※展新規衣装の話5
護衛任務──その命令をナマエが三好と共に受けたのは、本部へと出向いていた結城が、数日ぶりにD課のオフィスへと帰って来た日のことだった。
内容は、都内某所のホテルで行われる警察関係者と、その知り合いが呼ばれるパーティ。休日で上層部の人間たちも多く参加することから、参加者の一人として紛れ周囲への警戒に当たれ、というものだ。
なんともアバウトな内容と、ほんのわずかに煩わしそうな結城の雰囲気からするに、おそらく佐久間の元上司である武藤からの命令、もとい圧力なのだろうことは想像に容易かった。
普段は厄介者として扱っているD課をそんなパーティに参加させるなどいかがなものかとも思うが、そもそもD課は内部の人間にさえその存在があまり知られていないことを踏まえると、ある意味最も適任ともいえるのだろう。
なにより、仮に厄介者が紛れ込んでいると露見し上層部が不快感を示そうと、D課ならば「勝手に潜り込んだようです」と適当を言って切り捨てても構わないと、そういったところか。嫌われ者はとことん嫌われる運命らしい。
しかし、魔王たる男がただ小間使いの如く扱われるだけで仕事を終える気など、毛頭あるわけもなく。
上層部連中、パーティ、酒とくれば、もはや言わずもがな。緩んだその口元から情報をできる限り引き出してこい。特に、酒で口が軽くなることで有名な、このくだらない任務の命令役である武藤からの情報を──結城は表向きの護衛とは別にもう一つ、そう任務を課してきたのだ。
その準備の為にと取られた、会場ホテルの一室。磨かれた鏡に映る自身の顔を、ナマエはじっと見つめる。──パーティー用にと渡された、ノースリーブタイプの黒いドレス。それに合わせて選んだ、きらびやかなブラウンゴールドのアイシャドウ。濃いブラックのマスカラは、伏せた瞳が美しく見えるよう華やかに長さを出していく。反対にアイラインはやや薄く、けれど目尻をわずかに跳ねさせる。
普段D課内でデスクワークが基本のナマエにとっては普段とまったく違うテイストのメイクだが、どこかしっくりくるのは、前世で培った技術のおかげだろうか。
そんな自画自賛を心の中でしながら、置かれた二つの口紅を、それぞれ手に取る。──左には、深く落ち着いた赤。右には、少し鮮やかな青みのある赤。スーツが常での日常であればその日の気分で決めるところなのだが、今日身に纏っているものはパーティー用の華やかなドレスということもあり、適当に決めるわけにもいかず。鏡の中の自身と手元を交互に見ながら、ナマエはうんうんと小さく唸り声を上げる。
「こちらの方が、今のメイクとも、僕のスーツとも合うと思いますよ」
ふいに背後から声がかけられる。ナマエが鏡越しに背後を見ると同時に、その人物──三好はナマエの左手に、そっと自身の手を添えた。
左手には、深く落ち着いた赤。今まさに彼が着ているスーツとよく似たバーガンディ。確かに男女のペアで参加しているとなれば、互いに合わせた色合いの方がまとまりがあるだろう。
「じゃあ、こっちにします」
言って、ナマエは選ばれなかった方の口紅をドレッサーに置き。そのままバーガンディを塗ろうとする。
「…あの、三好さん?」
けれど左手は、何故か三好に掴まれたまま。それどころか、なにをしているんだと訝し気に名を呼んだナマエに、にこりと微笑みを返してくる。
「塗ってあげます」
それはひどく楽しそうな表情だった。けれどナマエはそれと正反対に、露骨に顔を顰める。
「そんな顔をしないで。仕上げをしてあげたいだけですよ」
ナマエが顔を顰めた理由を、そしてそれを隠そうともしない理由も、三好には分かりきっていた。分かりきっていてなお、ナマエの手を離そうとは微塵も思っていないのだ。
