐久間さんが協會にいた頃、世間話をしている間に何となく取ったのだが、気づく様子もなく、私もその後すぐに任務へ出てしまったためすっかり忘れていたのだ。なぜ佐久間さんがこれをポケットに入れていたのかは分からないが、まあ今こうして利用できているのだから無駄にならなかった事に関しては良かったと言えるのだろう。乾パンって美味しくないしね。

「行くぞ」
「あ、はい。ヨルちゃん、またね」

 最後に頭をひと撫でし、先を歩き出した福本さんの後を追う。今度はまるで返事をするかのように、小さくにゃあと鳴くのが聞こえた。



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