諏訪が一人暮らしをしているアパートは、玄関を入り部屋に向かう道中に台所がある、一人暮らしと聞いて大抵の人が思い浮かべるタイプの部屋だ。といっても間取りは一人にしては贅沢な2Kで、寝室とリビングはきっちり分けることができている。ボーダー隊員という、一般学生よりはそれなりの給料を貰えている立場だからこそ選択できたこの間取りであったが、その大半は本に埋め尽くされているのだからあまり意味はないのかもしれない。
 遠方からのスカウト組や独身職員用にと、警戒区域内にあるため管理人が手放すこととなったマンションを本部が買い上げたところも一応選択肢にはあったのだが、ボーダー入隊以前からこの地域に住んでいたこともあり、なんとなく愛着が沸いていたこの場所を離れるのも気が引けて。結局こうしてアパートを借り、こじんまり暮らしているというわけだ。
 換気扇に向かい白い煙を吐き出す。灰が落ちないよう気を付けながらお玉に掬った味噌を箸でくるくる溶かしていけば、ほんのりと味噌の匂いが鼻をくすぐった。味噌汁はこれで完成だ。
 ちらりと時計を見れば、時刻は八時。そろそろナマエも起きてくる頃だろう。あともう一、二品ばかり何か作るかと思案していると、からからと戸を引く音と共に「諏訪さん…」と小さく名を呼ぶ声が聞こえた。

「おう。起きたか寝坊助」

 リビングと廊下を繋ぐ扉は大抵開いたままにしているのだが、煙草を吸う際は臭いが部屋にいかないようにと締め切っている。そこから顔を覗かせたナマエは、いまだじっとりと目を細め、物珍しそうに諏訪と鍋を交互に見ていた。

「…諏訪さん、お味噌汁とか作るんですね…」
「あ?一人暮らしなんだから当たり前だろ」
「いや…インスタントじゃなくて、わざわざ作るイメージなかったから…」

 ほんの少し覚束ない足取りでやって来たナマエは、すんすんと鼻を鳴らし鍋の中を覗き込んでいる。

「おあげとお豆腐だ」
「嫌いか?」
「ううん。すき。もしかしたら一番すきかも」
「そりゃ良かったわ」

 ナマエの言葉に満足そうに鍋をかき回した諏訪は、今度は「あと卵焼き作るけど朝メシそれでいいか?」と冷蔵庫の中を確認しながら尋ねる。いいかと聞きつつもすでに手は卵を取り出しており。彼の中ではすでに卵焼きは決定事項のようだった。
 いいですよ、と何となしに返事をしつつ。ナマエは冷蔵庫の中を確認している諏訪の背中をじっと見つめると、そのままゆるりと。コアラのごとく抱き付いた。

「おい、台所立ってるときにくっつくんじゃねえよ。危ねえだろ」

 ナマエがそうすると分かっていたのだろう。諏訪は慌てた様子もなく。冷蔵庫を閉め立ち上がると、自身の腹の前へと回された腕をたしなめるように軽く叩いた。
 諏訪の言うことはもっともだし、いつもならそのお叱りは素直に従うのだけれど。寝起きということと、昨晩布団の中でお喋りをしながら眠りについた時の心地良さを、身体はまだ引きずっているらしく。どうにも離れがたいという気持ちに流され、ナマエは「ん゙ー…」小さく唸ると、額をぐりぐり押し付け、離れたくないとばかりに軽い抵抗をする。
 諏訪も諏訪で。「くすぐってえよ」相変わらず少し荒い口調だけれど、小さく笑っているところみると、危ないからというだけで、くっ付いているという事実に関しては特になにも思ってはいないらしい。
 そのどこか優しい声音に誘われるようにナマエは額の擦りつけをぴたりと止め。代わりに鼻を押し付け、すうぅっとわざとらしく大きな音を立てながら吸い込んだ。

「おいおい。さすがに匂いは嗅ぐな」
「…おじさんの匂い」
「ふざけんなまだ二十一だぞ」
「ふ…うそうそ。石鹸と…あと煙草の匂いですよ…」

 ナマエの珍しく甘えたその様子に、無理に剥がすのはどうにも気が引けたようで。諏訪は火を付けようとコンロに掛けた手を止め、まだ半分以上残っている煙草を灰皿に押し付けた。

「おい、そろそろ離れろ。また煙草の匂いするって色々言われんぞ」

 以前、ナマエの制服から煙草の匂いがわずかにすると担任が気付いたらしく。もしや彼女が喫煙しているのではないかと疑いを掛けられたことがあった。
 もちろんナマエは喫煙などしていないのだが、ならば何故と理由を聞かれたとき、さすがに『恋人が頻繁に吸っているんです』と答えるわけにもいかず。結果としてで保護者である林藤が近くで吸っていたせいでと、恩人に罪を被せることとなってしまったのだ。
 林藤本人は「吸ってるのは事実だしな」と気にしていない様子で笑ってくれたが、原因である諏訪は申し訳なさと気まずさで頬を引きつらせ。元々責任感の強いタイプだからだろう。それ以来ナマエの前で吸う頻度をめっきり減らしているらしく。こうしてナマエが目を覚ます前に一本、隠れるように吸っていたのだ。

「別に言われたって良いですよ…」
「担任に疑われて面倒だったって言ってただろ…おら。これ飲んで少し目ぇ覚ませ」

 諏訪は吊り戸棚から取り出した小皿に味噌汁を少量掬い上げ、ナマエへと差し出す。釣られるように顔を上げたナマエは、少し難しい顔をしながらも匂いの誘惑に勝てなかったのか。ほんのり湯気の立つお皿へ顔を近付けると、「飲ませて」と視線で訴えかける。
 その様子に「行儀わりぃぞ」と笑いながらも、諏訪は小皿を傾け、まるで小動物へご飯を上げるかの如くナマエへと味噌汁を飲ませてやった。
 おあげとお豆腐の味噌汁は、玉狛で食べるものよりほんの少ししょっぱく。けれど寝起きの身体へと沁み渡る感覚に、ナマエは「はあ、」と声をもらす。

「あー…おいしい……沁みる…」
「おっさんかお前は」

 その感想に諏訪はけらけら笑うと、「朝飯にすっからさっさと顔洗って、歯磨いてこい」とナマエを引き剥がし、洗面所へと促す。
 今度はナマエも素直に従い。あっさり身体を離すと、タオル片手にふらふらと洗面所へ向かった。
 その背中を見送ると、諏訪は再び煙草を取り出し火を付ける。今度は強く動かした換気扇に煙は勢いよく吸い込まれ、匂いと共に跡形もなく消えていった。
 ──石鹸の匂い、ね。そういえば風呂場の石鹸が無くなりかけていた。あとはナマエ専用のシャンプーと、ミントの歯磨き粉も。
 今日は家でのんびりするつもりだったが、せっかくの快晴だ。車を出さなければならないのならば、ついでに少し遠出でもしようか。
 降って湧いたようなデートの誘いに目の覚めたナマエがはしゃぐ姿を想像しながら、諏訪は煙と共に笑みをこぼした。


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