※展新規衣装の話6

 ──今日の天気は晴れ。ですが正午を過ぎた辺りから曇り、雨がわずかに降るでしょう。
 今朝の新聞内、天候を伝える欄はそんな内容だったはずだ。
 けれど今、窓の外。ナマエと福本の目の前に広がる光景は少なくとも彼女の知る、曇り時々雨などという生優しい状態ではなかった。

「…止まないな」
「…そうですね」

 朝には暖かく柔らかな日差しを携えていた空は、今や轟音を孕んだ雲から雫を窓へと叩きつけている。春の嵐、なんて言葉ではもはや表せないほどの勢いは、いっそ苦笑いが浮かぶほどのものだった。
 そんな空を執務室から眺め、ナマエは胸中溜め息をつく。──この嵐のおかげで、以前から福本としていた、パーラーに行くという約束がすっかり潰れてしまったからだ。天候が崩れる前、講義が終わり次第すぐに街へと出ていった他の機関生達は、ある意味運が良かったのかもしれない。夜はどこかの店なり宿屋で過ごし、明日の早朝に帰ってくれば、とりあえず講義には間に合うのだから。
 二人ももう少し早くに出かけたかったのだが、ナマエが最後に書類の確認やら提出やらをしていたこともあり、結局この時間になってしまった。
 少しの雨ならもちろん二人も出かけたのだが、余程の用事がない限り外出を控えることをお勧めしますと、わざわざラジオで言われるほどだ。もうこうなると、どう足掻いても今日は外に出るなと叱られているような気さえしてくる。せっかく今日という日のために綺麗に整えた衣装が、輝きの場をなくして落ち込んでいるように見えるのは、きっとナマエの心が同じ状態だからなのだろう。
 自然現象で予定が左右されてしまうのは仕方のないことだ。誰も悪くはない。そんなことにいちいち落ち込んでいてはいけないけれど、やはり楽しみにしていたことが台無しになるのは、大人といえど少しだけ悲しかった。

「…残念だけど、また今度ですね」

 まるで自身に言い聞かせるように苦笑するナマエに、福本は「ああ…」と小さく返す。その声音で、顔に出さないだけで福本も残念に思っていることはナマエにも感じ取れた。
 この外出の為にすべての仕事を午前で片付けてしまったため、やらなければいけないことも、やるべきこともない。一、二時間程度の空きや元々決まっていた休日ならまだしも、突発的に生まれた時間の過ごし方が、ナマエはこれといって思い付かなかった。こういうところは不器用だなと我ながら思う。
 それに、仮にここで結局仕事をしてしまえば、休みをくれた結城に「少しは休め」と複雑な顔をされることも目に見えているため、それもできない。要は手詰まりというわけだ。

「ナマエ」
「…あ、はい。なんですか?」

 どうしたものかと窓の外をぼんやり眺めながら悩んでいると、ふいに低い声で名前を呼ばれる。一瞬遅れて窓からぱっと顔を外し、ナマエは福本を見た。

「…二時間後に、食堂に来てくれないか」

 福本はちらりと壁掛け時計に視線を向けると、少し考えるような素振りの後そう言った。ナマエはきょとんとしながら、「二時間後、ですか」と続ける。

「ああ。…まあ、大体二時間くらいでいいから」
「分かりました」
「服はそのままでいい」
「はあ…」

 まるで念を押すように言われるも、福本はそれ以上詳細を話す気はないらしく。言うや否や、「じゃあ、あとでな」と執務室を出ていってしまった。
 消えた後ろ姿に、もう届くことはないと理解しつつ。ナマエは「分かりました…」と、何一つ分からないまま同じ返事をする以外できなかった。



 結局、二時間後と指定されたナマエは、提出はしばらく先でいいと言われていた書類を片付け。ついでに服が汚れない程度に、結城の執務室を軽く掃除することで時間を潰し。十四時になる五分前に、食堂へとやって来た。
 食堂のある一階に降りる途中、階段を曲がった辺りからすぐに鼻をくすぐった匂いに、その場所も含め福本が何をしているのかは大体察しが付いていた。出かけられなかった代わりにお昼の準備をしてくれているのだろう。
 ありがたいと思う反面、だとすれば、結局休日に働かせてしまったと罪悪感も生まれる。おそらく福本は気にしないだろうがナマエの気持の問題だ。
 心なしか少しだけ歩みを遅くしながら、扉の前に立つ。腕時計を見れば、あの会話からちょうど二時間。ばっちりだ。

