「隠岐。帰り職員室寄っていくから、悪いんだけど教室で待っててくれない?迎え行くから」

 昼休みもあと十分で終わるという頃。教室の隅で騒ぐ見慣れた顔ぶれの中にいる、お目当ての人物に声をかける。「お、ナマエじゃん」「おつ〜」という気の抜けた声と共に、ナマエへ背を向けて座っていた目当ての人物──隠岐がゆるりとこちらを見上げた。

「おん、分かったー。じゃあ終わったら一旦連絡もろてもええ?」
「ん、了解……ちょっと、なによその顔」
「いや、別に?」
「つーかなに、お前らそういう感じ?」
「おいおいなんだよ、俺ら聞いてねえぞ〜」

 それまで騒がしく過ごしていた米屋と出水は、今度は打って変わって無言で二人の話に聞き耳を立てている。にやにやと浮かべられた笑みが妙に腹立たしくそれを咎めるも、二人にはそれもからかいの対象になるのだろう。相手にするだけ無駄だなと、ナマエは内心ため息をつく。

「…くだらない想像してる暇あるなら、最後に単語の一つでも覚えたらどうなの」

 呆れつつ指さした教室後ろの黒板には、次の授業は英語で、さらには小テストを行う有無が書かれていた。しかも今回は点数七十点以下の者には、特別課題を出すということも。
 どうしたらこんな重要なことを忘れられるのだろうか。さっと青ざめ、慌ててテキストを取り出した二人を横目に「じゃあおれも帰るわ。また放課後」と隠岐は席を立ち、隣の教室へと帰って行った。



「いやー、やっぱ写真で見るのと生で見るのはちゃうなぁ」

 気のせいなどではなく、確実に弾んだ声とでれっと垂れ下がった目尻に、撫でられる猫は嬉しそうに「にゃ」と声を上げた。

 玉狛支部の付近に雄の白猫が住み着いたのは、約一ヶ月程前のことだった。警戒区域内ということもあり人が近寄れないこの場所に猫が寄り付いたのは、元々飼い猫で人恋しくなったのか、もしくは特定の人間しか通らないことが逆に居心地の良さを生み出したからなのか。どちらにしろ、甚くこの場所が気に入ったらしく。猫は数日としないうちに支部の付近を縄張りとしたようだった。
 そんな彼の存在を知った支部の面々により簡易なダンボールと毛布から始まった住処は、現在となっては雨風をしのげる屋根付きの小屋が用意され、毎日餌が用意されるという好待遇っぷりとなっている。また彼元来の人懐っこい性格もあり、特に支部に住み込む面々には、姿を見れば足元に擦り寄るぐらいには心を許していた。
 そんな彼の情報を、猫好きである宇井にたまたま話したのが三日前。どうやらそれは隠岐にも伝わったらしく、どこか興奮した様子で「玉狛にネコちゃんおるって本当なん?」と尋ねて来たのだ。
 ──そうして、話は冒頭に戻る。

「そんなに?そもそも実家で飼ってたんでしょ?」
「当たり前やん。ネコちゃんはどんな子でも可愛えんよ」
「じゃあ実家の子からしたら、これ浮気になるじゃない。いいのかなあ?」
「いやいや、おれ好きな子には一途やし?これは浮気とちゃうで」

 あいにくナマエは動物を飼ったことがないため、自宅にいるペットと別の子を愛でるのは浮気とされるのか否か分からないが、当人が違うと言うのならそうなのだろう。そういえばそんな話を宇井ちゃんとしたな、と幾度となく見せられた彼女の愛猫を思い出しながら、隠岐によって撫で回される猫をじっと眺める。
 頭を撫でていた右手は、猫が顎を上げると同時に移動し、ごろごろと鳴る喉を撫でる。そのまま全身を緩やかにすべらせ尻尾の付け根をトントン数回叩くと、ぐっと腰を上げ、ついには白い毛が汚れることも厭わずお腹をさらけ出してしまった。

「あ、すごい。この子滅多にお腹見せてくれないのに」
「そうなん?」
「うん、初めて見たかも…はは、ふわふわだ。可愛い」

 誘われるようにナマエもその柔らかなお腹をくすぐる。投げ出された手足と、ぴすぴす鳴る鼻にはもはや野生の欠片も感じないが、彼が嬉しそうなら良いのかもしれない。掌から伝わる優しい温度に思わず顔がほころんでしまう。

「…なあ」
「んー?」
「さっきの話やけど、」

 愛おしげに腹を撫でていた手をぴたりと止め、代わりに何処か怯えたような、伺うような声色で、隠岐は不意に切り出した。

「さっき…え、浮気のこと?」
「ちゃう。出水らと話しとったこと」
「ああ……なに、気にしてるの?あいつらも本気なわけじゃないから、そんなに気にすることないとおも、」
「…ちゃうくて」

