あれから、今日で四日が経った。私がここに来てから福本さんが帰ってこなかった事は一度もなく、どんなに夜遅くなろうと次の朝には必ず「おはよう」と声をかけてくれたのに。何も言わずここまでいなくなってしまうのは初めてだった。いや、そもそも家主は彼なのだ。どこで何をしていようとそれは彼の勝手で、わざわざ私に言う義務はどこにもない。そんな事は分かっていた。
 けれど一人で過ごすには、ここはあまりにも寒すぎる。


 窓から差し込む陽の光に目を開ければ、そこにあるのはやはり見慣れた天井だった。けれど隣に体温がある事はなく、お味噌汁の香りも鼻をくすぐる事はなかった。
 いったい彼はどこへ行ってしまったのだろうか。彼の言っていた警察という職業が本当なのかは定かでは無いが、いくらなんでもこんなに帰らないとなると社会人である以上様々な支障をきたすはずなのに。

 まるであの朝のようだった。感じていた温もりが、目が覚めた時にはなくなっていて。 まるで最初からそこには私しかいなかったかのようにベッドは冷たく、私の心を凍らせる。

「…福本さん、」

 捨てられた、なんて。そもそも今生では恋人と呼んでいいのかすらも怪しい関係だったのだ。そんな風に表現するのはおかしいかもしれないけれど、でも。
 愛おしくてしかたなかったあの温もりは、また私を置いていってしまうのだろうか。何もできず、ただひたすら待つだけだったあの日々を、また。

 ぼやけた視界に気づき、慌てて涙を拭う。ここで泣いてしまってはまた時間を無駄に過ごしてしまう。ただでさえここ四日何もできずにいたのだから、今日ぐらいは何か行動を起こさなくては。前世でスパイなんてものをやっていたのなら、わずかな手掛かりからでも何か見つけなくては。
 そういえば、福本さんは毎朝7時半に家を出ていた。始業時間を八時半から九時と仮定して、ここの住所からその時間に間に合う範囲で警察署を探せば…。警察署なんて地域にそう多くあるものではない。福本さんが警察であるか、それに電車で通勤しているかどうかの確証なんてどこにも無いけれど、今の私はもうこれに賭けるしかない。
 そうと決まればすぐにでも行動を起こさなくては。重たい身体を起こそうとした瞬間、歪んだ視界に情けなくも膝をついてしまった。そういえば、彼がいなくなってからほとんど食事をとっていなかった。少し体調が悪くなった気がするのはそのせいだろう。でも、この痛みは、なんだかまずい気がす、る。

 ピンポーン。静かな部屋に突如としてチャイムが響く。まさかと思い痛みを気にせず玄関へと走り、閉められた鍵を大急ぎで開けていく。もしかして、帰ってきたのだろうか。
 けれどそんな期待は見事に裏切られ。そこにいたのは忘れもしない、あの日に見た顔だった。

「よう」
「神永さん…?」
「あ、やっぱり覚えてたんだな」

 記憶にある名前を呼べば、彼はあの頃と何一つ変わらない様子で満足げに笑った。その変化のなさに安心しつつも、なぜ彼がここに来たのかという疑問と、また同じ事をしてしまったという罪悪感で頭はいっぱいになる。今現在こんな状況になってしまったのは、元をたどれば私が勝手に扉を開けてしまったからなのだ。普通に考えれば家主である福本さんがわざわざチャイムを鳴らす意味なんてどこにもない。いくら慌てていたとはいえそんな事にも気づけなかったとは。

「いやー外めっちゃ寒かったわ。入っていい?」

 そんな私の考えなどつゆ知らず。神永さんは能天気にそう言った。




「ふーん、なるほどね」

 普段あまり触らない食器棚からマグカップを取り出し、お茶を入れ神永さんに差し出す。これまでの経緯を全て話せば、彼はさして驚いた様子もなくお茶と共に出した饅頭を口へと運んだ。

