「…迅さんに電話ですか?」

 通話を切る音と共に吐き出された溜め息に笑みを零しながら声をかければ、ずり落ちた眼鏡を掛け直した弓場が振り向く。
 先ほどまで電話越しで迅に怒鳴っていたせいか少し眉間にしわが寄っているが、その威圧感を、ぴょこんと跳ねた後ろ髪が緩和していてなんとも可愛らしかった。

「おう…起きたか」
「ん…おはようございます…」

 重たい身体を動かし、のそのそと起き上がる。布団から出たことでわずかに感じた肌寒さに肩を震わせると、それに気づいた弓場が「待ってろ」とベッド横に置かれたチェストから黒のトレーナーをセットで取り出し、ナマエへと手渡した。
 腕を上げることにすら若干の怠さを感じながらもそれを受け取り、少し時間をかけながらなんとか着ていく。身長差もあり弓場の服ではもはやワンピースのような状態だが、上を着るだけでこの怠さとなっては、もはや下を履くことは億劫どころか放棄したい域だ。
 そんなナマエの思考回路を分かっているのだろう。普段であればそんなだらしのない恰好に父親のようなことを言う弓場が、今回ばかりはなにも言わないのだから。
 といっても恋人という立場の弓場にとっては、だらしない以上に、ナマエのそんな格好に可愛さと若干の劣情を抱いているが故の反応なのだが。それはあえて言わないでおくようだった。
 弓場のそんな思考を知る由もないナマエは、上だけを着た状態で再びシーツの海へ身を投げると、じっと彼を見上げる。自らに向けられた瞳の意に気が付いたのか、弓場は『仕方ないな』とばかりに小さく息を吐くと、寝転ぶナマエの隣へ腰かけた。
 少しかさついた左手の指の背が、そっとナマエの頬を撫でる。くすぐったさに笑いながらご機嫌な猫のように擦り寄ると、弓場もどこか嬉しそうに口元を緩める。

「ふふ…拓磨さん、寝癖ついてますよ」

 先ほど電話をしている後ろ姿に見つけた、ぴょこんと跳ねた髪を指摘すれば、弓場は「…ん」と身を屈める。
 その行動の意味に、今度は名前が気付き。同じく嬉しそうに笑みをこぼすと、腕を伸ばし、さらりと流れる黒髪を撫で付けた。

「そういやァ…」
「ん…はい?」
「今日、どっか出かけたいって言ってただろ。どこ行きてェんだ」
「あ…あー……」

 頬を撫でていた手がすべり、額にかかっていた髪を退かす。現れた額に、こめかみに、耳元に。顔中に音を立てて唇を落としながら、弓場はナマエに尋ねる。
 しかしナマエはといえば、どこか歯切れ悪く。言おうか言うまいか迷っている様子でうんうん唸ったあと、少し諦めた声色で「すみません」と謝った。

「自分で言っておいてアレなんですけど…今日はやっぱり止めましょう」
「…体調でも悪ィのか」
「や、そうじゃなくて…なんか、嫌な予感がするんですよね」
「あァ?予感?」
「昨日の今日…どころかさっきの今で、迅さんに会っちゃいそう」
「…さすがにそれはねェだろ」
「いや、私のサイドエフェクトがそう言ってるんです…」
「なんだそりゃ」
「ふふ、なんとなく。…でもやっぱり、今日は家でゆっくりしましょう?実は少し足が、立たなくて…」

 そう言いながら、ちらりと自身の足へと視線を向ける。同じように視線を向けた弓場は「…悪ィな」とばつが悪そうに謝った。
 原因、という言い方は少し乱暴かもしれないが、こうなった経緯には弓場が多いに関わっているのだから、彼の行動も頷ける。

「…大丈夫ですよ。一日のんびりしてれば、明日には動けますから」

 とはいえ、受け入れたのはナマエなのだから気にせずとも良いことなのだが、責任感のある弓場は納得できない部分もあるのだろう。
 相変わらず眉間にシワを寄せたままの弓場にナマエは、可愛い人だな、と思いながら言葉を続ける。

「だから代わりに今日は、とことん甘やかしてください」

 抱いてとねだる子供のように「ん!」と腕を広げ、弓場を見上げる。
 恋人となった当初よりは素直に甘えられるようになったとはいえ、こうも分かりやすい行動を取るのは少し気恥ずかしさもあるが、これで弓場の罪悪感が晴れるのならば、ナマエにとってはなんだって良かった。
 なにより、とことん甘やかしてほしいという気持ちは嘘ではないのだから。
 その言葉に一瞬目を丸くした弓場だったが、すぐに仕方ないとばかりに口元を緩めると、ナマエの腕を自らの首に巻き付けさせ、そのまま膝の上に乗せるように抱き上げてしまう。