自分でやります、と言いかけて、ナマエは寸前のところで言葉を飲み込む。
──前世の記憶、というものがある。昭和十二年、陸軍内に秘密裏に設立された、D機関と呼ばれる諜報組織。ナマエはそこで、この三好という男と知り合い、そして──恋人という関係になった。
過ごした期間はとても短かった。けれどその分、同じ屋根の下、互いにスパイという立場にありながらも蜜月な関係になったがゆえに、気付いたことがある。──三好という男が、こうして一見人当たりの良い顔を、"恋人"という関係であるナマエに向けるのは、大抵がなにかを企んでいるときだ、ということを。下世話な表現をするのであれば、好きな子をいじめたい、とでもいうのだろうか。
ただ、そんな小学生のような思考ならいくらでも対処ができるのだが、あいにく相手は三好。口のうまさは悔しいことに、彼の方が何倍も上だ。だから今、面倒がゆえにあれこれと断りの理由を述べようと、三好はそれを上手く躱し。結局のところ丸め込んでしまうだろう。それを分かっていて丸め込まれてしまうナマエもナマエではあるのだが、これはもういくら生まれ変わろうとも、一生変わらぬ二人の関係性なのだ。
面倒ごとは避けたいから大抵のことはまあいいかと受け入れる性格のナマエと、我が強く意見や考えを臆せず述べ人を先導することができる三好は、そういう意味では相性が良いともいえるのかもしれないが。
「…じゃあ、お願いします」
ナマエは諦念の溜息をひとつ吐き出すと、握られていた手からふっと力を抜き。そのまま口紅を三好に委ねる。
「ふふ、よかった」
笑いながら、三好がナマエの右側へと回る。向き合うようにナマエも身体ごと動けば、すぐに顎が持ち上げられ。じっとこちらを見下ろす瞳と視線が交わった。
「ほら、目を閉じて」
促すように、しなやかな指先がナマエの喉元を撫でる。そのくすぐったさに目立たぬ喉仏をわずかに上下させながら、ナマエは目を閉じる。くつくつと楽し気な笑い声が耳に響く。
蓋の開く音がして、わずかに硬いものが唇に触れる。そのまま、すうと横に引かれ。唇が色付いていくのが感じ取れた。
任務で化粧をしたこともあったからだろう。丁寧なその手付きにナマエが感心していると、「…終わりましたよ」と小さく呟く声が聞こえた。
伏せたまつ毛をゆっくり持ち上げ、ありがとうございます、と。ナマエは閉じていた唇をわずかに開く。──そのときだった。色付いたばかりのその唇に、やわらかいものが触れたのは。
戸惑いの言葉は出てこなかった。いや、正確には出ているはずなのだが、音にならなかった。目の前の男にすっかり飲み干されてしまったからだった。
「…おや、すみません。少しよれてしまいました」
わざとらしく言いながら、三好はナマエの口元を親指で拭う。その唇はわずかに赤く染まっている。まるで無理やり拭ったかのように、歪な形に擦れながら。
それが、ナマエが目を閉じている間に悪戯で自分に塗ったのではない事くらい分かる。というよりも、よほどの馬鹿でもない限りそんな考えにいきつく方が難しいだろう。
ならば理由はひとつしか残されていない。──けれどどうしてか、口付けられたのだと気付いたのは、今さらになってようやくだった。
ようやく思考が追い付いたところで、やはりやられたと、ナマエは悔し気に唇を尖らせる。けれど三好はその様子にもまた、「それじゃあ塗れませんよ」と笑みを深めるだけだった。
「…自分でやります」
返して下さいと手を伸ばせば、三好はそれまでの攻防が嘘のようにあっさりと口紅を返してくれた。やりたいことがやれて満足ということだろう。
無駄だとは理解しつつ、それでも平静を取り繕うように、ナマエは三好にティッシュを一枚差し出す。そうして、よれたバーガンディを躊躇なく拭う三好を横目に鏡へ向き直り、はみ出た部分を拭き取ると、改めて口紅を塗っていく。
