都心部から電車で約一時間半。住宅の灯りもポツポツと疎らになる程度には山の中にある二階建てのアパートに、夏油は居を構えていた。
 1LDKのそこは、彼の親友でもある五条の自宅マンショとは違い特級という立場の給料を余らせるのではないかと思えるぐらい、どこにでもあるような普通のアパートだ。元々一般家庭の出ということもあり広すぎる部屋は落ち着かないという理由から借りた場所だったが、今となってはここに決めて良かったと思っている。
 呪術師の起点となる高専にも近いということ。ある程度山の中ということもあり空気も澄んでいること。
 そして何より、煩わしい猿共の声が、あまり聞こえない。
 一度は壊れかけた心を和らげてくれるこの場所が、夏油の精神安定剤の一つでもあった。
 厚手の長いダウンジャケットを羽織り、ポケットの中に無造作に突っ込んでいた煙草を取り出す。学生時代、同級生にあれほど控えた方が良いと言っていた煙草は今では自分の方が多くなっていて。呪霊の味を打ち消すために重たく苦いものを吸ううち、すっかり癖になってしまったのだ。
 火をつけた瞬間、匂いを嗅いだ瞬間、まるで麻薬中毒者にでもなったかのように心が安らぐ気がする。皮肉なことに、いつの間にかこれも一つの安定剤に数えられていた。

「夏油さん…?」

 水平線の如く広がる灯りをぼんやり眺めていると、背後から不意に名前を呼ばれる。振り向けば、自身とは対照的に大きなまあるい瞳が不思議そうにこちらを見ていた。

「ああ…おはよう、ナマエ」

 私の一番の安定剤。夏油は心の中で呟き、少しだけ寝癖のついた髪を撫でてやる。ナマエは嬉しそうにその手に擦り寄ると、倒れ込むように夏油の胸元へ飛び込んだ。
 おっと、とわざとらしく慌てた声を上げながら咥えていた煙草をナマエから遠ざけると、少しだけ不貞腐れたような顔が夏油を見上げた。

「…寒いでしょう。中で吸ってもいいって、いつも言ってるのに」
「少しだけ夜風に当たりたかったんだ。さっきまで汗かいてたしね」
「…………」

その言葉の意味することに気づいているのだろう。ナマエは呆れたように夏油を軽く叩いた。

「というか、私よりも君の方が見てて寒そうだよ」
「だって、これしか見当たらなくて…」

 確認するように少し身体を離しナマエを見下ろす。彼女が身に纏っているのは、丈や肩幅全てが大きく余った黒いパーカー。どこからどう見てもそれは、任務から帰宅後早々にベッドへ雪崩れ込んだ際脱ぎ捨てた夏油の私服だった。
 目を覚ましたとき暗闇の中で見当たらず諦めてクローゼットから新しい寝巻きを出したのだが、どうやら散々ベッドの上でもみくちゃになったおかげでナマエに隠されていたらしい。なるほど見つからないわけだ。
 代わりにナマエの着ていた寝巻きは体液やらなんやらですっかり使い物にならなくなっていたから、寒さで目覚めたとき咄嗟に掴んだのだろう。なんともまあ、可愛らしく煽情的な状態になるとも知らずに。

「これ吸ったらすぐ戻るから、先中に入ってな。風邪引いたら困るだろう」
「大丈夫です」
「そう言ってこの前少し鼻風邪になってたのは、どこの誰だっけ?」
「う…それは……」

 もごもご言いながらも離れる気はないらしく、小さな手はがっしりと夏油の服を掴んでいて。何だかんだ唇を尖らせながらも頑固なのは、育ての親でもあり自身の親友でもある五条譲りだろう。
 引き下がらない様子に夏油は仕方ないなとばかりに小さくため息をつくと、縮こまるナマエの身体を丸ごと、ダウンジャケットで包み込んでしまった。
 一般人より遥かに体躯のいい自分でもゆったり着れるようにと大きいものを選んだが、こんな風に役立つとは。すっぽり包まれたナマエは、ようやく目的が達成できたと、どこか満足げに見えた。

「まったく…私の言うこと聞かないのは、誰に似たんだか」

 苦笑しながらも頭を撫でる手はひどく優しく、ナマエもその温かさに再び眼をとろりと溶けさせる。その様子は、普段の自立した様子からは想像もつかない幼児のようだった。それもそれで可愛いと思うのは、自らが歳をとったからなのか、もしくはただの惚気なのか。まあどちらでも構わないが。
 夏油の問いかけに何度か言葉を飲み込みながら、「だって…」と不貞腐れたようにぽつりと呟く。

「一人で戻っても、夏油さんがいなきゃお布団寒い、から…」

 一緒がいい、です。小さな声は胸元に消え、代わりにわずかな振動と熱いくらいの体温が伝わってくる。
 生い立ちのせいかどこか甘え下手なナマエが思わず口にした本音に、夏油は同じように顔がほんのり熱くなるのを感じた。
 もう惚気だってなんだっていい。私の小さな恋人が、可愛い。
 ほとんど吸った覚えもないのに、いつの間にか短くなっていた煙草を躊躇なく手放す。視界の端でゆっくり落ちていったそれを踏んで消すと、代わりに両手はだぼついた裾元からわずかに覗く柔らかな臀部をわし掴んだ。
 冷えていた手がぐにりと柔肉に埋まると、ナマエの身体が可哀想なぐらい跳ね上がる。

「ひぇっ、ちょ、な、なに…っ」
「そっか、寒くなっちゃうのか。それなら今すぐ温めてあげないとね」
「え!?いや、そんなつもりで言ったんじゃ…!」
「それは残念。私はそういうつもりに聞こえたから」
「夏油さっ、あ…」

 未だぬかるむ場所へ指先が触れた瞬間ナマエは寒さとは別の感覚に肌を粟立たせる。その様子に夏油は瞳を溶けさせると、甘い声を漏らす唇に容赦なく噛み付いた。


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