午後三時過ぎ。昼食の食器の片付けも一通り終わり、ナマエがコーヒーでも飲んで一息つこうと、予め挽いておいた豆をドリッパーに入れゆっくりお湯を注いでいるときだった。不意に玄関の方から、がちゃがちゃと鍵を回す音が聞こえたのだ。
 その音に急かされるように、まだ抽出し始めたばかりだというのに、ナマエは廊下を小走りで玄関へと急ぐ。
 一人暮らしにしては少し大きいこのマンションは、無人となった警戒区域内の建物をボーダーがまるっと買い上げたものらしく。地方からのスカウト組や、自宅から本部まで距離がある者、二人以上で同居している者など、様々な理由の者達が住んでいた。
 もちろん本部内にある二十四時間管理の部屋を借りることもできるのだが、大学生になり自立するためにと弓場はあえてこの完全独立型マンションを選んだらしく。
 今となってはその判断のおかげで、こうして半同棲のような形で、気兼ねなく二人で過ごせる場を生み出したのだから、その時の弓場含め周囲の判断にナマエは感謝していた。

「おかえりなさい拓磨さん」
「おう、ただいま」
「…あれ、なにか買って来たんですか?」
「あァ」

 まるで新妻にでもなった気分で玄関に辿り着いたナマエは、上り框に腰掛け靴を脱ぐ弓場の横に、なにやら紙袋が置いてあることに気付く。
 出かける前には持っていなかったその紙袋は、服や靴などを買ったにしては少し大きく。加えて中身はややボリュームがあるらしく、その存在を主張するように膨らんでいた。
 中身が気になるものの、さすがに持ち主の許可なく覗き込むのは少し気が引ける。けれど気になる。
 ナマエは受け取ったコートをハンガーに掛けながらも、ちらちらと紙袋へ視線を向けていると、それに気付いた弓場は、まるで飼い主の反応を待ち侘びた子犬でも可愛がるような表情で「おら」と、ナマエの目の前にその紙袋を差し出した。

「なんですか?これ」
「欲しがってたモンたしかこれだろ?一日遅くなっちまったけど、バレンタイン」

 一日遅い。その言葉の通り、今日は二月十五日。つい先日にバレンタインは終わっていた。
 もちろんナマエは当日にチョコレートを渡していたのだが、そのときはちょうど、弓場の通う三門市立大学では試験最終日だったらしく。それが終わるまでは待って欲しいと、数日前から言われていたのだ。
 日本でいうところのバレンタインといえば、女性が男性にチョコレートを贈り、そのお返しとして一ヶ月後のホワイトデーに、今度は男性から女性へ何かしらのプレゼントをするといったものである。
 けれど弓場とナマエの場合は少し違い。どちらか片方ではなく、チョコでもそれ以外でも、なにかしらのプレゼントを互いに贈ろうと約束していて。自宅での昼食を終えすぐに弓場が出掛け、ナマエへのプレゼントを買って帰ってきたことで、それが一日遅れでようやくできた、といった形だった。
 とはいえあまり声を大きくしては言えないが、ナマエは先日弓場にチョコレートを渡し喜んでもらえたという事実だけですっかり満足していた面もあり。
 まさか忘れずにこうしてプレゼントを買ってきてもらえるとは思っていなかっただけに、欲しがっていたもの、と言われても、その中身が一切想像できなかった。自分は何かおねだりでもしただろうか、と。

「欲しがってた…」
「まァ、いいから開けてみろや」

 差し出された紙袋を受け取ったまま、きょとんと疑問符を浮かべる様子に弓場は小さく笑うと、開けるよう促す。
 ナマエは言われるまま中を覗き込む。そのときわずかに見えた、白いふわふわとした質感の物に「あ!」と大きな声を上げた。
 中身の正体にようやく気付いたナマエは、浮き立つ心を抑えながらそれを取り出すと、そこには予想通り。手触りの良い白い毛並みに、膝にちょこんとお座りできるサイズ感。黒い鼻と肉球がなんとも愛らしく、けれどそれを少し打ち消すように、少し目つきの鋭い──白くまのぬいぐるみがいた。

「そうですこの子です!…え、覚えててくれたんですか!?」
「当たりめェーだ」

 驚きで思わず強く抱き締めると、柔らかな白くまがわずかに歪む。自らの腕の中で形を変えてしまったことに気付き、まるで赤ん坊を抱くかの如く丁寧に抱え直すと、そんなナマエの様子に弓場は小さく笑った。
 若干子供扱いされている気がしないでもないが、ぬいぐるみひとつでここまで喜んでいるのだから、それは否定できないのだろう。それよりも勝る嬉しさに、ナマエは頬を緩ませる。

「この子、最近新しく登場した子なんですよ。だから中々見かけなくて…本当にありがとうございます」
「…どうして欲しかったんだ?」
「え?」
「おめェー、そういうモンあんま持つタイプじゃねェだろ」
「あー……」

 弓場の言葉に、その理由を言うか否か迷ったように視線を彷徨わせている。似たようなことが以前にもあったなと思いながらも、そんな素振りを見せられると気になってしまうもので。
 先を促すように見下ろしてくる視線についに観念したのか、ナマエは肩の力を抜くと、今度は伺うように弓場を見上げた。 

「…怒りません?」
「怒られるような内容なのか?」
「いや、そうじゃないですけど…」
「じゃあなんだ」
「………」
「………」
「…ナマエ」
「…こ、この子、どことなく拓磨さんに似てるんです」
「…あァ?」