よれた部分だけを塗り直し、唇を擦り合わせ、軽くティッシュでオフをして。最後に鏡に映る姿を確認をすれば、ようやくすべてが完成だ。
「…お待たせしました」
ドレスの裾を整えながら立ち上がれば、「いいえ。全然待っていませんよ」という小さな微笑みと共に、三好はナマエに右手を差し出した。
エスコートするというのだろう。ただ先ほどの悪戯のせいで、その手を素直に取るのはどうにも躊躇われるが。
「心配しなくても、もうなにもしませんよ」
そんなナマエの思考を察したようで、三好は促すようにさらに手を伸ばしてくる。「…心配なんてしてませんよ」と左手を重ね、ナマエは一歩、その距離を詰めた。
「…ああ、そういえば。忘れてました」
言葉と共に、ヒールのおかげでいつもより近くなったブラウンの瞳が、思い出したとばかりにわずかに見開かれる。「なにをですか?」とナマエが訊くと同時に、三好は繋いでいない方の手──左手をポケットに入れ中を探ると、なにかを握って取り出した。
左手はそのまま、繋がれたナマエの左手に重なる。
「え……、」
終ぞ出すまいとしていた動揺の声は、驚くほどあっさりと漏れてしまっていた。けれど今のナマエに、それを気にする余裕など微塵も残されてはいない。
それもそうだろう。なにせ三好の手が退かされ現れた、自身の左手の薬指には──指輪がはめられていたのだから。
磨かれたシルバーに、少し丸みのあるストレートの輪。中心には美しく輝く石が埋め込まれているだけの、とてもシンプルなものだった。
ナマエはただ茫然と、己の手を、指輪を見つめる。それは動揺するナマエの心など知らぬといった様子で悠然と、まるでそこがあるべき場所とでもいうように鎮座していた。
「虫除けですよ。変な男に言い寄られでもしたら、それこそ厄介ですからね」
その存在を確かめるかのように、三好はナマエの薬指を、指輪から爪先まで親指で何度も撫で下ろす。
伏せたまつ毛から覗くブラウンの瞳は、とろりと緩んでいる。それはなんの打算も感じさせない、ただひたすらに、ナマエという存在への想いを表すような、そんな色をしていた。
仮にこれが、指輪その物だけだったならば、ナマエもそこまで動揺を示さなかったかもしれない。けれど実際、指輪は左手の、しかも薬指にいる。そこに指輪をはめる理由を三好が知らないはずなどない。
ならば彼はすべてを理解したうえで、あえてナマエに、その場所に身につけさせている。そういうことなのだ。
「……三好さんって、」
小さな吐息と共に呟かれた言葉に、三好は伏せていたまつ毛を上げる。
「こういうこと、する人でしたっけ…」
指輪だなんて、前世の自分たちが見たら笑ってしまうだろう。子供っぽい牽制だ。少なくともナマエの記憶の中の三好は、こんな風に分かりやすい形を残すようなことを、ただの一度だってしたことはなかった。
ナマエの言葉に、三好は一瞬虚を突かれたような顔をして。そうしてすぐに「ははっ」と、思わずこぼしてしまったという風に笑った。それは三好にしては珍しい、なにも秘めていないと分かる、そんな笑い声だった。
「僕はこういう男ですよ。…昔からずっと、ね」
その言葉に、今度はナマエが目を丸くする番だった。彩られた唇は、なにかを言いたげに小さく開閉を繰り返し。頬は薔薇でも咲いたかのように、真っ赤に染まっていく。
「ちなみにですけど」
「なんですか…」
「そのドレスも、僕が選んだものですよ」
黒いドレス──デコルテから胸元にかけての首元はレースで作られていて、過度な露出を抑えつつも程よく肌を見せてくれている。そこにフィッシュテールという、動く度ふわりと揺れる海のような裾も相まれば、色から受ける落ち着いた印象の中にもわずかな愛らしさ感じさてくれる。そんなドレスだった。
