「なんやナマエ、ええ匂いするな」

 それまで隣でテレビ見ていた生駒からの唐突な言葉に、ナマエは大きく開いていた口をゆっくりと閉じた。

「…一応聞きますけど、どら焼きのことではないですよね?」
「ちゃうな。もっと甘い匂い」

 玉狛からほど近い場所にある和菓子屋は京都でも有名な老舗が展開した店舗らしく、関西から上京してきた生駒隊の面々にとって、地元の味を楽しめる数少ない場所でもあった。
 特にそこのどら焼きは餡子が特別らしく、ナマエが生駒宅へ訪れる際には必ず買っていくぐらいお気に入りのお土産となっていた。
 だからこそ、今日生駒がそのどら焼きに一切手をつけず、テレビを見ながらも何やらそわそわと落ち着かない様がナマエも気になっていたのだが…その何とも力の抜ける理由を聞いて、何か気に触ることでもしてしまったのかと心配していただけに妙な安心が生まれる。と同時に、ならば生駒の言う甘い匂いが一体何なのかと気になり始めてしまう。

「えーなんだろ…はっ!もしかして臭い、とか…?」
「や、ちゃうちゃう。ちゅうか、ナマエはいつでもええ匂いやから。臭いとかないから」
「え、ありがとうございます…いや、そういうことじゃなくて」
「来た時からしとって。なんの匂いやろ」
「ちょ、近い近い。嗅がないで」

 今日は体育の授業があったのだ。学生御用達の制汗剤を使用したとはいえ、こうも遠慮なく嗅がれると恥ずかしい。犬のように鼻を鳴らし徐々に距離を詰めてくる生駒から逃げつつ、彼の言う"甘い匂い"がなんなのかを考える。
 香水の類は使用しておらず、制汗剤も別段甘い香りのものは持っていない。加えて現在地は生駒宅だ。ナマエが持ち込んだ物でない限りは、甘い香りのするものは普通に考えて食品以外ではありえない。けれど今あるこのどら焼きではないとなると、

「あ、もしかしてこれですかね?」
「…あー、リップか」

 消去法で弾き出された答えを鞄の中から取り出す。あまり馴染みがないからなのか、まじまじと眺めている様子がなんとも面白い。
 数日前、細井と共に放課後の商店街を訪れた際セットで販売されていたのだ。ちょうど使っていた物が無くなってしまったということもありお揃いで購入したのだが、どうやら香りが生駒的良い匂い琴線に触れたらしい。

「この前マリオと買い物行った時、お揃いで買ったんです」
「マリオちゃんと?こんなええ匂いのやつあるんやな」
「ハニーアップルの香りです。気に入りました?」
「おん」
「じゃあ、次もこれ買いま、」

 買いますね、と。最後まで言い切れなかったのは、先程まで手元のリップを見つめていたはずの顔が目の前にあり、なおかつ、少し荒れた唇に乱暴に塞がれたからだった。

「ちょ、」

 触れて離れて、舐めて、また触れて。生駒の突飛な行動はいつものことだが、まるで犬が甘えるようなその行動にはさすがにナマエも固まってしまう。
 名前を呼びたくても声を上げたくても、今口を開くことはできない。なぜなら、このままでは確実にそういうことをする流れになってしまうからだ。するのならせめて、シャワーを浴びさせてほしい。いや待て違う。そもそも、そういうことではなくて。
 突然の行動に混乱しつつもやっとの思いで生駒を引き剥がす。無理やり話されたことに不満を感じたのだろう。眉間に普段よりもしわを寄せて、唇をむっと小さく突き出している。

「どないしてん」
「ど、どうしたはこっちの台詞ですよ…いきなり何なんですか…」
「ああ、すまん。なんやええ匂いやし、うるうるつやつやしとるし、見とったら食べたくなってもうて」
「え…何一つ理由になってませんけど……ちょっ、待って待って!」

 会話をしながらも再び顔を近付ける生駒から必死に距離を取る。しかし元から肩が触れ合う程度には近いと所へ座っていただけに、あっさり引き戻されてしまう。

「い、イコさん待って、落ち着いて」
「なんや、嫌なんか」
「え、嫌ってわけでは、ないですけど…その、いきなりすぎてちょっと驚いたというか…」
「いきなりやなかったらええって事か?ほな今からもっとするで」
「いやそれも何か違っ、」

 宣言すればいいというわけでは決してない。そう伝えたくともあっという間に侵入を果たした舌は、それ以上は聞かないとでも言いたげに好き勝手に口内を動き回る。
 いつの間にか入ってしまっていたらしい生駒のやる気スイッチを切ることは、もはやナマエには叶わず。わずかに感じる餡子の甘味に、結局シャワーどころか歯磨きすらさせてもらえなかったと、いささか雰囲気を壊すようなことが脳内を過る。
 けれどそんな考えは、ようやく離れた生駒の唇がうっすら赤く色づいているのが見えた瞬間、あっという間にどこかへ飛んで行ってしまうのだった。


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