※展新規衣装の話4

 忘れられないことがある。今はもう、はるか昔のことだ。
 ──桜はとうに散り、初夏の日差しが道に木漏れ日を作っていた頃。人の減った建物に、数ヶ月姿を見ることのなかった男が、ふらりと戻ってきた。いやに真面目な面持ちだった。
 軍服を着たその男は言った。愛していた、と。女はわずかに目を見開き、そして答えた。「知っていました」と。
 その返事に男は一言、そうか、と笑い。会えてよかったと、一輪の薔薇を差し出した。まだ少しばかり先に訪れるはずの夏の空を、待てなかったとばかりに詰め込んだような青だった。
 受け取った女は、あふれそうになる感情を、奥歯をほんの一瞬だけ噛み締めることで耐え。小さく「ご武運を」と呟いた。男は返事をすることなく。わずかに頭を下げると、背を向け、なにも言わずに立ち去った。
 それが女の見た、男の最後の姿だった。



「いち、に、さん…あと四枚か……」

 言葉と共にナマエは大きく腕を伸ばしながら、深く長く息を吐く。動く度に古いオフィスチェアが立てる軋んだ音が、そんな独り言に返事をするように、静かな室内に響いた。
 ──現在、華の金曜日。時刻は二十時過ぎたところだ。多忙な警察組織とはいえ、平日のこの時刻ともなれば残っている者はほとんどいないようで。ナマエの机に置かれた、本部とD課を繋ぐ唯一の内線も、昼間の騒がしさが嘘のように沈黙していた。
 かくいうナマエも本来ならばとっくに帰路についているはずなのだが、今日はそういうわけにもいかなかった。現在確認作業の真っただ中の『始末書』と書かれた、この書類のせいで。
 誤解のないように言っておくが、この不名誉な名の書類は、ナマエが何か問題を起こしたことによるものではない。そのほとんどは、同課に所属するメンバー達によって生みだされたものだ。
 本来であれば問題を起こした本人が作成し、上司である佐久間が確認すべきものを何故こんな時間にナマエが確認しているのかというと、理由は至極単純。確認者である佐久間が、なにやら重要な案件だとかで上に呼び出されてしまったからだ。
 よりにもよってこんなに枚数が立て込んでいる時に呼び出さなくても。ナマエは一瞬恨み言を吐きそうになるが、そもそもとして、始末書を書かなければいけないような状況を作り出した、三好を筆頭としたD課の面々を恨むべきだろう。始末書提出についてだけで言えば、上は悪くない。なにも。

「…なにか飲もう」

 恨むべきではない相手にうっかり恨みを抱いてしまいそうになる辺り、気付けていないだけで疲れが溜まっているのだろう。少し休憩しなければと、ナマエは給湯室へと向かった。

 D課の給湯室には、おそらくいち職場としてはそれなりの種類の飲み物が置かれている。それはD課の面々の好みがバラバラだとか、こだわりがあるからだとか、そういった理由からではない。
 ただ単純に、その優秀さゆえ仕事のほとんどを即座に終えてしまい。業務時間の大抵を暇な時間として過ごす事となってしまうため、空いた時間に飲むものを少しでも充実させようとしていたら、自然と増えてしまったというだけなのだ。
 警察としては優秀なのかもしれないが、社会人の働き方としてはあまり、どころかかなり良くない。課長がああなので、咎める者もいないが。
 とはいえそのバラエティ豊かなものも、こうして疲労を感じているときであれば、それなりに有難いもので。いっそ三好がめったに飲ませてくれない輸入品の茶葉でも飲んでしまおうかと悩んでいると、ふいに扉の開く音が聞こえた。
 給湯室から顔を覗かせ見れば、そこにいた人物も同時にこちらの存在に気付いたようで。ナマエの姿を見つけるなり、「うぉっ」と小さく肩を跳ねさせた。

「あら、佐久間さん。お疲れ様です。今日は上から呼び出されていたのでは?」
「あ、ああ…それはもう終わったんだ。さっき武藤課長と庁舎に戻って来たところで…そうしたら明かりがついているのが見えたから、誰かまだいるのかと思ってな」
「ちょっと書類の確認をしてたんです。のんびりやってたら遅くなっちゃって。今から少し休憩するんで、よかったら佐久間さんも紅茶飲みませんか?」
「そうか、じゃあ有難く……ん?書類?」