「…福本さん?入りますよ」

 ノックをすれば、「少し待ってくれ」と小さく返事が聞こえ。次いでコツコツと革靴の音が近付き扉が開かれた。
 糊の利いたシャツの上に見慣れた割烹着。先ほどの予想はやはり当たっていたようだ。

「お昼、作ってくださったんですか?」
「ああ」
「せっかくのお休みにすみません…なにかお手伝いできることはありますか?」
「いや、もう終わるから大丈夫だ。そこに座っててくれ」

 二時間前まで着ていたグレーのコートは、無造作に椅子の背もたれへと掛けられていた。形が崩れてしまっては大変だと、ナマエは今さらではあるが壁付けのハンガーラックへと掛けてやった。

「すまない、ありがとう」
「いえ」

 返事をしながらナマエは炊事場に一番近い席へと腰掛け、なんとはなしに福本へと視線を向ける。──そういえば、こうして福本が料理をするところをきちんと見るのは、なんだかんだ初めてかもしれない。
 ナマエは仕事の関係上決まった時間に食事が取れないため、昼は機関生らが午後の講義へと入っている頃合いに残しておいてもらったものを。夜は基本的に全員街へ出払ってしまうため、すべての仕事を終えた後、福本があらかじめ用意してくれている一人分を食す、というのが常だったからだ。
 一日の食事すべてを福本に作ってもらっているにもかかわらず、調理をしている姿、そして行為そものを見たことがないなんて。申し訳ないにもほどがある。
 けれどそれを口にすれば、「俺がやりたくてやっている。適材適所だ」と、おそらくナマエにしか分からないであろう甘さを含んだ声音で言われてしまうのだから。結局ナマエは言葉を飲み込み、福本に甘える他なくなってしまうのだが。
 とはいえそれにナマエ自身も、なんともいいがたい喜びを少なからず覚えているのも、また事実で。結局お互い様ということなのかもしれない。

「お待たせ」

 せめて次は一緒に作るか、それともやっぱり私がやると名乗り出るべきか。ぼんやり考えていると、机上に二枚の皿が乗せられた。
 ──鮮やかな黄色い卵を挟んだサンドに、玉ねぎとじゃがいものサラダ。小さく千切られたレタスはパセリの代わりだろうか。皿の隅に寄せられて、その隣にはトマトが添えられている。

「わ、卵サンドだ」

 割烹着を脱いだ福本は、椅子を引き寄せナマエの正面へと腰掛けた。

「有り合わせのものだが、これなら少しは気分も味わえるだろう」

 その言葉にナマエは一瞬きょとんとしたが、すぐにその意味を察する。──約束のパーラーへ行けなかったから、代わりに今あるもので似たような状況を、といったところらしい。
 なにを考えているのかは相変わらず口には出さないが、福本なりに落ち込むナマエを気にかけてくれていたのだ。

「…なんだか気を遣わせてしまったみたいで、すみません」

 こちらを想ってしてくれたことはもちろん嬉しいが、出かけられず落ち込むなど子供のような振る舞いをし、あまつさえ、それに気を遣わせてしまったということが、ひどく情けなかった。感動を申し訳なさが上回ってしまい、まるで花がしおれるかのごとくナマエは眉尻を下げる。
 福本は「いや…」と少し迷ったように呟き。一瞬、わずかに視線を落としながらも、すぐに伺うようにナマエを見つめた。

「すまない、言い方が悪かったな。…これは俺がやりたくてやったことだ。行けなかったことは、俺も残念だからな」

 どこか気恥ずかしそうに細められた眦は、たぶん、よく見なければ見逃してしまうような、そんな些細な仕草だった。

「それに…せっかくだから、少しでもそれっぽくできればと思ったんだ。だから、お前はなにも気にしないでくれ」

 そしてやっぱり含まれている、あの甘さ。ひどく甘やかすようなそれに、ナマエの頬はほわりと小さく熱を帯びる。
 福本は小さく微笑むと、「冷める前に食べよう」と手を合わせる。ナマエも軽く咳払いをすると、同じように「…いただきます」と両手を合わせた。



