あ、と思った時には既に遅く、次の瞬間には膝と手に強い痛みが走っていた。冷たい床の感触、目の前を舞いながら落ちていく、ようやく纏め終わった書類たち。右足首に走る鈍い痛み。転んだと理解するのに時間はかからなくて。早く起き上がろうとか、そういう以前に、余所見していたとはいえまともな受身も取れなかった自分が酷く情けなくなった。

「大丈夫?すごい音したけど」

 転んだ数メートル先にある食堂の扉から、甘利さんが顔を出した。数度瞬きをした後、座り込む私を見て慌てた様子で此方へ走って来る。

「転んだ?」
「お恥ずかしながら…」
「怪我は?一人で立てるか?」

 流石というか何というか。スーツが汚れるのも気にせず膝を着き、直ぐに怪我の有無を確認してくれる。女性の扱いが上手いとかいうけれど、それは彼の元来の優しさがあるからこそなのだろう。多分三好さん辺りならあの小馬鹿にした目で見て一通り笑った後にようやく手を差し伸べるぐらいだ。いや、差し伸べてくれるかも怪しい。

「はい、怪我はしてません。でも…」

 ちらりと後ろへ視線を向ける。脱げてしまった右足の靴を持ち上げれば、ぷらぷら揺れるヒール部分。あと少しでも刺激を加えたら取れてしまいそうだ。

「あーあ、こりゃボッキリいったな」
「ですね…また修理出さないと」
「そんなに思い入れがあるの?その靴」
「…ええ。初めて、似合うと褒めていただいた物なんです」

 何度も修理した靴は、よく見ると少し色も禿げてしまって、細かな傷が沢山付いている。けれどそれを棄てることができないのは、生まれて初めて、大切だと思う人から貰えたものだからだ。

「……妬けるねえ」

 ぽつりと消えそうな声で小さく呟かれた言葉。甘利さんらしくないその発言に、今度は私が驚く番だった。

「ご冗談を」
「…本当だよ」

 てっきりいつもの調子で冗談だ、と笑ってくれると思ったら、予想外にも返ってきたのは滅多に聴くことの無い様な真剣な声だった。思わず彼を見上げれば、今にも泣きそうな目がこちらを見ている。

「…甘利さ、」
「はい」
「え?」

 その空気を誤魔化す様に、突然広げられた手。先程と打って変わって、今度は至極楽しそうな顔をしている。

「あの…」
「足、挫いたんだろ。部屋まで連れて行ってやるよ」

 痛みを顔に出したつもりはなかったし、私は確かに、怪我はしていないと言ったのに。一体いつ気付いたのだろうか。いや、今はそんなことよりも、連れて行ってやるという言葉とこの広げられた腕が指す意味は、多分、私が予想していることで合っているだろう。

「…お心遣い感謝いたしますが、大丈夫ですよ」
「駄目。片足はヒールなんだし、無理に歩いて悪化したらもっと大変だろ。それに、床は汚いから素足で歩くのもどうかと思うし」

 流石にそれは申し訳ないと断ろうとするも、尤もな理由で論破されてしまう。困った、この様子じゃ一歩も引いてくれなさそうだ。

「肩貸すだけなんだし。な?」

 これは寧ろ早く肩を借りて事を終えた方がいいのかもしれない。いつまでもここで座り込んでいる訳にはいかないし、結城さんもこの書類を待っている。それに、悪化して明日からの仕事に支障をきたす方が深刻だ。

「……お願いします」
「よし。じゃあ、ちょっとこっちに腕回して」

 返事を聞くや否や、左腕を彼の首の後ろへ回すよう指示される。言われるがまま腕を動かせば、今度は彼の右腕が私のお尻の下辺りを抱く。え、何でそこに手回すんですか。

「ちょ、」
「力抜いとけよ…よっ、と」
「!」

 一瞬、彼の腕に力がこもったと思ったら、次の瞬間には普段見る事も無い高さまで視界が変わっていた。驚いて下を見れば、楽しそうに私を見上げている甘利さん。状況を理解した途端、顔に熱が集まるのが分かった。

「っあ、甘利さん!」
「ん?」
「話が違います!下ろしてください!」
「違くない違くない」

 甘利さんの右腕に腰掛ける様に抱えられ、左手は倒れないようにと私の背中を支えている。しかも、彼の顔の位置は丁度私の胸元にある。
 流石に予想もしていなかった体制に驚いて下ろしてくれともがくけれど、慌てる様子もなく腰に回された腕に力が込められ、動くこともままならなくなってしまった。それどころか先程よりもぐっと距離が近くなり、否が応でも彼にしがみつく形になる。

「ほら、暴れると落ちるぞ」
「せ、せめて横抱きとか…!」
「でもこっちの方が安定感あるし」
「っ、は、恥ずかしいです…」
「……いいな、それ。ぐっとくる」
「何言ってるんですか!」
「はは」

