※展新規衣装の話3

 男女が小さく会話する声に混ざり、「いってきます」と、聞き慣れた少女の声が聞こえる。「はやく!」「まって!」とはしゃぐ声は徐々に遠ざかり。次いで扉の閉まる音が聞こえ、先程までの喧騒が嘘のように、家の中は一気に静寂に包まれた。
 ガチャリと鍵を閉める音と、小さく息をつく音。そうしてコツコツと響き始めた靴音は、未だ眠っているナマエを気遣っているのだろう。響かぬよう極力静かに歩いているようだった。
 足音はベッドへと徐々に近づいて来る。そうして目の前で止まったと同時に、少し硬い指の背が柔らかく頬を撫でる感覚がして。ナマエはようやく重たい瞼を開けた。

「あれ、起きてた。おはよう」

 わずかに開けた窓から入る爽やかな風に、セットされていない髪を揺らしながら、目尻を下げた甘利がそう言った。あれ、と驚いたような声を上げたわりには、ナマエが起きているであろうことは予想していたといった様子だ。
 ナマエは「おはようございます…」と小さく返事をしながら、重たくだるい身体をのっそりと起こし、壁に掛かる時計に目をやる。

「…私、寝すぎましたね……」

 てっきり6か7辺りを指していると思っていた短針は、予想に反し9を指していた。ナマエは、やってしまったとばかりに眉間にしわを寄せる。
 
「いや、昨日無理させちゃったし。大丈夫だよ」

 起きるや否や、むっとするナマエの頭を甘利はなだめるように撫でると、そのまま乱れた前髪を退かし、額に小さく唇を落とした。
 柔らかな唇の感触を感じながら、「コーヒー飲むでしょ?」とキッチンの奥へと消えるその背中を見送り、ナマエは足先でスリッパを手繰り寄せ、ゆるりと立ち上がる。その音に、足元で寝ていたフラテも飛び起き。まるでお供のようにナマエの後を付いて来る。
 確かに昨夜は多少の夜更かしに加え、中々に密な時間を過ごしたわけだが、それは甘利も同じ。しかも彼は気を失ったナマエや汚れたシーツ等々の掃除もしたのだから、少なくとも寝たのは夜明けも近い時刻のはずだ。
 それでもこうしてナマエより早く起き、眠気など微塵も感じさせないぐらいの機嫌になっているのだから、その言葉に甘えるのは少し違う気もする。なにより、そうでなくともさすがに九時は寝すぎだろう。協會にいた頃はそれこそ夜中まで起きていても、翌朝は日の出と共に起きていたのに。もう早起きを気にする必要がないとはいえ、少しでも遅く起きることに、ナマエは何故か罪悪感のようなものを感じてしまうのだ。
 どうにも抜けきらないその真面目さにナマエがほとんど無意識のうちに溜息をつくと、それが甘利にも聞こえたらしく。キッチンの奥から「相変わらずだ」と笑う声が聞こえた。けれどそれは呆れているようなものでなく、「まあ分かるけど」といった、同意を含むような笑いだった。
 ナマエは鏡の前で軽く身支度を整えると、足元でじっとこちらを見上げていたフラテを抱きかかかえ、三人用のダイニングテーブルに腰掛る。
 そこでようやく、普段の騒がしい声が聞こえないことに気が付いた。

「エマちゃんは?」
「メアリーが、これから海に行くから一緒に行かないかって誘ってくれたんだって。アマンダも、『エマは全然手がかからないから、むしろ一緒に娘と遊んでくれるとありがたいよ!』って言ってたよ」
「…今のアマンダの真似ですか?」
「うん。似てたでしょ?」
「雰囲気だけは少し掴めてましたね」
「少しか〜」