 食器や調理器具をすべて洗い終え、あとはゆっくり食後の紅茶でも飲もうと準備をしていたとき。湯をティーポットに注ぎながら、福本がふと思い出したというように訊いてきた。

「そうだ、ナマエ。まだ腹は空いているか?」
「…少しなら、まだ」

 棚から取り出した二人分のカップを調理場に置くと、ナマエは自身のお腹にそっと手を添え答える。福本は「じゃあ丁度いいな」と、氷箱の上に置かれたものをナマエの目の前へと差し出した。
 それは、埃が被らないようにと布巾が掛けられたお皿だった。お腹の空き具合を訊いてきた辺り食べ物なのだろう。福本は「座って食べよう」とすっかり中身を飴色に染めたティーポットを片手に、先ほどまで食事をしていた席についた。ナマエもカップを持ち後を追う。

「あんな素敵なお食事の他に、なにを作ったんですか?」

 なんだか、これから重大な発表でもするかのようだ。ナマエは少し期待に胸膨らませながら訊ねる。その無邪気な様子に福本は小さく口端を上げる。

「喜んでもらえるといいんだが」

 言って福本が布巾を取り払ったそこには、花の形をしたビスケットが二十枚ほど咲いていた。

「わあ…」

 それがあのパーラーで人気のお土産に似せているのだということは言わずとも分かり。なるほど二時間という間を取ったわけだと、ナマエは思わず笑みをこぼす。

「ふふ、なにもこんなところまで凝らなくても」
「形から入るのも大切だろう?ああでも、ここはオリジナルだ」

 福本が指差したビスケットの中央部分には、鮮やかな青色の花弁がのせられている。形からして薔薇の花弁だろうと気付くと同時に、それが数日前に、福本が一日かけて砂糖漬けにしていたものだということにも、ナマエは気が付いた。ほのかな甘い香りと、鮮やかな愛らしい青薔薇の花弁を一枚ずつ丁寧に摘み取っていくその姿が、なんとも可愛らしく。つい「完成したら、ぜひ食べさせてくださいね」なんて言ったのを覚えている。
 ちなみにそのうちの一本は、摘まれる前にナマエにプレゼントとして渡され。しばらくの間執務室を華やかにしてくれていた。だからナマエは、この青い薔薇にはより強い想いがあった。

「いただいてもいいですか?」
「ああ」

 一枚摘み取り、そっと口に運ぶ。途端、さくっと心地よい音と共に、ほのかなバターの甘味が口内に広がる。次いで、「一緒だとさらに美味いぞ」と勧められるまま差し出された紅茶を飲めば、ほろりと溶けていった。
 ナマエは声をわずかに上擦らせながら、思わず恍惚と溜息をつく。

「美味いみたいだな。よかった」

 小さく笑いながら、福本も紅茶をひと口すする。そこまで分かりやすく顔に出ていたのかと、ナマエはなんだか気恥ずかしくなり。「そんなに見ないで下さいよ…」と視線を逸らす。
 けれども福本はそれにさえも嬉しそうに笑っているのだから、言ったところであまり意味はないのだろう。ナマエは「もう」と小さく溜息をつきながら、ビスケットをもう一枚口にする。分かっていても、やはり緩む頬は止められそうになかった。

「…そういえば、言えてなかったんだが」

 他愛もない会話の最中にも何度も手を伸ばし、いつの間にかビスケットが残り二枚となったところで、福本がふいに口を開いた。ナマエは紅茶を飲みながら、「なんですか?」と小首を傾げる。