 まるで子供をあやす様に私の背中を叩く。廊下のど真ん中でこれだけ騒いでも誰も来ないところをみると、どうやら甘利さんは以外は全員出払っているらしい。
 何故彼だけ残っているんだとか疑問はあるけれど、今はそれが有難かった。こんな姿恥ずかしくて見せられない。もし見られでもしていたら、当分話のネタにされていただろう。

「しかし軽いな。ちゃんと飯食ってるか?」
「食べてますよ…いつも見てるじゃないですか」
「だって、腕一本で持ち上げられる重さって。ちょっと心配になるよな」

 それは貴方が一般男性より遥かに逞しいからですよ、とは敢えて言わないでおく。言ったら調子に乗りそうだし。
 私を抱えたまま器用に散らばっている書類たちを拾っていき、最後に無残にもヒールが折れた靴と共に渡される。

「…ありがとうございます。凄いですね、抱えたまま拾うなんて」
「こんなん朝飯前よ」

 ほんの少し込めた嫌味は、気付いているのかいないのか。全く気にする様子もなく返事をされてしまうものだから、なんだかここまでうるさい自分の方が融通が利かないのかとさえ思い始めてしまう。

「取り敢えず医務室行くか」
「あ、私の部屋に処置用の包帯とかあるので…」
「それって簡易のだろ?きちんと治療しないと駄目だって」

 踵を返し、執務室と私の部屋がある方向とは反対へ歩みを進める。遠ざかる本来の目的地。…まあ書類は、急ぎでは無いから後で渡そう。今はとにかく、誰かが帰ってくる前に医務室へ連れて行ってもらう事の方が優先すべき事案だ。

「ところでさ、」
「はい」
「この靴って、誰に貰ったんだ?」
「靴ですか?結城さんです」
「………え、」
「え、」
「…それって、結城中佐?」
「はい。似合うからと昔買ってくださって…それがどうかしましたか?」
「ああ、なんだ。そうか…はは」

 私の言葉を聞いた途端、彼を取り巻いていた空気が一気に軽くなった。その顔は、普段の人当たりの良いものではなく、何というか、感情を偽ることなく曝け出している。そんな顔。

「なんだか嬉しそうですね、甘利さん」
「そう見える?」
「はい。とても」
「…そういうところは鋭いのに、肝心なところで鈍いなナマエは」
「え、何ですかそれ。どういう意味ですか」
「そのまんまの意味」
「ええ…なんですかそれ、教えてくださいよ」
「だーめ。自分で考えな」

 問い質そうと口を開くも、タイミング良く医務室へ到着し椅子に座らされる。そのまま私の目の前に跪いた甘利さんは驚く事に、自らの足の上に、私の足を乗せたのだ。しかもスカートであることを配慮してか、あまり足を上げさせないような高さで。
 あああなんて事を。なんでここでそんな紳士な事するんですか。ときめけばいいのか怒ればいいのかわからないじゃないですか…!
 思わず下ろしそうになった足は許さないとでも言いたげに柔く掴まれてしまい、くるくると包帯が巻かれていく。もうなんか、いっそ殺してほしい。いや死ぬわけにはいかないんだけれど、これ思い出して後々死にたくなるやつだ。

「なあ、ナマエ」
「う、は、はい」
「今度は俺と買いに行こうか」
「…何をですか?」
「靴だよ。それとは別に、もう一足持っててもいいだろ?お前に似合うの、見立ててやるからさ」
「そんな…申し訳ないです」
「俺があげたいんだ」
「でも…」
「男がこう言ってるんだから。な?」

 う、その顔はずるい。女性を虜にするあの甘い顔で覗き込まれて断れる女はいるのだろうか。いや、いない。しかもそれか密かに想いを寄せている人だとしたら、尚更無理な話だ。

「………お願いします」
「よし。あ、あと…」
「?」
「桃色と黒なんて、俺の好み分かってるな。ご馳走様」
「桃とく…」

 一瞬、何のことだか分からなかった。けれどその言葉を口に出した瞬間、脳裏にとある光景が浮かんだ。そこでようやく気付く。見えてないと思っていたのに、やっぱり彼には見えていたらしい。黒地に、桃色のレース。私を心配する素振りをしながら、そんな所まで見ていたなんて。
 一気に熱くなる頬に、足の痛みなんてすっかり無くなって。慌てて少し捲れている裾を抑えれば、楽しげな甘利さんの声。

「はい、終わり。当分は安静にな」
「え、あ、ありがとうございま…じゃなくて!」
「あ、ついでにそれも買いに行くか?」
「っ甘利さん!」

 あの目は半分冗談、半分本気だ。咎めるように怒鳴るけれど、彼はいつもの調子で笑うだけだった。
とりあえずこの下着を着るのは当分控えようと思う。思い出して恥ずかしくなるし、何より、どんなものであれ彼が選んでくれるのならなんてうすら寒い思考がほんの少し頭の片隅に生まれてしまったことに、出来れば気づかずにいたいから。


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