 忙しなく動いていた右手が、今度はナマエの右手に重ねられる。梅雨に差し掛かり、汗ばむような蒸し暑さ間近に感じられる程度には暑くなってきたにもかかわらず、その手はなぜか、やけに冷たかった。

「な、なに…」
「…おれがほんまに、ネコちゃん目当てで来たと思ったん?」
「え…思ってるけど」
「…いや、そこは否定せな。いい雰囲気やったやん、今」
「…いい雰囲気だったの?今?」
「うん」
「………じゃあ、」
「うん?」
「まったく、違う?猫ちゃんには、興味なかった…?」
「……まあ、それも勿論あるけど」

 やはり間違いではないらしい。ナマエの少しだけ揶揄うような口調に緊張が解けたのか、唇を尖らせ「ちゅうか、ここまで言っても分からん?」とぽそぽそ呟いているその姿は、よく知る隠岐の姿で。相変わらず重ねられたままの手は、少しだけ温かさを取り戻していた。

「きっかけは、まあたしかにネコちゃんやけど…来た理由は、最初からナマエやったで」
「………」
「………」
「………」
「…なんか言うてや。おれ一応、告白しとんのやけど」

 気まずさを誤魔化したいのか、少し揶揄うような口調で苦笑いを浮かべる。しかし彼には申し訳ないが、ナマエの脳内には"告白"の一言がぐるぐると駆け巡っていて。
 ──宇井に話した白猫のこと。それを聞きつけわざわざナマエのクラスにやって来た隠岐。しかしそんな彼の目的は、猫でなくナマエ自身で。
 点と点をつなぎ合わせ導き出した答えを、自惚れではないことを祈りながら、ナマエはおそるおそる口にした。

「……つまりは?猫をダシにして、私と一緒にいたかった、と…?」
「…そんなハッキリ言われると照れるわ……まあ、そういうことやけど」
「…隠岐ほんと、」
「うん」
「そ、そういうとこ…!」
「えー?どういうとこ?」

 日常として聞き流している生駒隊の漫才のようなやり取りも、今ならその気持ちが痛いほどよく分かる。自分ではそうでないと言いつつ、"こういうこと"を、照れながらも結局本人に言ってしまうところなのだろう。このあざとい顔で小首を傾げる仕草さえ、もはや計算なのではと思う。いや、計算なのだ。そしてナマエはその計算に、まんまと引っかかってしまったというわけだ。
 ナマエの大きな声に驚いたのか、それとももう撫でてもらえないことを察したのか。愛しの白猫は自らの巣へさっさと帰ったらしく。寝転がり体を擦り付けていた場所には、毛の一本すら残されていなかった。

「…あの時さあ、」
「うん」
「隠岐、否定しなかったじゃん」
「出水たちに?」
「うん」
「せやなあ…それがどうしたん?」
「なんでかなって、思った。でもたぶん隠岐のことだから、大した意味はないんだろうなって……」

 おそらく、いや確実に赤くなっているであろう顔を隠したいのだが、隠岐の手はそれを許してはくれない。
 せめてもの抵抗とばかりに俯き、褪せたコンクリートをじっと見つめる。けれど返事を催促するように隠岐の親指が手の甲をすりすりと撫で、残りの指は間を割り開き、ゆるりと絡まってくる。
分かりやすく、びくりと肩を跳ねさせたナマエを笑っているのか、隠岐の肩もわずかに震えていて。先ほどまで若干とはいえ動揺していたのは隠岐の方だというのに、すっかり形勢は逆転してしまったようだった。

「…否定しなかったのは、そうなったらええなって思っとったから。でもナマエ気付いてへんみたいやったし、もう少し強引にいかなあかんなって」

 落ちた自身の髪の隙間から、ちらりと隠岐へ視線を向ければ、真剣さを帯びながらも、とろりと垂れた瞳とぶつかった。制服だからだろう。見慣れたサンバイザーをしていない隠岐の顔が、今日はよく見える。そしてそれは隠岐からも同じで。真っ赤に染まるナマエの顔がしっかりと見えていた。
 全身に鳴り響く心臓の音とのぼせたような肌の熱さに、今にも乗り出しそうな身をなんとか抑えながら、隠岐はナマエへの距離をわずかに縮める。

「……せやから、また来てもええかな。今度はネコちゃん目当てやないけど」

 しゃがみこんだ膝同士がこつんっとぶつかる。分かりやすく強張ったナマエを見た隠岐は、今度は笑ったりしなかった。


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