なにを考えているのか分からない眠そうな瞳に、めったに開くことのない口。八人の中では一番の長身で、話すときはいつも見上げていたっけ。そういえば、首が少し痛いですなんて言ったら、わざわざ屈んでくれるようになって。それがなんだかとても可愛くて、それまでの彼に対する見方が少し変わったんだ。
家事など機関生の身の回りの仕事をこなす彼と、協會内での資料整理や雑務を全般にこなす私は、立場的にも話す回数は他の機関生よりもいくらか多かった。今思えば、それがきっかけだったのかもしれない。
気づけば同じ空間にいるようになって、そのうち本当に、物理的に隣にいるようになって。するりと心の中に入り込んだその存在に違和感を感じなかった時点で、私はもうとっくに彼に心を奪われていたのだろう。そしてそれは彼も同じだと知ったときは、それこそまるで世界に鮮やかな色がついたかのようにさえ思えた。大げさだけど、本当に。
春はお弁当を作ってお花見をした。夏は屋上から満点の星を見て、秋は少し遠出をして紅葉狩りをした。冬には庭で雪かきをしながら、小さな雪だるまを一緒に作った。
思い返してみれば、互いに成人した男女にも関わらずやっていることがまるで子供のそれのようだと笑ってしまう。けれど私はそれがとても楽しくて。それこそ本当に子供のようにはしゃいでいたのを覚えている。きっとあれこそが、幸せというものだったのだろう。
たった一年だった。けれど永久にさえ感じられた。愛することの歓びも、愛されることの至福も、失うことの恐ろしさも、全部彼に教えてもらった。
自ら選んだ孤独の道が間違っていたとは今でも思わない。けれどそんな中にたった一つ灯った小さなひかりが、私はただただ、愛おしくてしかたがなかったのだ。
誰かが頬へ触れている感覚に目が覚める。徐々にクリアになっていく視界の中、目の前にいる人物が誰かを頭が認識する前に、低く心地よい声で名前を呼ばれた。
「…ナマエ」
大きな手が汗で張り付いた髪を退かす。心配そうに、けれどどこか後ろめたさを含んだ目が私を見ていた。
驚きと困惑と、あとはもうよくわからなかった。ただただ、再び見ることの叶った、誰よりも望んでいたその姿に痛みも忘れて飛び起きた。
「っ福本さん…!」
どんっと鈍い音を立ててその胸元へと飛び込む。結構な勢いだったはずなのに彼は少しも動じることなく私の体を受け止め、そうして静かに抱き締め返してくれた。そうだ、この匂い、この温もりだ。あの頃と、同じ。
頭がそう理解した途端、体の奥底からたくさんの感情がこみ上げてきて。それは最終的に大きな粒となって瞳から溢れていった。
「ふくもとさん、ふくもとさん…っ」
壊れた人形のようにただひたすら彼の名を呼ぶ。脳に刻みつけるように。あの頃と同じ名前を、何度も。
「ごめんなさ、わたしっ、忘れちゃって、」
「! ナマエ、お前…思い出した、のか…?」
必死に首を縦にふる。福本さんは目を見開いて私を見た後、すぐにぐしゃりと顔を歪ませ、今にも泣き出しそうな顔になった。
「ずっと、好きだ、ったのに、覚えて、なく、て」
「…いいんだ」
なにもよくない。だってあなたは、ずっと待っててくれたのに。あの温もりを、あの優しさを、私は何一つ覚えていられなかった。そうして何も知らぬまま、あなたのいない世界を享受していた。私だったらそんなの耐えられない。私が福本さんの立場になっていたら、きっと毎日あなたを想って、泣いて泣いて泣き続けて、最後には悲しみのあまり死んでしまっていたと思う。
「お前は、また俺の元にきてくれた」
たとえ記憶がなくても、俺の傍へいてくれた。まるであの行為の時のような弱々しく、けれどどこか嬉しそうな声で、福本さんはそう呟く。
「それだけで俺は幸せだ…」
溢れるこの気持ちを、なんて表現したらいいのだろう。ただひたすらにこの人が愛しいと、それだけが全身を支配して。なにも言葉にできない代わりに全ての力を振り絞って彼へしがみつけば、背が弓なりに反るほど強く抱きしめ返される。
「…好きです」
「……ああ、」
「待たせて、ごめんなさい…」
「…ああ」
「ずっと、好きでいてくれて、」
ありがとう。そう続くはずだった言葉は発せられることはなく。絡まる舌の熱さに、ただただ涙が溢れた。
「身体、大丈夫か」
そう問いかけられ、落ちそうになっていた意識を無理矢理戻す。それに気づいたのか彼は「無理をしなくていい」なんて話を終えようとしていたけれど「まだ話したいんです」と告げれば、どこか嬉しそうな顔をした。
「でも腰はあんまり大丈夫じゃないです…」
福本さんが何度もするから。わざと怒ったような口調で言えば、微かにだけれど笑いながら「すまない」とキスをしてくれる。私がちっとも怒っていない事なんて、とっくに見透かされているのだろう。
ちゅっ、と音を立ててじゃれ合うようなキスを何度もされる。くすぐったさに思わず身をよじれば、逃げないようにと腰に腕を回されさらに密着をする。
「ナマエ」
「はい」
「飯を食おう。何が食べたい?」
そういえば、最中に腰の辺りを何度も触っていた。逃げようとする体を押さえているのかと思っていたが、どうやらついでに体型を確認していたらしい。それによりまともに食事を取っていないのがばれたのだろう。なんと目ざとい。
けれど彼が戻ってきたと分かった途端、食欲が無くなっていたはずの体はすっかりあのあたたかい食事を求め始めていて。ぐうとタイミングよく鳴ったお腹に、二人で笑ってしまう。
「お味噌汁、飲みたいです」
「具は?」
「んー、ふふ…生海苔で」
そうしたら、また庭から野菜を取ってこよう。それでサラダを作って、目玉焼きを焼いて。他にも沢山、福本さんお手製の料理をお腹いっぱい食べるんだ。
重たい身体を起こし、福本さんの身体を跨ぐように乗り上げる。驚きで目を丸くする彼を気にせずその胸板に耳をつければ、とくとくと心臓の音がして。この人は確かにここにいるのだと思えて、ひどく安心した。
「福本さーん」
「…なんだ?」
名前を呼べば返ってくる。そんな当たり前のことが、何よりも幸せで。
「ずっと一緒にいてくださいね」
今度こそ心の底からの言葉を告げれば、福本さんは至極嬉しそうな顔で微笑んだ。
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