「…ナマエさ、もしかして今日、弓場ちゃんと会った?」

 本部での用事を終え、隊の作戦室で待っている弓場の元へ急いでいたところ。廊下の曲がり角で、同じく用事を終えたらしい迅と出会った。彼はナマエが玉狛を出るよりも早く本部へ来ていたはずだから、用事が長引いたのだろう。疲れた顔から察するに、上層部からの呼び出しとなると大変なことも多いようだ。

 ナマエは弓場の隊室へ。迅はこの先の廊下の外れにある非常口から玉狛へ帰宅するため、向かう方向は同じで。「城戸さんからの呼び出しですか?」「いや、忍田さん」「ずいぶん長かったですね」「いや、帰ろうとしたら太刀川さんに捕まって」「あー…」なんて世間話をしながら連れ立って歩いていたところに、不意に何かに気付いたらしい迅の「あっ」という声と、さきほどの発言である。

「うん、昼間に……え、なんで分かったの?」

 たしかに迅の言う通り、ナマエは数時間前に一度、弓場と会っていた。といっても彼は先日までの二週間担当していた深夜の防衛任務に対する報告書を上げ終え、そのまま仮眠を取るため仮眠室に向かっていたところだった。
 そこへ偶然、ちょうど玉狛から来たナマエが鉢合わせ、ほんの少し会話を交わしたのである。
 時間にして十分にも満たないだろう。その間すれ違った人物は、記憶している限りでは一人もいない。
そして当たり前だが、その場に迅はいなかった。なのになぜ会ったことが分かったのか。
 あまりにも唐突な内容に一瞬処理が追いつかなかったものの、ナマエは当然の疑問を口にする。
 すると迅は、自ら口にしたにもかかわらず何処か気まずそうに視線を逸らすと、そのまま目を合わせることなく、誤魔化すように頬をかいた。

「あー…匂い?で分かった」
「………」
「待って。決してセクハラとかではないから」

 日頃の行いからそれはあまり信用できないが、迅は同じ玉狛の人間には決してそういった事はしない。だからといってそれ以外の女性にしていいのかと言われればそんなことは確実にないのだが、まあこの言葉に関しては本当だろう。
 とはいえ。たまたま見かけた、もしくはサイドエフェクトで見たと言われた方がまだ真実味がある。訝しげな顔をしているナマエに迅は「そんな顔しないでよ」と苦笑いで返す。

「うーん…いやほら、弓場ちゃんってさあ、香水付けてるじゃん?」
「…付けてる、けど……」
「それがナマエからもするんだよね」
「え゛っ」
「まあ近付けば少し分かるかな?ぐらいだけど」

 迅の言う通り、たしかに弓場は香水を付けている。けれどそれは隣に座るだとか、通り過ぎた後に少し香る程度である。
 というのも、弓場が使用するその香水自体は香りが強いものではなく。さらにいえば彼はそれを朝の出かけに数回纏わせる程度で、夜になる頃にはその香りはほぼ消えかけてしまっているからだ。
 にもかかわらず、十八時を超えた今現在その香りがナマエからするということは。移るぐらい傍にいたか、もしくは強く香りが移るようなことをした、ということの証明に他ならないのである。

「……充分セクハラなんですが!!」
「え、嘘これセクハラになるの?」

 図星である。たしかにナマエは昼間弓場と会った際、匂いが移るような接触をした。ただ会話を交わしただけでなく、彼が借りた仮眠室に共に入り込み、抱き合った。
 いや、抱き合ったというのは語弊があるかもしれない。正しくは、抱きしめ合った、だ。服を脱いでだとか押し倒してだとか、そこまで厭らしい意味ではない。ただ、弓場の深夜の防衛任務や大学のレポートに講義、ナマエの課題や任務その他諸々が重なり長い間触れ合うことが出来なかった身体と唇を触れ合わせた。それだけ。
 弓場の手が服の中に入りナマエの腰を撫でたとか、唾液を飲み込まなけらばいけない程度には舌が絡み合っただとか。その内容が少しだけ厭らしかったことは、まあ認めるが。
 実際、迅は二人にそこまでの事があったとは当然知らない。知らない、が。暗にそういうことがあったのかと他者からやんわり指摘されるのは、さらっと流してしまえるほどナマエは大人ではない。