 アマンダとメアリーとは、三軒隣に住む親子のことだ。娘のメアリーはエマと同じ年頃の子で、この辺りは中心地から離れているということもあり、幼い女の子は少ないらしく。三人でこの地へやって来た際、フラテと共に遊んでいたエマと友達になりたいと声をかけてくれたのだそう。以来、家族ぐるみで交流を持つこととなったのだ。
 甘利の言葉にナマエの脳内には、綺麗な赤毛と愛嬌たっぷりのそばかすを携えた笑顔の女性が浮かぶ。人の良い彼女のことだ。娘が友達と一緒に行きたいと言ったから、わざわざエマを誘いに来てくれたのだろう。一人で子供の世話をするのは大変だろうに。これはきちんとお礼をしなければ。
 彼女は確かアップルパイが好きだったから、それを作って持っていこうか。出来立てを持っていけばたぶん、あの快活な声で「じゃあうちでお茶してって!」と言われるだろうな。
 ようやく覚醒してきた頭でそんなことをぼんやり考えていると、マグカップを両手にキッチンから出てきた甘利が「それでさ、」と、どこか弾んだ声で言う。

「こうして久しぶりに、朝から二人きりになったわけだけど」
「そうですね…あ、コーヒーありがとうございます」
「ん。どういたしまして…それでさ、良かったら街に出ない?ナマエの好きそうなカフェ見つけた」
「あら、いつの間に」
「この前、ナマエ一人でアマンダの家に行ったでしょ。そのときエマが外に行きたいって言うから、少し出かけたんだよ」

 ナマエの隣に腰掛けると、甘利は背中をぐっと丸め。覗き込むようにしながら「どう?」と尋ねた。それがまるで飼い主の機嫌を伺う大型犬のようで。なんともほほえましい気持ちになりながら、ナマエはも「いいですね」と返す。
 季節はちょうど秋に差しかかる頃ということもあり、心地よい風が吹いている。街を歩くにはうってつけの時期だ。
 窓から入る風にふわりと頬をくすぐられながら、ナマエは程よく温かいコーヒーをひと口飲んだ。──そのとき、彼女の脳内に一つの光景が浮かび上がる。

「…あ、じゃあ甘利さん。あれ着てほしいです」
「あれ?」
「以前よく着ていた、グレーのスーツ」

 グレーのスーツ。──そう言われて一瞬甘利の脳内に浮かんだのは、機関生であった頃、ほぼ毎日着ていたグレーのスーツだった。
 けれどそれをわざわざナマエが指名するとは思えない。即座にもう一度脳内のクローゼットを探したとき、思い浮かんだのは、同じグレーでも少し彩度が落ち、生地にはうっすらとストライプの模様が入るスーツだった。

「もしかして…ダブルの、ストライプのやつ?」
「そう、それです。あと…できればでいいんですけど、白い帽子も一緒に…」
「いいけど…どうして?」

 スーツだけでも驚きだというのに、まさか帽子まで指定してくるとは。ここまでくるとただ気に入っているというより、ナマエにとって、"その組み合わせだからこそ意味がある"と考えた方が良さそうだ。どんな意味なのかはさすがの甘利にも分からないが。
 これも元スパイの悪い癖だろうか。少しの好奇心に駆られ甘利は尋ねる。その問いに「…だって、」とナマエは一度言葉を止め。指先でマグカップの縁を擦りながら、ぽつりと呟いた。

「あのスーツ、初めてデートしたときに着ていたでしょう?今日はこっちに来て、初めて二人だけになったんだし…その……、」

 "あの日"に似たことを、もう一度できたらなって。──最後は「わがまま言ってごめんなさい」と誤魔化すように笑うナマエの様子に、甘利は彼女の言う"あの日"を思い出していた。
 ──その日は、青い空が何処までも続きそうなほど澄み渡る、とても心地よい日で。二人は協會から歩いて十分程のカフェで、十一時ちょうどに待ち合わせをしていた。同じ場所から出るのにそんなことする必要あるのかと聞かれそうなものだが、それだって初めてのデートには大切な出来事の一つなのだと、今なら分かる。
 そうしてそのまま早めのお昼。ナマエはハムサンドを、甘利はライスカレーを食べた。美味しいですね、なんて二人で分け合いながら。それと、そのとき飲んだ紅茶がとても美味しかったからと、コーヒー派のナマエが珍しくお土産に茶葉を買っていたっけ。
 その後は街で買い物をした。──あのテーラーは良い生地を扱っている。このメーカーの香水はナマエによく似合う。あの店は良い酒を出す。そっちの店は音楽のセンスが良くて──両手いっぱいに袋をぶら下げるわけでも、洒落た店でロマンチックに過ごすわけでもない。他愛もない話をしながら、手を繋ぎ並んで歩く。
 ただそれだけのことが、どうしようもないほど楽しかったのを覚えている。
 その後も幾度となく、時間を見つけては街へ二人で出かけてはいたのだが、互いに昼間は多忙の身。そのほとんどが夜のことで。朝から揃って出かけられたのは、この最初のデートが、文字通り最初で最後だった。
 だからこそ偶然とはいえできた今日という時間を、せめて形でだけでも、二人で過ごしたあの日と同じにものにできないか、と。ナマエはそう思ったのだ。
 甘利は最後のひと口のために傾けていたマグカップを、寸前でぴたりと止め。中身を飲み切ることなく、ことりと机上に置き直す。
 そして代わりに、考え込むようにこめかみに手を当て俯くと、細く長く「はあぁ…」と思いつめたように息を吐き出した。そのただならぬ様子に、ナマエは「あ、甘利さん?」と、心配そうに甘利の顔を覗き込んでいる。