 それは二ヶ月ほど前のこと。ナマエはテレビのCMで、有名なキャラクターブランドに、この白くまが新しく追加されることを知ったのだ。
 白い毛並みに、黒い鼻と肉球。けれどそれを少し打ち消すように少しだけ鋭い目つきのぬいぐるみが、陽気に流れる音楽と共に踊る姿を見た瞬間、ナマエの脳内にはある人物…もとい弓場の顔が過っていた。
 ──似ている。拓磨さんに、ものすごく。
 それからナマエは、その白くまに心を奪われることとなる。まだ登場したばかりということもあり、限定販売されている店舗のホームページを見ては、三門から遠いとため息を吐いたり。それまでシンプルだった携帯の待ち受けを白くまに変えてみたり…。
 そんな、手にできない存在に思いを馳せていたある日。たまたま弓場にこの話をしたのだ。もちろん、似ているという部分は伏せて。
 もはや「欲しいんですけど、中々見つけられなくて」という世間話のようになっていた会話を、弓場はきちんと覚えていたらしく。今回こうして、わざわざ購入してきてくれたというわけだ。

「ほら、この目つきが鋭いところとか。すっごく可愛いでしょ」
「…目つき悪ィのに可愛いのか?」
「目つきが悪いんじゃなくて、鋭いって言ってくださいよ…可愛いんです。そもそも拓磨さんが可愛いし」
「………」

 さすがに自分のことを可愛いなどと言われて、それもそうだなと納得できるわけがない。かといって否定したところで、そもそも物欲があまり無いナマエがわざわざ欲しがるほどだ。彼女的にはそれほどに似ていて、かつ弓場もぬいぐるみも、どちらも可愛いと本気で思っている、ということなのだろう。それを弓場自身が否定するのも、なぜかだか憚られた。
 なんとも複雑な思いを抱く弓場に気付かないナマエは、しばらく嬉しそうにぬぐるみを見つめると、不意にその鼻先へ、ちゅっと唇を落とした。そしてそのまま、とても愛おしそうに頬擦をしている。

「…おいナマエ」
「はい?…あ、」

 それを見た瞬間、弓場の身体はほとんど無意識のうちに動いていた。白くまの頭をわし掴みにすると、そのままナマエの手の届かないところまで持ち上げてしまったのだ。
 弓場の突然の行動にナマエは数度瞳を瞬かせ、不思議なものを見るような顔をする。そしてその意図に気付いた、とばかりに瞳をきゅっと細めると、楽しそうに笑みを浮かべた。

「もー、拓磨さんったら妬いちゃって。可愛い」
「うるせェ…おら、これも土産だ」

 代わりとばかりに弓場が鞄の中から箱を取り出したのは、薄いローズピンクに、黒い線で二匹の兎が向かい合うように描かれた箱だった。その中央には店のロゴだろう、箔押しの王冠も描かれている。
 考えずともすぐに分かった。これはオランジェットが有名なチョコレートの店のものだ。

「わ、チョコも買ってきてくれたんですか」
「それも食いてェって言ってただろ」
「んふふ、ありがとうございます。ちょうどコーヒー淹れてるところだったんで、一緒に食べましょう」
「あァ」
「あ、でも拓磨さんは紅茶の方が良いかな」
「いや、コーヒーでいい」
「じゃあすぐ淹れますね。…あ、その子も一緒に」
「………」

 ナマエの言葉にわずかに眉間にしわを寄せたものの、今度は素直にぬいぐるみを返す弓場の妙な義理堅さに、ナマエは思わず笑ってしまう。大方、プレゼントしたのだからナマエがぬいぐるみを至極大切に扱うことが、若干気に食わなくても文句は言えない。そう思っているのだろう。本当に可愛い人だ。

「…拓磨さん、ちょっとしゃがんで下さい」

 小さく手招きすると、弓場はなにも疑うことなく素直に身を屈める。ナマエは彼の腕を掴み引き寄せると、そのまま頬へと口付けた。
 寒い中出歩いたからだろう、唇に触れた頬はひんやり冷たく。そして至近距離で見たことで、わずかに鼻の頭が赤いことにも気付き。自身のためにそこまでしてくれたのだという事実に、ナマエは胸がじんわりと満たされていく感覚を覚えた。

「…欲しいって言ったの、覚えててくれてすごく嬉しいです。…ありがとう、拓磨さん」

 弓場の背中に腕を回し、その胸元へ擦り寄る。ナマエの突然の行動に驚き、うっかり落としてしまったのだろう。いつの間にか床へ虚しく転がっていた白くまは、その目つきも相まり、何をするんだとこちらを非難しているようにも見えた。
 けれどまあ、今回ばかりは許してほしい。

「…また買ってきてやるよ」
「ええ?それじゃバレンタインの意味ないじゃないですか」
「いいんだよ。それで」

 ゆるりと背中に回された腕が、嬉しさと、ほんの少しの照れ臭さを誤魔化すかのようにナマエの頭を撫でる。
 どうしても欲しいと思うっていた理由が自分に似ているから、などと可愛いことを言われてしまえば、それに納得いかずともまた同じことをしてやりたいと思うぐらいには、弓場もナマエには甘いのだ。

「ふふ…じゃあまた新しい白くま連れてこないとですね?」
「…できればそいつ以外にしろ」
「んふふ」

 しかしまた買ってやるとは言いつつも、ナマエの意識がそちらに向きすぎるのは、やはり気に食わないらしい。
 最後にわずかに溢れた弓場の本音にナマエは、仕方ないですね、とばかりに顔を綻ばせた。


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