「もう信じらんない…そういうこと分かっても言わないでしょ普通…」
「いやー、弓場ちゃんってそういうことに積極的なイメージなかったから、なんか意外すぎて本当か確かめたくなって」
「本当かっ、て…もしかして迅さん、私の反応見えてた上で言ったんじゃ…」
「あ、バレた?」
「この…っ」
「おいおめェーら…あんまり廊下で騒ぐんじゃねェよ」

 騒ぎながら歩いていたためか、いつの間にか目的地まで来ていたらしく。扉の開いた作戦室から、話題の中心人物である弓場が顔を覗かせた。

「お、噂をすれば」
「あ?噂だァ?…なんの話だ」
「いや、ナマエから弓場ちゃんの…」
「あー!よけいなこと言わないでいいから!」
「おいナマエ、廊下で大声出すんじゃねェ」
「あぅ…すみません……」

 慌てて大声で制止するナマエを咎めつつも、素直に謝ったことを褒めるように弓場は項垂れた頭を撫でる。
 普段ならば何気ないスキンシップの一つなのだが、今は違う。先ほどまで弓場とのイチャコラやら何やらを散々揶揄ってきた昔馴染みにまさしくそのシーンを見られるのは…恥ずかしさで死ねるのではと、少なくともナマエは思う。というより今まさに、死にそうに恥ずかしい。先ほど指摘されたのの比ではない。

「じゃあ、おれ帰るから。お二人共あとは仲良く〜」

 だからそういうこと言うな!なんとも親父くさい台詞を残し、迅はひらひら手を振りながら去っていった。最後に見えた、にまにました顔がなんとも腹立たしい。

 そういえば。迅の目的地であるこの廊下の外れにある非常口は、本来ならば本部への出入りはトリガーを認証させ専用の経路を通らなければならないにもかかわらず、玉狛へ帰る際ショートカットができて楽だからと主に林藤や迅が無断で使用していたことが管理部にバレて、最近封鎖されたのだ。
 実は今回の呼び出しでそのことについても少しお小言を言われた。お宅の隊員と支部長に使うなと言っておけ、と。
 内側から開く簡単な構造を何とかすれば良いのにとも思ったが、個人が注意をすれば終えられるようなそんな事にまで手を回している暇は、開発室にはないらしい。まあもっともである。
 結局新たな非常口は全く別の場所へ移動となったのだが、あの様子を見るに迅はそのことを知らないようだ。多少面倒を感じつつも正面からきちんと出入りしていたナマエはそのことを知っているのだが…少しから揶揄われたことへの復讐として、黙っていても咎められはしないだろう。
 鼻歌を歌いながら遠ざかる呑気な背中に、心の中で小さく悪態をついた。



「おいナマエ。さっきの迅の話、どういう意味だ」

 木枯らしで冷やされた膝を湯の中に隠し労るように撫でる。少し前まで茹だるような暑さを含んでいた空気は、あっという間にその姿を次の季節へと変えていたようだ。
 そろそろタイツを出してもいい頃かもしれないと、春先に仕舞い込んだチェストの中を脳内で捜索していると、背後に座り、その長い足をなんとか折り曲げ同じく湯の中へ隠した弓場が、少しだけ落ち着いた声でそう言った。

「さっき…あ、あー……」
「…なんだ、言えねェことか」
「いや、そういうわけでは……」

 別に隠すつもりなどさらさら無く、ただあの場であれ以上迅に揶揄われては堪らない、と慌てて話を終わらせただけなのだ。
 結局その後も弓場自身がそれを追求することがなく。なにより迅と旧知の仲であるナマエにとって、彼に揶揄われるというのはある意味日常の一ページに過ぎなかったため、すっかりいつもの出来事として処理していたのだが…どうやら弓場はそうではなかったらしい。口に出さないだけで気になっていたようだった。

「拓磨さん、香水つけてるじゃないですか」
「あァ」
「その匂いが…なんというか、私に移ってるらしいです」
「匂い?…そんな強ェもんは付けてねェはずだが」
「そうなんですよね。だからまあ、どうせいつもの揶揄いかなって思ったんですけど…何故か、昼間一度拓磨さんに会ったことも、匂いで分かったとか言ってて……まったくあの人も、変なこと言わないで欲しいですよねえ…」
「…おい、あんま前屈みになると溺れるぞ」