 ナマエの役職は佐久間が係長としてD課に配属されたときから、その補佐をする『係長補佐』といったものだ。そのため仕事のほとんどは佐久間が把握できているはずなのだが、彼の記憶が正しければ、少なくとも残業してまで確認しなければならない程締め切りが近い書類など、今はなかったはずだ。
 頭をひねろうと該当物が思い当たらない佐久間は、扉から一番遠い自身の席に荷物を置くと、ナマエの机に目を向ける。そして『始末書』と書かれた書類を目にした途端、ばつが悪そうに顔を歪めた。

「すまない…これは俺が頼んだものだろう」

 戸棚から自身の淡いイエローのマグカップと、その隣に置かれた真新しいグリーンのマグカップを取り出し。それぞれにお湯を注ぎながら、ナマエは「ああそれ、」と呆れたように笑った。

「上は月曜朝イチで出せって言ってくるでしょうから、早く終わらせた方がいいと思って」
「そうだろうが…一応月曜中でもいいとは言っていたんだから、こんな遅くまでやらなくてもよかったんだぞ」
「そう言って佐久間さん、以前も"なんで朝イチに出さないんだ"とか言われて、理不尽に怒鳴られてたじゃないですか」
「そ、それはそうだが…」
「それに、明日お休みだからって私がぐうたらしてたのが悪いんですから。気にしないでください」

 まだ納得はいっていないようだが、当人であるナマエにここまで言われてしまえば、もはや佐久間に言えることはないのだろう。言葉を無理やり喉の奥に流し込んだような顔をしつつも、それ以上何も言うことはなかった。

「はい、どうぞ。この時間だと寒かったでしょう」

 それでも未だ書類にを見つめる佐久間の視線を遮るように、ナマエは彼の目の前にマグカップを差し出す。冬の気配はまだとはいえ、それでも秋を迎えてから数週間は経っている。二十時過ぎともなればスーツだけでは少し肌寒さを感じる季節だ。現に先程部屋に入ってきたばかりの佐久間の鼻の頭も、少し赤くなっていたのだから。
 戸惑いながらも佐久間は「すまない…」とほんのり湯気の立つそれを受け取り、ひと口すする。その姿にナマエは「いえいえ」と返すと、軋むオフィスチェアへと腰を下ろした。佐久間もそれに倣うように、自身のデスクへと腰を下ろす。
 さあ、あと少しだと気合を入れ、ナマエは再び書類へと視線を落とす。──これは波多野さんと実井さん。こっちは神永さんに、こっちは…。隅々まで目を走らせ、内容と報告に齟齬がないか、誤字脱字、その他諸々を確認していく。休憩がてら紅茶を飲んだおかげか、先程より幾分か集中できているようで。これならあと十五分もあれば終わるなとぼんやり考えていた矢先、沈黙を破るように、佐久間が口を開いた。

「…見合いだったんだ」
「なにがです?」
「今日。呼び出された理由だ」
「…お見合い、ですか。それはそれは…このご時世に珍しいですね」
「それが、相手は刑事局長の娘さんらしくてな…」
「あー…」

 業務時間内にわざわざ呼び出してまで見合いをさせるということは、相手はそれなりに権力がある家のご息女だろうとは思っていたが、まさか刑事局長だとは。
 思っていたより上の名が出てきたことに、ナマエは佐久間へわずかに同情する。まあ佐久間の顔立ち、仕事への姿勢、性格、年齢にしてはそれなりの地位ということを考えれば、確かに良い物件だろう。相手に選ばれたのも頷けた。
 警察という縦社会の組織に所属しており、しかも元上司が、上の言うことを聞くしかできないあの武藤課長ともなれば、結局は佐久間も従うしかできないのだ。今も、昔も。

「…じゃあ、佐久間さん。いずれその方とご結婚されるんです?」

 温かい紅茶を飲んだばかりだというのに。いやに乾いた口内に内心苛立ちながらも、ナマエは佐久間に尋ねる。
 そうして言葉にした瞬間、肩に石でも乗ったかのような不快な、ひどく重たい気分になった。

「…いや、断った」
「…あら、そうなんですか。…どうして?」
「………」
「…佐久間さん?」

 けれどその問いに佐久間は答えなかった。代わりとばかりに突然訪れた沈黙を不思議に思ったナマエは、再び顔を上げる。
 その瞬間、いつからこちらを見ていたのだろう。いやに真面目な面持ちの佐久間と、ばちりと視線が交わり。何故かナマエは気圧されたような感覚を覚え。息が喉の奥でつっかえてしまった。

