ねえ福本さん。無理だと分かっていても、私待っていたんです。何も言わず消えてしまったあなたを、ずっと。
 だけど会えなかった。あなたは帰って来なかった。最後に触れたあなたの体温すら思い出せないまま、冷たいベッドの上。窓から差し込む暖かな光だけが、私を見ていた。




 目を開けたら知らない天井、なんて事はなく。そこに広がるのはいつも通りの光景で。隣に体温はなく、カーテンの隙間から漏れる光がそこを照らしていた。
 重たい身体を起こそうと力を入れる。が、途端に走る痛みに思わず眉をしかめてしまう。これが普段なら負けてはいけないと何が何でも起き上がるのだけれど、サイドボードに置かれた時計の短針が10を指している事と、リビングから何の物音もしない事から、彼がすでに仕事に行っているのだと悟り早々に浮かんだ諦めの念に全身を任せることにした。もう少しぐらいだらけていても問題はないだろう。どうせ何もする事がないのだから。
重たいため息が静かな部屋に舞う。気まずい、というのはおかしいのかもしれないけれど、正直どんな顔をすればいいのか分からなかったから、いないという事実にひどく心が落ち着いた。
 瞳を閉じると瞼の裏にフラッシュバックする。彼が触れた場所から伝わる甘い痺れが全身を支配して、零れ落ちそうなほどの多幸感に包まれていた。流れる汗も、今にも泣きそうに細められた瞳も、全てが、私を好きだと伝えていた。

 ずっと、考えないようにしてきたことがある。あの夢の人は誰なのか、と。
 実際夢は幼い頃から見ていた。といってもある時までは、その回数も月に一度あればいい方で。内容も、景色だとか誰か話しているだとかその程度だった。それが決定的に変わったのが、ここへ連れてこられた、あの日。
あの日を境に夢はその回数を増やし、更には驚くほどの勢いで鮮明になっていった。現在ではその時感じていたであろう感情まで伝わるようになっているぐらいだ。ここまでくるともう幻想だとか妄想だとか言っていられなくなっていて。おそらくはあれは私の前世か、もしくは私の中の別の誰かの記憶と、本気で考えるようになっていた。
 そして昨日のあの行為。あの後に見た夢は、今までの比ではないぐらい鮮明だった。そしておそらく私が最後に見たあの人。あの声、あの顔は、ぐう。

「……………」

 こんな時でもお腹は減るらしい。いや、こんな時だからか。普段使いもしない頭をフル回転させるとこうなるから、馬鹿は辛い。
 腹に力を込めなんとか身体を起こす。そこでようやく、やけに大きな服を着ている事に気がついた。昨夜はすべてひん剥かれた上に、汗やら何やらでどろどろになっていたはずなのに。油断するとずり落ちてしまいそうな大きさのスウェットを誰が着せたか、なんて。そんなの決まってる。
 そういえばあの時も、彼の大きなワイシャツを着て目を覚ましたのだ。料理と、ほんの少し煙草の匂いがするそれに包まれて。冷たいベッドの上で。誰もいなくなった、そこで。

 分かっていた。私たちはスパイだから、何にも囚われてはいけないことを。けれど愛してしまった。誰よりも何よりも、彼が愛しいと思ってしまった。互いに求め合って、足りないものを埋めるように抱き合った。たとえ目が覚めたそこに、あなたがいないと分かっていても。
 何も信じてはいけなかった世界でも、あなたのことだけは唯一、心の底から信じられた。愛することができたんですよ。ねえ、福本さん。

「福本、さん…」

 幾度も呼んだ愛しい名前が、再び静かな部屋に響く。なんて都合の良い頭だろうか。皮肉にもあんな事の後に、全てを思い出すなんて。
 姿を消したあなたと再び会うことも叶わず、私も任務で別の地へと飛びそこで結婚をして子供を作って、そうしてそのまま、捨てきれなかったあなたとの思い出を胸の奥底にしまいこんで、死んだのだ。
どうして忘れていられたのだろう。何も知らなかった、けれどたしかに幸せだったあの日々を。違う男へと体を捧げる中でも、涙するほど焦がれた、あの体温を。
 堰を切ったように頭の中へと流れ込んでくる記憶の水が、大きな雫となってぼろぼろと落ちていく。
 福本さん、あなたはどんな気持ちで、私の隣にいたんですか。何も覚えていない、けれどまるで思い出したかのようにあの頃の欠片に触れる私のそばに。ずっと一緒にいたいと言って、他の男と最期を過ごしてしまった私のそばに。どんな、気持ちで。
 涙を拭うと、グレーのスウェットはどんどんと色濃くなっていく。それでも涙は止まらなくて。あの頃と何一つ変わっていない香りが鼻を掠めた。
 会いたい。そしてもう一度、ありがとうと言いたい。ずっと探してくれていたことを。ずっと待っていてくれていたことを。ずっと、好きでいてくれたことを。

 重たくなった袖で目元を強く拭い、痛む体も気にせずベッドから飛び降りた。ペタペタと足音を鳴らし普段あまり立ち入る事のない、ほとんど物置のようになっている部屋へと入る。クローゼットを勢いよく開け普段福本さんが仕事へ着ていくスーツに隠されるように置かれたお目当の物を引きずり出した。きちんと手入れをしてくれていたのだろう、長い間置かれていたにも関わらず、それは埃一つ被っていなかった。
 福本さんは、自分の物と一緒に私の制服をクローゼットの中に大切に保管してくれていた。それはきっと、彼の良心が残した最後の逃げ道。好きだと言って抱きしめるくせに、いつでもその腕を振り解けるようにしている。冷たい人間のように見せて、私のことを何よりも考えてくれている。そんなところは変わっていなくて、久しぶりに腕を通したそれに胸が締め付けられた。
 誰に対するでもなく、自身への決意としていつもよりタイをきつく締めた。それだけでまるであの頃に戻れたような気がするのだから、私も単純だ。そしてビニールへと包まれていたローファーも一緒に取り出し玄関へ向かう。あの日のように扉のノブに手をかけたその瞬間、ここを出て行く上で一番大切な、根本的な事に気がついた。

 そうだ。私は彼がどこで働いているのか知らない。それどころか、彼が教えてくれた警察という職業でさえ本当のものなのか分からないのだ。知っているのは「福本」という名前だけ。
 まただ。また私は、彼自身のことを何一つ知らない。できる事はここで彼の帰りを待つだけ。あの頃と、同じ。
 ドアノブにかけた手は力なく落ちていき、綺麗に整えられたスカートのプリーツにシワを作った。項垂れるように扉へ打ち付けた額は、ごんっと鈍い音を立てる。会いたくても何もできない。それがまるであの頃のようで、自分の無力さがもどかしかった。
 かかとを踏みつぶしたローファーを脱ぎ廊下へ座り込むと、一気に体温が足先から奪われていく。そういえば、玄関は寒いからあまり来るなと福本さんが言っていた。

「…福本さん」

 小さく名前を呟く。当たり前だけれど返事はない。あの時とは違う。二度と帰ってこないなんて事はないと、わかっているのに。
 お願いだからもう一度、あの温かい手で頭を撫でて欲しい。そうして抱きしめて、もう二度と離さないで。まるで神にでも祈るような願いは誰に届く事もなく、煙のように冷たい空気の中へと消えてしまう。それに酷く、泣きたくなった。

 結局この日、福本さんが帰ってくる事はなかった。



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