寮の廊下がオレンジに染まり始めた頃、伏黒は二階の奥からなにやら怒鳴り声のようなものが聞こえることに気が付いた。
 良い意味でも悪い意味でも騒がしい連中の集まる寮だ。騒がしい声が聞こえても何ら問題ではないのだが、今回ばかりはそうもいかなかった。

「おい、何かあったのか」

 声が聞こえる二階一番奥の部屋は、ナマエの部屋だ。それに加え近付くにつれ大きくなる声は釘崎のもので。
 同級生の女子とあって仲の良い二人がまさか喧嘩でもしているのかと心配になり様子を見に行けば、扉を開いた瞬間、驚いた様子のナマエと、眉間にこれでもかというぐらいしわを寄せた釘崎がいた。

「ちょうどいいわ。伏黒、ナマエとハンバーグ食べて」
「…突然なんなんだ」

 あまりにも唐突なその言葉の内容を説明すると、どうやらこういう事らしい。
 ──久々にオフの重なっていたナマエと釘崎。二人はナマエの部屋で一緒に夜ご飯を食べようとしていた。メニューはハンバーグ。ナマエの得意料理の一つだ。
 高専にも小さいが食堂はある。だが教員生徒含めそもそも人が少ないこともあり、調理担当のものは皆夕方には帰宅してしまう。つまり夕飯は各自で準備しなければならないのだ。そのため部屋には、使用の有無は別として、簡易的なキッチンが付けられている。

 そして今回は、どうやらナマエの部屋でその準備をしていたらしいのだが…伏黒が釘崎の怒鳴り声を聞く数分前、補助監督から彼女へ任務要請の連絡が入ったらしい。虎杖と共に今すぐ現場へ向かってほしい、と。
 呪術師として高専で学ぶと決めた以上、学生であろうと突然の任務にも拒否権はないわけで。しかし大好きな友人との大切なオフを邪魔されたというのは気に入らない。だがしかし…のエンドレスで、あの怒鳴り声に至ったらしい。
 そこへちょうどよく、狙ったかのように伏黒がやって来たという事だ。

「え、で、でも、野薔薇帰って来るまで、私待ってるよ…?」
「今からじゃ帰るの夜中になるでしょ。そんな時間まで待たせらんないわよ」

 釘崎の言葉に、後ろにいたナマエは大きな目をさらに大きくしていた。どうやらこれも釘崎の独断らしい。相変わらずの横暴ぶりだ。
 「伏黒ォ」とやや低い声で目の前の男を見上げる。なぜ俺がと思いつつも邪険にしたらそれはそれで、不満の矛先が自分に向くだろう。なんだよ、と小さく返事をする。

「ナマエ特性のハンバーグをあんたに食べさせるのめっちゃ悔しいけど、生肉だから明日じゃ味も落ちるだろうし、なにより出来立てが一番美味しいのよ。無駄にするわけにはいかないから、あんたが食べるの許可するわ」

 なんの許可だ、なんの。そう思ったものの口には出さず言葉を飲み込む。恨み言のように一息で言い切った辺り、釘崎も食べられないことが相当悔しいのだろう。仕事で仕方ないとはいえ可哀そうなことは確かなので下手に刺激しない方がいい。
 なにより、さらに苛立たせたらこの後共に任務へ行く虎杖が可哀そうだ。一秒にも満たない間にその考えにたどり着いた伏黒は「…そりゃどうも」とお礼を述べる。

「私のハンバーグ代わりに食べるんだから、今度お礼はしてもらうからね」
「いや作るのはお前じゃな…あー、もういいから早く行け。虎杖待ってんだろ」
「分かってるっつーの!ナマエ、また明日ね」
「あ、うん…頑張って…」

 怒っています、と全身で表現しながらばたばたと去って行く釘崎の背中を二人で見送る。
 嵐のようだったなとぼんやり思っていると、斜め下から伺うような視線を感じた伏黒は、なるべく刺激しないようにと脳内から必死に言葉を探す。