「好きな人がいるんだ」

 あまりに真っ直ぐな瞳だった。思わず言葉を失ってしまうほど、佐久間はただ迷いのない瞳でナマエを見つめていた。──ああこの瞳は、あのときと同じだ。もう帰れないと、会えないと分かっていて、それでもなお真っ直ぐに想い伝えてきた、あのときと。
 その視線ひとつで、込められた意味を理解してしまったナマエは、あふれそうになる感情を、奥歯をほんの一瞬だけ噛み締めることで耐え。無意識のうちに逸らしてしまっていた視線を佐久間へと戻しながら、なんとか声が震えぬよう言葉を紡ぐ。

「…それは、誰ですか?」
「…この状況でそれを聞くのか?」

 まさかこんな状況でなお誤魔化されるとは思っていなかったのだろう。佐久間は不意を突かれたような表情を見せた後、少し視線をさまよわせながら、最後は「もう分かっているんだろう?」とでも言いたげな表情でナマエを見た。
 あまりからかっては可哀そうだろう。佐久間がこういったことに慣れていないというのは、知り合うより前、それこそずっとずっと前から、ナマエは知っていたのだから。
 ──けれどあのとき、人の心に一筋の傷を残すだけ残していなくなったあなたに、これぐらいの意地悪とわがままは、許されるでしょう?
 ナマエはふっ、と小さく笑い。「佐久間さん」と、男の名を呼んだ。

「お願い…言って」

 その一言で、全てを佐久間は理解できた。できてしまったのだ。
 ぎゅうっと心臓が締め付けられる感覚と共に、心の奥底に感じた妙な懐かしさに背中を押されるように、佐久間はゆっくりと立ち上がる。
 たった二歩。されど二歩。一瞬で詰められてしまうその距離は、けれど今だけは、ひどくもどかしく感じて。待ちきれないとばかりに、ナマエの身体は自然と動いていた。

「……」
「……ふふ」
「…笑うな」
「ごめんなさい。でも佐久間さん、すごい眉間にしわが寄ってるから…」

 立ち上がったナマエの目の前まできた佐久間は、おおよそこれから想いを告げるためとは思えないほど険しい顔でナマエを見つめていて。
 好きな人がいるとはっきり口にしておいて、今さら何故そんなに緊張するのか。思わず吹き出すナマエに、「仕方ないだろう」とどこか不貞腐れたように言いながら、佐久間はナマエを腕の中へと閉じ込めた。

「…好きだ」
「…知ってます」

 返事の代わりに、ナマエはその大きな背中へ腕を回す。それに応えるように佐久間の腕にも力が込められる。ナマエの身体は軋みそうなほど仰け反ったが、そのわずか痛みさえも、今は愛おしくて仕方がなかった。



「このスーツだけどな…、」

 残り数枚となっていた始末書を手分けして確認していると、佐久間がふと切り出した。

「その素敵なスーツが、どうかしたんですか?」

 ──少し重たげなネイビーに、その色を和らげるような薄い灰紫のネクタイ。襟部分のカラーとラペルに黒い布が使われているところを見ると、それなりに良いスーツだということが分かる。そしてそれを上背もあり体格もいい佐久間が着ているとあって、とても上品な雰囲気を醸し出していた。
 夕方頃佐久間が慌てて本部へと向かった際に着ていたのは、こんな上等なスーツではなかったはずだから、おそらく本部かどこかで着替えたのだろう。給湯室からその姿を確認した瞬間、「やけに良い格好してるな」と確かに違和感は抱いたが、特にその理由までは思い至らなかった。まさかお見合いだったとは。
 よく似合っているそれが見合いのために用意されたものというのはナマエとしても少し気に入らないというか、気になるところではあるが、中々見ることのできない姿を見れたという点では良しとしておくことにする。そうでもないとまた、顔も知らない上司の、これまた顔も知らない娘に微妙な思いが生まれそうだからだ。
 そんなナマエの考えなど知るはずもない佐久間はその言葉に、分かりやすくぱっと笑顔になった後、どこかほっとしたような表情で小さく息をついた。
 
「素敵か?」
「はい。それ、結構いい物でしょう?とてもよくお似合いですよ」
「そ、そうか」

 佐久間は少し照れたように、こめかみ辺りの髪を指先で撫でながら、「実は、な…」と呟く。

「スーツは、お前のことを考えながら選んだんだ」
「…私?」

 ナマエは目を見開いた。まさかそこで自身の名が出てくるとは思っていなかったのだ。

「呼び出しを受けたとき武藤課長に、『見合いだから上等なスーツを着て来い』と言われたんだが…」
「…武藤課長らしいアバウトさですね」
「はは…俺も考えているうちに、定義がよく分からなくなってしまってな……」