「その服、よく似合ってる。色もだが…お前は背が高いから、そういう仕立てが映えるな」

 ──白いブラウスに、パールボタンがついた濃いブルーのアタッチドカラー。そこから伸びる前立てにも少し小さめのパールが着けられている。
 タイトなスカートはウエストをベルトで締め、足元へ向かうにつれ細いラインを描いている。全体をすっきりさせながら、縦のシルエットが綺麗に見えるようにと試行錯誤した服は、暗く深い青紫色のスーツに、遊び心のようにネイビーの蝶ネクタイをした福本の服装に、驚くほどぴったりの装いだった。
 その言葉があまりに唐突だったせいで、ナマエは照れるだとかそういうよりも前に、思わず「え、」とこぼしてしまう。

「…もしかして、言う機会をうかがっていたんですか?」

 そうして、ほんの少しだけ考えた後。思い付いた可能性を口にすれば、福本は「まあな」と答えた。

「むしろ、言うのをずっと我慢していたくらいだ」

 当然といった様子の福本に、ナマエは丸くした目を左右にさまよわせ。唇を、なにか言いたげに閉じたり、開いたりしながら、最後にきゅうと噛み締めた後、わずかに手元へと視線を落とし、絞り出すように呟いた。

「……そういうことは…すぐに言ってくださいよ」
「どうして?」
「だって、こう…油断してるときに言われると…、」
「…言われると?」

 訊きながらも、福本の表情は「答えなど既に分かっている」とでも言いたげだった。それでもなにも言わないのは、直接ナマエの口から聞きたいと、そういうことなのだろう。
 ナマエは濡れた唇を小さく擦り合わせ、「…なんというか、」とぽそぽそと呟く。

「………ちょっと、照れちゃう…じゃないですか……」

 落ち着いていて、寡黙で。佇まいが静かで。──ナマの知る"福本"という男のイメージに合うようにと考え選んでおきながら、いざ褒められたら照れるだなんて。今さらなにを、と思うだろう。
 ただ例えばこれが、なにか言葉を貰えるだろうかと身構えている待ち合わせのときだとか、かしこまった店内で言われたとなれば、ナマエだって「ありがとうございます」と、わずかに照れながらも、そつなく返せていたかもしれない。
 けれど今は福本の食事で、それこそ身も心も完全に油断しきっている。そんなときに、普段あまり自身の考えを口にすることはない彼から、こうして面と向かって「実は最初から褒めようと思って、しっかり見ていた」なんて、言われてしまったら。──きちんとした言葉にするのは、どうにも難しいけれど。心のやわい部分を指先で優しく突かれたような、なんだか、そんなむず痒い気持ちになってしまうのだ。
 頬を両手で包み込めば、じわりと熱を帯びていた。きっと真っ赤になっているのだろう。自覚して、よけいに熱くなっていく気がした。

「……今日、」

 そんなナマエをじっと見つめ、ふいに福本は呟く。

「準備ができたと、俺のところに来たお前見たとき…こんなにも愛おしい存在がいるのかと、そう思った」

 また出そうになった間抜けな声を、ナマエは今度ばかりは飲み込んだ。

「お前は怒るかもしれないが、雨が降ってくれてよかったと今は思う。…おかげで、俺の為に着飾ってくれたその姿を、こうしてゆっくり、俺一人だけで楽しめてるんだからな」

 変わらなかった表情が、その瞬間、ふっとほころんだ。くしゃりと綻ぶ目元に、わずかに八の字に下がる眉、ゆるりと細められた目。言葉だけでなく、いつもよりずっと雄弁な表情と声が、楽しそうで、そしてひどく嬉しそうだった。

「それに、お前のそんな顔も見れたしな」
「…意地が悪い」

 小さく上げられた口端に、わずかなからかいの色が含まれる。照れると分かっていて、あえて噛み締めるような言い方をしていたらしい。なんて意地が悪いのかとナマエは唇を尖らせる。それを分かっていて、まんまとやられ動揺してしまうナマエもナマエだが。
 ナマエは誤魔化すようにビスケットにまた手を伸ばす。そうしてゆっくりと、窓の外を見やる。
 硝子には相変わらず雨が打ち付けている。落ちていく雫に洗われ、きっと明日の空は青く染まるのだろう。

「…雨、もう少し降るといいですね」

 けれど今はまだ、それはこなくていい。
 呟いた言葉に、福本はふっと目を細め。「そうだな」と、やはり嬉しそうに笑うのだった。


BACK | HOME