 風呂に入っていることで心身共にすっかり間延びしたらしいナマエを、弓場は少し慌てた様子で胸元へ抱え直す。
 ふにゃりと笑いながら「あー、ありがとうございます」と自らの肩へ首をもたげる姿に、額へ張り付いた前髪を退かしてやりながら、弓場は一つの答えに辿り着く。

「…そういうことか」

 おそらく、匂いがしたから分かったという迅の言葉は本当だろう。日常生活も同じ屋根の下でしている二人だからこそ、その些細な変化に気付けたというのも頷ける。
 だがそこから更に"弓場と接触があった"と感じ取れたのは、それ以外にも理由があった。

「え、なに…拓磨さん、何で迅さんにバレたか、分かったんですか」
「あー…」

 ──恋人にそういうことをされた時の女って、他の男から見ると少し蕩けて可愛く見えるらしいぜ。
 大学の同級生との間でされた、なんとも下世話な会話だった。久方ぶりに触れ合えたことへの喜びでほんの少し我慢できなくなったのは認めるが、まさかたった数分の接触で、それが目に見える程になっているとは。
 香水の匂いがするという、咄嗟に迅がした誤魔化しも巧妙だった。感じ取った要因はそれだけでないにしても事実の一つではあるのだから、あとからどうとでも言い換えることはできる。
 男の誰しもがそうといえる訳ではない。だが少なくとも迅は、ナマエの"そういう雰囲気"を感じ取り、うっかり尋ねてしまったのだろう。馬鹿な男だ。
 そして自らの雰囲気に気づけていないナマエに肯定され咄嗟に誤魔化したようだが、その内容は同じ男からしたら、なんとも分かりやすいものとなってしまったらしい。

「…なんでもねェよ」
「ええ…?絶対そんなことないでしょ、っん」

 浴槽の縁に乗せていた腕をナマエの腹に回すと、柔く温まった肌を滑りふよふよと浮く胸を掴む。人差し指と中指の付け根で、緩く勃ち上がる突起を挟み込んで優しく刺激すれば、ナマエは疑問の言葉を飲み込み、代わりに甘い声を響かせた。

「んぁ、拓磨さ、あ、うぅっ…」
「…おいナマエ、一旦風呂上がるぞ」
「ふ、え…?」
「肌が赤ェ。そのままだとおめェーのぼせるだろ」
「は、はいぃ…」

 おそらく赤い理由それだけではないが、たしかにこのまま事に及んでしまえばのぼせることは確実だ。ぼんやりと揺れ始めた脳内と視界に抗いながら、なんとか返事をする。
 弓場は脱力しきったナマエを抱え上げると、外の籠に出しておいた二人分のタオルを鷲掴み、髪から滴る水滴も気にせずドカドカと部屋の奥へ進んだ。

「下すぞ」
「ん、うんん…っ」

 几帳面に整えられたベッドシーツの上に濡れていないもう一枚のバスタオルを敷くと、そこへナマエを下す。とろんと溶けた瞳に誘われるように弓場は薄く開く唇に齧り付き、抵抗のない身体をそのまま押し倒した。

「う、っ拓磨さ、ベッド濡れちゃ…っあ」
「気にすんな」

 どうせ今から濡れる。その言葉を最後に、今はこちらに集中しろと言わんばかりに弓場は柔らかな肌を撫で回す。
 窓の隙間から流れる風に少し冷静になった頭の中に、結局何故迅が弓場との接触を感じ取れ、その理由を弓場が誤魔化しているのか、と疑問は浮かぶものの。頬をくすぐる黒髪と手の擽ったさに身を捩りながら、今はいいかとその考えを頭の片隅へ追いやった。

 後日。目を覚ましたナマエが見たのは、起こさないようにと配慮しているのであろう程度の小ささではあるものの、「迅、おめェー…なにナマエに吹き込んでんだ……あァ!?」と確実に怒気を含んだ声色で、ことの発端でもある迅へ怒りの連絡をしている後ろ姿だった。


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