「わっ…!」
「ずいぶんなわがまま言うようになったなァ?」
「んふふ…だってなんか、申し訳なさそうな拓磨さんが可愛くて」
「からかうな」
「からかってないですよ…ん、」

 笑うナマエの額に、ちゅっと軽く唇を触れさせる。くすぐったいですよと身を捩るナマエだが、抱えられていては逃げることも叶わない。
 こめかみに、耳元に、顎先に、首筋に。音を立てていたるところに唇を落とされ、すっかり冷めた筈の昨夜の熱が身体の奥底でわずかに蘇ったことを察したナマエは、再び唇が触れる寸前、慌てて弓場の唇と自らの間に手を差し込んだ。

「………」
「……ま、前から思ってたんですけど、拓磨さん、ちゅー好きですよね」
「…そうだな。だから手ェ退けろや」

 わざとらしい誤魔化しも照れることなく肯定されてしまえば、これ以上ナマエにできることはなく。ぐっと言葉を呑み込んだナマエに気づいたのか、弓場の厚い上唇が"早くしろ"と、まるで抗議のように掌にむにむにと触れている。
 言われたとおりに手を退けると、すかさず頬へと唇が落とされる。焦らされた仕返しとでもいうのだろうか。柔らかなナマエの頬に軽く歯を立て、感触を楽しんでいるようだった。
 けれどさきほどまでと違うのは、あの雰囲気の最中ナマエが制止したのにはなにか理由があるのだろうと察し、性的な雰囲気には持っていかないところだ。
 ナマエの嫌なことはしない。そうしてきちんと気持ちを汲んでくれるところが、ナマエが"甘やかしてほしい"と素直に言える理由の一つでもあった。

「ん…ふ、ふふっ」
「なんだ、やけに楽しそうだな」
「拓磨さんが実はこんなに他人を甘やかすなんて知ったら、皆びっくりするだろうなって」
「…なに言ってんだ。んなワケねェーだろ」
「ええ?本当のことじゃないですか。私のこといつも甘やかしてくれるし」
「そうじゃねえよ」

 弓場は柔く噛んでいた頬から唇を離すと、わずかに距離を取りナマエをじっと見つめる。
 簡単に離れた距離に若干の寂しさを感じながらも、ナマエはだぼついたトレーナーからわずかに出た指先で、続きを促すように弓場の後頭部を撫でる。
 爪先でこしょこしょとくすぐられた弓場はどこか嬉しそうに「くすぐってェよ」と小さく笑うと、黒い切長の瞳をきゅっと細め、とろりと目尻を下げた。

「ここまで甘やかすのは、おめェーだけだって話だ」

 愛おしいという気持ちをありったけ詰め込んだような声と、視線と、体温と。全てがナマエの脳内で弾け飛び、心臓の鼓動を、弓場に聞こえてしまうのではないかというほど大きくしていく。
 痺れるような甘い感覚が背筋を走り抜け、すっかり力の抜けた身体はへなへなと崩れ落ちる。すがるように弓場へもたれかかると、どうしたと心配する声が耳元で聞こえて。首へ回した腕にぐっと力を込めた。

「拓磨さん、それ…」
「あ?」
「とんでもない殺し文句ですよぉ…」
「あァ…事実だからな」
「んん…好き…」
「知ってる」
「……拓磨さん」
「ん、なんだ」

 のろりと顔を離し、真正面から弓場を見つめる。慈愛に満ちた眼差しに再び蕩けそうになるのをぐっと堪え、少し迷いながら言葉を続ける。

「私…今から急いで歯磨いてきます」
「…おう、そうだな」
「そうしたら、さっきの続き…今度は口にして、たくさん甘やかしてください」

 ナマエの指先が、再び弓場の唇へと触れる。
 先ほどのやんわりとした拒絶とは違い、今度は直接触れて欲しいとねだる甘い声に弓場は驚いた表情を見せたものの、それも一瞬で悪戯な笑みに切り替わる。

「…言ったな?上等だコラァ」

 にっと歯を見せる姿は、いたずらを目論む年相応の子供のようにも見えて。ナマエは「顔がえっちですよ拓磨さん」と、どこか楽しげに笑うのだった。


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