ひどく優しい手だった。冷たいのかと思っていた手は意外とあたたかく、なるほどあの優しい料理たちが生み出されるわけだと、彼に触れた時私は思ったのだ。

 そして同時に、このぬくもりを失うことの怖さを、私は知ってしまったんだ。




 目を開けて一番に見えたのは見慣れた天井で。そして窓から微かに差し込む街灯の光が、直前まで見ていた青空からいくつも時間が経過していることを表していた。
 数日ぶりに味わったシーツの感触に、自身の身に何が起きたかを想像するのは容易かった。視界は歪み、持っていた書類たちが散らばるシーンまで覚えていたのだから。
 確かにここのところ忙しくて食堂に顔すら出していなかったけれど、まさか倒れてしまうとは。かつて極寒の中海を延々泳いだ事まであるくせに、空腹には簡単にやられてしまうらしい。情けなさを感じつつも、実戦を離れた以上少しは自身のことを省みなければと、自嘲にも近い溜め息を吐いてしまう。
 そういえば、ここまで誰が運んでくれたのだろう。少なくともあの時近くには誰もいなかったはずだ。書類整理中の私の様子を見に来る物好きなんてそうそういないはずなのだけれど。

「起きたのか」

 そこまで考えた時、タイミング良く扉が開く音がする。視線をそちらへ向ければ、割烹着姿の福本さんが見えた。そういえば、いた。物好きが一人。

「調子はどうだ」
「…ぼちぼち、ですかね」

 静かで落ち着くからと、福本さんはよく私の執務室へ来ていた。だからこそ私が倒れた事に気づき、彼がここまで運んでくれたのだろう。ありがたいけれど、見られてしまうとは。彼も暇な身ではないというのに迷惑をかけてしまった。

「私、倒れたんですね」
「ああ。俺が部屋の外から声をかけた瞬間にな」

 まさかそんなタイミング良く倒れるとは、運がいいのか悪いのか。すみませんと謝れば「構わない」と淡々と返される。あ、これは…。

「…福本さん、怒ってるでしょう」
「そうだな」

 珍しく感情を隠すことなくはっきり告げる彼に内心驚きつつも、これを茶化したりなんてしたらそれこそまずいと知っているので、再度「すみません」と謝る。そんな私を見て福本さんは呆れたように溜め息を吐き「少し待ってろ」と部屋を出て行った。
 数分後、彼はお盆に湯気の立つお椀を乗せて戻ってきた。そしてベッド横に置かれた椅子に腰掛けると、ずいっとそれを差し出してくる。

「空腹で倒れたんだから、まずは何か食べろ」
「お味噌汁ですか」
「数日ろくに食べていないのにいきなり固形物は体にも悪い。今はそれで我慢しろ」
「いえ、お気遣いありがたいです」

 いただきます。小さく挨拶をし口に運べば、身体中に染み渡る感覚がした。食べなくてもある程度は生きていけるとは言ったけれど、やっぱり食は大切だなと思えるほどそれは美味しく、私の心を安心させた。

「お前は忙しいとかなんとか言って、あまり飯を食わないからこんな事になるんだ」
「おっしゃる通りです…」

 無口な福本さんにここまで言わせてしまうとは。まるで子供のような心配をかけてしまったことに申し訳なさを感じつつも、私はこの状況に少しだけ感謝していた。現金だけれど、彼とこうして夜に二人になることができたのだから。正直な話倒れた事にむしろ感謝したいぐらいだ。それを言ったら怒られるだろうから言わないけど。

「……なに笑ってるんだ」
「え、いや、なにも」
「…………………」
「……はは」

 あ、これは気付かれている。彼の視線にそう分かりつつも誤魔化すように笑えば再び呆れたような溜め息を吐かれた。今日は福本さん、溜め息が多いな。いやまあ私のせいなんだけど。

「今日はもう寝ろ。結城さんも仕事は明日でいいと言っていた」
「え、」
「ナマエ」
「………はい」

 思わず出てしまった不満を嗜めるられる。こんなふうに言われた挙句結城さんの名前まで出されたら、もうなにも言えなくなってしまう。あの人のことだ、私の状態にもとっくに気付いていたのだろう。なにも言わなかった理由は分からないけれど、明日でいいというのなら今はそれに甘えておく事にしよう。
 「分かりました」と素直に返事をすれば、福本さんは満足した様子で空になったお椀を私から取り上げる。「おやすみ」と一言だけ言い出て行こうとするその背中に、慌てて声をかけた。

「ふ、福本さん」
「どうした」
「その、今日はこの後、お出かけされるんですか?」
「いや、今日はここにいる。もう全員とっくに出払ってるし、今から行くのも何だからな」

 その言葉に一瞬歓喜の気持ちが浮かんだけれど、ならもう少し一緒になんてことまでは言えるはずもなく。「そうですか…」とだけ呟けば、私の考えが分かったのだろうか。彼は少し視線をさまよわせ「ナマエ」と小さく私の名前を呼んだ。促されるように顔を上げれば、大きな手に頭を撫でられる。続けて近づいてくる顔に瞳を閉じれば、かさついたそれが重ねられた。そして戯れるように数回、音を立てて触れていく。

「…おやすみ」

 最後に一つ、額へ触れた唇が離れていく事に名残惜しさを感じつつも、おやすみなさいと小さく返事をする。福本さんは優しい目をしてまた私の頭を一撫でし、静かに部屋を後にした。



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