「…驚かないんですね」
「まあ予想はしてたしな」
「私が何も覚えていなかったことをですか?」
「それもだけど、一番は軟禁してるって事」
「…別に軟禁だなんて、私は思ってませんけど」
「お前がそう思っても、世間一般ではそう言うんだよ」

 「しかもお前未成年だしな」さらりと言われたその内容が重く体にのしかかる。どこぞの漫画じゃあるまいし、いくら記憶があるといっても私はまだ子供なのだ。福本さんとの年齢は少なくとも一回りは離れているだろう。いくら合意の上とはいえ、この状況がまずいのは確かだ。

「…で、どうする?」

 ぐるぐると頭の中で渦巻いていた、今まで目を背けていた現実を遮るように不意に問いかけられた。驚いて俯いていた顔を上げれば、髪と同じ色の大きな瞳が、射抜くようにこちらを見ていた。嫌な意味で心臓が脈打つ。

「どうする、って…」
「いや、違うな。ナマエ、お前はどうしたい?」

 もしかしたらこの状況は、福本さんが私に示した最後の逃げ道なのかもしれない。
 本気で閉じ込める気なら捨ててしまえばかったのに、私の制服をずっと残していたことも。まるであの時のように、私が探せないようにと何も言わずに姿を消したことも、全部。
 もしもここで私が過去も何もかも捨てて逃げ出せば、きっと福本さんはなにも言わずそれを受け入れるだろう。まるであの時のように、心を押し殺して孤独の中で生きていくのだ。そして私も今までのようにすべてを忘れ、彼のいない世界を生きていく。
 もしあの人が本当にそれを望んでいるのなら、私は、私は。
 ──違う。それでも私は、

「あの人と、一緒にいたい…」

 そうだ。あの時だって、たとえ未来なんてないと分かっていても、それでも彼を愛することを選んだじゃないか。ほんの少しの時間だったけれど、たしかに幸せで。とっくに無くなっていたはずの心が再び動き出すのを感じたあの日々を、今さら捨てることなんてできるわけがない。
 福本さんがいれば他になにもいらない。出会ったあの日から、彼は私の全てなのだ。
 涙交じりの私の言葉に、神永さんは「そっか」とどこか安心したように頭を撫でてくれた。当たり前だけれど福本さんとは違う温度を持った手は、やはりあの時の彼からは想像できないぐらい優しかった。

「お前の本音が聞けてよかった。あの後ちょっと心配だったからさ」
「…まあ、たしかに色々ありましたけど。ある意味できっかけにはなったので」
「色々、か。まあそんだけポジティブなら平気だな」

 安心したように笑う姿に、彼にもそうとう心配をかけてしまっていたのだと申し訳なさを感じる。そしてそれと同時に、彼ももしかしたら、愛する誰かを見つけたのかもしれないと何となくく思った。時代のおかげあるのだろうけれど、あの頃とは雰囲気が少し、というかだいぶ柔らかくなってる。「ありがとうございます」と小さく呟けば、福本さんより少し小さな手が私の頭を一撫でした。

「じゃあ、俺帰るな」
「え、いきなりですね…」
「本当はもう少し話したいけど、行かなきゃいけない所もあるから。それに…福本に怒られそうだし」

 からかうようにそう言うや否や、神永さんはジャケットを羽織りさっさと玄関へ向かってしまう。その後を追いかけようと慌てて立ち上がった瞬間、ぐらりと視界が揺れた。あれ、と思った次の時には全身に痛みが走っていて。そこでようやく、自分が受身も取れず倒れたのだと理解できた。

「っおい!大丈夫か!」

 襲ってくる吐き気に、何も食べていないのに吐き気を催す事もあるのかと口元を抑える。慌てて戻ってきた神永さんが支えてくれるけれど、縋る力すら残っていなかった。
 大丈夫です。出したはずの言葉は音にならなくて。まるで力一杯殴られたかのような激しい痛みが頭に響く。神永さんが必死に何か言っているけれど、もうなにも聞こえなかった。
 景色が歪み、だんだんと真っ暗になっていく視界の中。見えたのは、振り返る事なく去っていく福本さんの背中だった。



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