「……」
「…ハンバーグ」
「え、?」
「食わせてくれよ。腹減った」

 結局出てきたのは、日常会話のようでいて、戸惑うナマエを追い詰めるような、そんな言葉だった。



「すげえ量だな…どんだけ食うつもりだったんだよ」
「野薔薇が、たくさん食べたいって言うから…作っておけば明日も食べられるし、私のお弁当にも入れるし…」

 およそ二人分にしても多すぎるのではと思えるぐらいのひき肉を、小さな手が必死に捏ねている。それなりに自炊をする伏黒でも、この量を捏ねて成形して焼いてとなると面倒だなと感じる。それでも釘崎に食べたいと言われたなら何も億劫ではないのだろう。ナマエはそういう人間だった。
 豆腐とお揚げがたっぷり入った雪平鍋に味噌を溶かしながらその姿を横目で見つめていると、必死に動いていた手がぴたりと止まる。代わりに先ほどのような伺う視線が一瞬だけ伏黒を見上げ、すぐに逸らされた。

「…恵、痛い」
「手に傷でもあんのか」
「いや、別に怪我はしてない…というか、そうじゃなくて……視線が、」
「ああ…」
「そんなに見られてると、その…」
「なんだよ」
「いや…」

 ナマエが言わんとしていることは伏黒も分かっていた。見られるとやり辛いのもあるが、それ以上に戸惑うのだろう。そして、そうなってしまう理由も、しっかり分かっているのだ。
 分かっているからこそ、そうしている。そうしなければならない理由があった。
 ナマエが最も触れられたくないこと。伏黒が言わなければならないこと。二人が向き合わなければいけない、過去の出来事。

「…なあ、」

 沈黙を切り裂くように投げかけた言葉にナマエの身体が強張ったのを、伏黒は見逃さなかった。

「な、なに…」
「お前、あの時から俺のこと避けてるだろ」

 "あの時"。その言葉に、ナマエの脳内へ一気に映像が流れだす。
 ──浮遊感の後、ぐるりと回った景色。闇のような暗青色が近付き、伏せられた長い睫毛が自らのものと触れ合った。
 重なる唇の隙間から侵入を果たす舌は蛇の如く口内をかき回し、苦しさに身体を強張らせれば、手首を抑えつける手に力が込められる。
 熱い吐息が全身を撫で、滑る舌が自らも知らない場所を曝け出す。繋がり合った場所から聞こえる乱暴な音に声と涙が溢れ、それを骨ばった手が拭っていく。
 薄皮一枚隔て重なれば、まるでそこから溶け出してしまうのではと思った。
 いや、実際に溶けていたのかもしれない。溶け合って混ざり切ったあと、再び二つに分かれた。だからきっと、こんな感情を抱えることになってしまったんだ。
 あの日の熱は、忘れるにはあまりにも甘美で。かといって抱えていくには、ひどく重たかった。

「…な、んのこと。避けてなんか、ないけど」
「嘘つくなよ」
「嘘じゃない。じゃなきゃ、こうしてご飯食べようなんて…言わないでしょ」
「…釘崎が言わなきゃ、お前そのまま部屋にこもってただろ」

 ああ言えばこう言う。互いに引かない言い合いというのは、確実に追い込んでやるという意思を持った者が勝つのだろうか。いや、そもそも言い合い自体が不毛で勝ち負けなど存在しないのだが。
 けれどそう思わせるぐらいには伏黒の言葉は強く、誤魔化すことなど許さないとでも言いたげな気概さえ感じられた。
 このままでは結局図星を指され苦しくなる一方だ。卑怯だとは分かっているもののそれ以外の道がもはや無くなっているナマエは、口を閉ざしてしまう。

「…おい、こっち向け。黙って誤魔化すつもりかもしれねえが、もう逃がさねえぞ」

 このままだんまりを決め込んでしまおうか。そんなナマエの思考も、伏黒には筒抜けらしい。いくら見つめようとも合わない視線を、頬を掴むことで無理やり合わせる。長いまつ毛に縁取られた大きな瞳は伏黒の突然の奇行に困惑の色を浮かべつつも、それでも手を振り払うことをしない。
 肉を捏ねていた手で触れるのは申し訳ないと思っているのだろうか。本気でこの話を避けたいのであれば、普通そんなことも厭わないはずなのに。
 ナマエ自身も、いい加減この話と向き合わなければと、心のどこかで思っていたはずだ。そんな期待が伏黒の頭を過ぎる。