 散々悩んだそのときを思い出しているのだろう。「あれは大変だったよ」と笑いながらも、八の字に下がる眉がその苦労を表していた。
 断るのが前提とはいえ、選ばれた以上は相手のためにも、それなりに誠意のある身なりと態度でいるのは当然だろう、と。そういうことらしい。考えすぎて収拾がつかなくなる辺りがなんとも佐久間らしい思考回路だと、ナマエは思った。

「…だから逆に、見合いの相手がナマエで、一目見て"俺と結婚したい"と思ってもらえるような服はどんなものだろうかって考えながら選んだんだ。……そうしたら、すんなり決まったよ」

 そこまで言って恥ずかしくなったのだろう。短い黒髪の間から覗く耳は、ほんのりと赤く染まっていた。

「だから、素敵だと言ってくれて…正直ほっとした」

 ──正直な話。ナマエが"素敵なスーツ"と言ったのは、純粋な感情だけではなかった。有り体に言えば、わずかに嫌味のような、皮肉のような。他の誰かのために用意したのだという事実に対する、小さな嫉妬心。けれどそれだけで片付けてしまうのは少し違うような。
 そうしてなんとも複雑に絡み合った感情を押し殺し。それでもその姿に心惹かれたのは事実なのだからと絞り出し、純粋な感情だけを声に乗せたのが、"素敵な"という言葉だっただけなのだ。
 けれど、少し棘すらあったはずのそんな言葉は無意味だったらしい。なにせ今の目に映る佐久間の全ては、佐久間自身が、他でもないナマエのために用意したようなものなのだから。簡単な話、自分で自分に嫉妬していたようなものだ。
 なんとも恥ずかしいことを自覚してしまったことと、思っていた以上に、佐久間から向けられている想いが大きかったこと。色々が混ざり合い、つられるようにナマエの頬や耳も赤く染まっていく。

「…佐久間さんって、」
「ん?」
「知ってましたけど、天然で、たらしというか…」
「え、」
「そういうところも、お見合いの相手に選ばれた理由なんでしょうね…」
「ど、どういう意味だそれは」
「すみません。悪い意味ではありませんから」

 戸惑う佐久間に小さく笑いながらそう返す。若干納得はいっていない様子ではあったが、これ以上聞いても真相は答えてはもらえず、とにかく言う通り悪いことではないとのだろうと判断したようで。口をもにょもにょさせながらも、「そうか…」と自身を納得させるように呟いていた。そういう単純なところもまた相手のツボになるんだろうな、とナマエは思った。

「…ねえ佐久間さん。お疲れでなければ、この後食事でもどうですか?」

 馴染みのお店があるんです、と続けたナマエに、佐久間はご褒美をもらった犬のようにぱっと顔を上げ。「もちろんだ」と答える。目尻を下げ小さく微笑むその顔は、やはりあの頃となにも変わっていなかった。

「できればその時、寄ってもらいたい場所があるんですけど、いいですか?」
「ああ、構わない。どこだ?」
「お花屋さんに…夜遅くまでやっているところがあるんです」

 その花屋は、夜景を見ながら食事ができるという、テンプレートのようなシチュエーションが叶えられるレストランを備えたホテルの、さらにその中に店を構えている、少し変わった花屋だ。ホテルの中に花屋など客は来るのかとも思われそうだが、特別な場所に来る客相手という分かりやすいターゲティングのおかげか、案外好評らしい。たまに、うっかりしている間抜けな客が慌てて来ることもあるのだそう。
 以前仕事で神永とそのホテルを訪れた際聞いたのだが、まさかこんなところで役に立つとは思わなかった。そのときは適当に返事をするに済ませておいて我ながら現金だとは思うが、ナマエは記憶の中の神永にひっそりとお礼を言っておく。それはそれ、これはこれだ。

「花屋…なんの花を買うんだ?」

 予想外の場所だったのだろう。佐久間は一瞬きょとん、としたものの。普段花なぞ買わない身からすれば、この時間にわざわざ買いたいと言うくらいなのだから何かしら理由があるのだろうと、すぐに興味深々といった風に尋ねてきた。
 ナマエは唇をぎゅっと結ぶと、真っ直ぐに佐久間を見つめる。

「薔薇の花が欲しいんです。青いものを、一本だけ」


 ──軍服を着たその男は言った。愛していた、と。女はわずかに目を見開き、そして答えた。「知っていました」と。
 その返事に男は一言、そうか、と笑い。会えてよかったと、一輪の薔薇を差し出した。
 まだずっと先に訪れるはずの夏の空を、待てなかったとばかりに詰め込んだような、鮮やかで、とても美しい青だった。





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