「…どうしようナマエ」
「え?」
「俺、ナマエの可愛さで死んじゃうかもしれない」
「…なんですかそれ」

 ナマエは呆れたように言いながらも、甘利のその反応で、彼がこの提案を喜んで受け入れると察したのだろう。どこか嬉しそうに笑っている。
 ──あの日がいっとう美しい思い出で。こうして"もう一度"と思ってしまうくらい宝物なのだと、ナマエは言うけれど。それは甘利も同じなのだ。
 目を閉じれば今でも瞼の裏に鮮明に思い出せる。──白いレースでできた襟に、少し彩度の低い桃色の、長袖のワンピース。華奢な腰元を小さなリボンで結び、風に揺れてふわりと動くそれは、美しい夕暮れの空を連想させた。
 ナマエの目元と、頬と、柔らかな唇は、初めて見る綺麗な色で飾られていて。普段より少し幼さを感じさせる。けれど等身大にも見える装いだった。
 腕を絡め、隣で嬉しそうに歩くその姿から伝わってくる。──これ全部、あなたのためにやったこと。あなたと歩くこのときを、心から楽しみしていたのだ、と。
 デートの間中ずっと、甘利は心臓をわし掴みにされたような感覚さえしていた。口説き文句など散々口にしてきたというのに。ナマエを前にするとその一つも出てくることはない。なんとか絞り出せたところで「可愛い」などという、ありきたりなことしか言えなかったことまで、嫌というほどよく覚えていた。

「…ナマエ、」
「はい?」
「今日、カフェで待ち合わせしよっか」

 甘利の言葉にナマエは、ぱあっと顔を輝かせ。まるで気合を入れるかのようにコーヒーを一気に飲み干し、膝の上に乗せていたフラテを甘利に託すと、「私すぐ準備してきます!」と足早にクローゼットへと向かった。その勢いにフラテは目を丸くし。甘利は小さく笑みをこぼす。
 ──ナマエは初めて行くカフェだから少し心配だけれど、優秀な彼女のことだ。一度伝えれば完璧に覚え、時折吹く風にあの桃色のワンピースの裾を揺らしながら。それこそ昔馴染みのように紅茶を飲むのだろう。容易に想像ができる。そしてその姿に甘利はまた、胸を高鳴らせてしまうのだ。

「…確か途中に花屋あったよな」

 確認のように呟いた言葉に、フラテがわんっ、と返事をする。エマとのお出かけの際彼も連れて行ったのだが、どうやらちゃんと覚えていたらしい。店先に特徴的な薔薇があった、小さな花屋だった。
 帰る時間に合わせて大きな花束を作ってもらおうか。見たこともない鮮やかな青は、きっとナマエの服によく似合う。ああでもそれなら、待ち合わせで一輪だけ渡して、デートの最後に大きな花束なんていうのも素敵だろう。受け取ったナマエは「嬉しくて泣いちゃいそうです」って、染まる頬と唇をほころばせるんだ。
 きっと今日という日は、あの日を超える思い出になってくれる。そんな予感に胸を躍らせながら、甘利は残ったコーヒーを一気に飲み干し。クローゼットの奥から聞こえる小さな鼻歌に誘われるように、ナマエの元へと向かった。





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