「…やっとお前の顔が見れた」

 安心感と喜びと、少しの罪悪感。そんな感情全てを綯い交ぜにしたような、そんな表情だった。
 ──先ほど伏黒が言った、"あの時"。それは、今から一年と少し前のこと。
 その頃ナマエは術師として本格的に任務を受けるようになっており、元々中学が別の伏黒とは、物理的な距離も含め直接顔を合わせるという事がめっきり減っていた頃だった。
 とはいえ所謂、疎遠というほどでもなく。定期報告程度には連絡を取っていたし、時折五条の愚痴のようなものを笑い交じりに聞き合ったりする程度には仲が良かったといえる。
 その均衡が大きく崩れたのは、伏黒の姉である津美紀が、正体不明の呪いにより眠りについてしまった頃。二人が15歳になる年だった。
 それまでも決して素行が良いわけではなかったとはいえ、一線を画すほど雰囲気の変わった伏黒を心配した五条が、中学の卒業よりも少し早めに彼を東京へと呼び寄せ、ナマエと共に寮生活を送るよう計らったのだ。
 同じ年齢で、似たような境遇で過ごし、他者には感じ取れないような感覚を共有して。出会った頃から独特の雰囲気で伏黒と通じ合っていたナマエなら、少しは彼の心に寄り添えるのではないか。そんな期待を込めてのことだった。
 けれどその考えは、五条の予想とはまったく真逆の方向へと突き進むこととなる。
 伏黒は一人抱え込んだその闇に、優しく寄り添ってほしいわけではなかった。自らが巻き込んでしまった罪悪感と無力さ、そして置かれた環境への理不尽さを、誰かに受け止めてほしかったのだ。
 そしてその誰かが、伏黒の感情も状況も、誰よりも理解しているナマエだった。
 そうして伏黒はナマエを抱いた。重なる唇と絡まる舌の熱さも、痛いと抵抗する腕も、恵と呼ぶ鳴き声も、全てを抑えつけて。
 ──ナマエにとってこの日の出来事は、決して忘れることができなかった。
 もちろん、信頼していた相手に合意のないまま暴かれたという点もあるが、それ以上に彼女にとって"伏黒が自分を頼り求めてくれた"ということが、なによりの理由だった。
 けれど同時にナマエは分っていたのだ。それは決してナマエに好意を持っていたからの行動ではない。ただ受け止めてくれる相手が近くにいる自分だった。それだけのこと。
 だからこそナマエは一切を呑み込み、それまでと変わらず過ごすことを決めた。そうでもしないと、自身も、他でもない伏黒も、互いに圧し潰されてしまいそうだったから。
 ナマエの態度に伏黒は時折何か言葉を吞み込むような素振りは見せていたものの、のらりくらりと躱してしまうナマエに、 自らが起こした行動の手前なにも言えず。
 加えて今日という日に至るまで、宮城まで単独で飛ばされたり、少年院で死にかけたり、エトセトラ…。ゆっくり話す暇など皆無で、ますますあの日のことは無かったことにされてしまいそうな、そんな状態だった。
 けれど今日、それを打ち砕けるときが来たのだ。たぶん、というか確実に。釘崎は二人の空気が、ただの幼馴染のそれではないと気が付いている。そうなるに至ってしまった経緯や理由はさすがに知らないようだが、だからこそこうして向き合って話す機会を与えたのだろう。
 ほとんど偶然の産物だが、そこは既にいない人物に言ってもしょうがないことだ。

「ずっと逃げて、向き合おうとしなくて悪かった……俺はお前が好きだ。たぶんあの時よりも、ずっと前から」

 自身が逃げていたことも、そのせいでナマエが諦めてしまったことも、全ての想いを隠して、捨ててしまおうとしたことも。ナマエの優しさに甘えて、見ないふりをしていた。
 ──今さらなんだと、都合がよすぎると言われるだろう。それでも伏黒は気付いてしまった。ナマエへの気持ちに、自身の気持ちに。
 煤けた映画のフィルムのように流れていくあの日の映像は、今なお艶めかしいリアリティをもって全身を支配する。それを忘れ生きていくなど、伏黒には到底考えられないことなのだ。