一目でナマエの心を掴んだそれは、なにより三好のバーガンディとも相性が良かった。おそらく結城が選んだのだろう、やはりあの人はセンスがある、と。ナマエは胸中で密かに感動していたのだが。
まさか指輪だけでなくドレスに至るまで、すべて三好が選んでいたとは。あえて冗談めかしたように言ったのに。これでは余計に三好の、ひどくあたたかな、光をその身に抱き込んだようなやわい想いを、ことさら意識してしまうではないか。
けれどナマエは知っている。抱き込まれた光が胸の中に溢れ、そうして全身へと広がっていくこの感情を──愛しい、と。そういうのだと。
ナマエは思わず下唇を噛みそうになる。けれど口紅のことを思い出し、寸前のところでなんとか止め。代わりに、もにょりと擦り合わせた。そうでもしないと、この感情が今にも全身からあふれ出て、部屋中を満たしてしまいそうだったから。
「こら。せっかく綺麗に塗ったのに、またよれてしまいますよ」
三好は相変わらず笑みを携えたまま、まるで子供の悪戯を咎めるように、ナマエの唇の端を指の甲で軽く撫でる。
その身にわずかに赤を乗せ離れていく指先を、ナマエはじっと目で追う。そうして辿った先、黒い瞳が、眦をつり上げたブラウンの瞳と静かに交わった。
長いまつ毛を伏せ、ゆっくりと近付いてくる端正なかんばせに合わせ、ナマエは瞳を閉じる。──互いの鼻先がわずかに触れた後、やわらかなふたつが重なる。ふたつはゆるりと擦れ合うと、小さく押し付けるように一度弾み。そうしてまたゆっくりと離れていった。
「……口紅、またついちゃいましたよ」
「そうですね。…でも、ナマエさんがしてほしいと言っていたので」
「言ってません」
「目が言っていたんです」
仕方ない人だと、少し呆れたように。けれど隠せない甘い柔らかさをその目尻に滲ませて、三好はナマエを見つめた。──ナマエはこの表情を、充分すぎるほど知っている。
顔が見たくて。──そんな、らしくもない言葉と共にナマエの頬を撫でた男は、翌日にはその姿を消していた。ドイツへ行ったと知ったのは、それから数日後。死んだと聞いたのは、それから一年後。紅葉が艶やかに色付く、ある秋の日のことだった。
あの日から、過ぎる時を指折り数えた。どれだけ経とうとも、違う時代を生きようとも。それでも、いつだって鮮明に思い出せる。
仕方のない人だと呆れながらも、どこか嬉しそうな。両の手でも抱え切れぬほどの愛を、それでもまだ足りぬとばかりにつめこんだ、その表情。──今の三好は、あのときと同じ顔をしていた。
「……心配しなくても、大切なことはちゃんと言います。だから、もう少しだけ待っていてください」
"ちゃんと"の部分を強調して。言い聞かせるように、三好の親指が、ナマエの薬指の付け根をなぞる。その優しい手付きに始終難しい形をしていたナマエの唇が、ふっと緩んだ。
「…三好さんこそ、待てるんですか?」
両手の指を合わせ、それを何十回と折り返しても足りないくらい待ったのだ。もはや"もう少し"など、ナマエにとっては瞬きの間といってもよかった。──三次にとっては、どうなのか知らないけれど。
言外にそう含ませれば、三好は数度、その長いまつ毛を瞬かせ。そうしてすぐに、「あなたも言うようになりましたね」と、やはり嬉しそうに笑うのだった。
それから一週間後。任務の振替休日を取っていたナマエの元に、にこやかな笑みを浮かべた三好が訪れた。
「ずいぶん長い間、待たせてしまいましたね」
その腕の中に、驚くほど鮮やかな、青い薔薇の花束を抱えて。
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