「な、にそれ…そんな、今さら……」
「分かってる。それでも俺は、お前を諦めたくない」

 覚悟を決めた伏黒の声色に、ナマエは再び言葉を飲み込む。伏黒の頑固な一面は出会った頃からある意味好ましい面でもあったが、それがこんな状況で、しかも自身に向けて発揮されてしまうとこうも厄介なのか。
 ナマエの大きく黒い瞳が揺らぎ、水の中にインクを垂らしたように滲む。ぎゅっと眉間に寄せられたシワが信じられない物を見る嫌悪感を物語っていて。自身のしてきた行いがここまで彼女を追い詰めていたのだと、伏黒は頬の内側を噛み締める。

「…それとも、もう俺のことは、好きじゃないか」

 違う、そんなことない。ずっと、ずっと好きだった。今だって、漸くこっちを向いてくれたと歓喜している自分がいることに、ナマエは気付いている。

「なあ、ナマエ」

 ──頼む。そんなこと、伏黒は言っていない。この部屋には二人しかおらず、ましてや他の音など何も聞こえないほど静かなのだから、聞き逃すなどあり得ない。
 けれど、ナマエの耳には確かに聞こえたのだ。お願いだから応えてくれ、という、伏黒の声が。

「…このままでも、良いのかなって、思ってた」

 縋る声色に引きずられるように、つっかえていた声が震えながら吐き出される。
 一言一句でも聞き逃さないつもりなのだろう。伏せられた長い睫毛の先にある暗青色の瞳が、じっとナマエを見つめていた。

「津美紀さんが眠って、恵が、ずっと塞ぎ込んでて、」
「………」
「そんな姿、見たくなく、て……でも私じゃ、恵の、大事な人の代わりに、なれるわけない、から」

 顔が熱くなり、視界が揺れる。ぐにゃりと伏黒が歪むのと目尻が濡れるのは、ほとんど同時だった。

「だ、だから、私を抱くことで、少しでも気が軽くなる、なら、それでも良いって…っ」

 そこまで言うと、もう駄目だった。押し殺してきた感情は洪水となり、一気に瞳から溢れ出す。ぼろぼろと雫が落ちていき、頬を掴む伏黒の手を濡らしていく。

「…悪かった」
「っう…ばか、恵のばかぁ……」

 伏黒は手首まで伝う涙を気にすることなく優しく頬を包み込むと、ナマエの目元をやや乱暴に拭う。
 少しぎこちないその手付きに優しさを感じつつも、「ばか」「あほ」と繰り返すナマエに小さく笑みを溢すと、全てを飲み込むように、震える唇に噛み付いた。
 一瞬触れて、すぐ離れる。一度ならず何度も舌を絡ませたことなど無かったかのように、まるで子供のような、それでいて沢山の愛情を含んだキスだった。

「分かってる。馬鹿でも阿呆でも何でもいい……傷付けた分、償わせてくれ」

 一年越しのわだかまりが、まさかハンバーグで消えてくれるとは。相変わらずナマエの手はこねた肉をつけたままだし、伏黒が見ていたはずの味噌汁は沸々と鍋肌に小さな気泡を立てている。なんとも間抜けな光景だが、もはやそれすらも幸せに思えるのだから、不思議なものだ。

「…やだ」
「っ、お前なあ…」
「償いとか、そういうのじゃない……私が、勝手に恵を好きに、なって、勝手にやってたこと、だから」
「…それじゃあ俺の気が済まないんだよ」
「……じゃあ、」

 ずびっ。音を立てて鼻を啜り。羞恥を誤魔化すように、ナマエは伏黒の胸元に顔を埋め、ぽつりと呟いた。

「きす。もう一回して」

 それで充分。そう伝えた後の、一瞬何かを耐えるような顔をしつつも、すぐにふにゃりと目尻を下げた伏黒に、ああ今夜のハンバーグはいっとう美味しく感じそうだと、そう思った。


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