ナマエの所属する315プロダクションは、彼女以外全員が男性という少し珍しい芸能事務所である。そのせいもあってかバレンタインには山のようにチョコレートが届き、その仕分けをアイドルであるナマエも手伝うといった少し異様な光景が広がったのは記憶に新しい。もっともナマエもその数は負けてはいないのだが、そこはさしたる問題ではなく。重要なのはもっと別のことであった。


 『伊集院』と大きく書かれたダンボール箱。中にはチョコレートの他にも丁寧にラッピングされたプレゼントや手紙が入れられており、他のダンボールとは少し毛色が違っていた。
 というのも、二月十四日。世間一般でいうところのバレンタインは、ナマエの想い人、伊集院北斗の誕生日でもあるからだった。そのため事務所へ届くのはチョコよりもプレゼントがほとんで、そのどれもが華やかな彼らしく鮮やかな色合いの包装をされた物ばかりであった。
 そしてナマエもそんな彼にプレゼントを渡そうとするうちの一人で。少しだけ他と違うのは、直接渡すという手段があるにも関わらずファンのそれらに紛れるように箱入れようとしていること。それと見る限りその中に一つしかない、黒い包装紙を使っているということだった。
 おそるおそる箱へ入れようとする。しかし少しの躊躇いのあと自身の胸の中へ戻す。そんなパントマイムを繰り返すことかれこれ十五分。彼女がなぜここまで踏ん切りがつかないでいるのか。それは至極簡単な、しかし恋する当人からすればどうしようもないほど深刻な理由からであった。
 ──伊集院北斗という男は老若男女問わず気遣いのできる人物である。特に女性に対してはそれが顕著で、趣味がデートとプロフィールに書いてしまうほどの、いわゆるプレイボーイだ。そしてそれはナマエに対しても変わらず、さらには事務所唯一の女性とあってか。なおのこと、それこそまるで自身がとこぞの姫かとうっかり勘違いしてしまいそうになるほどには優しく、そしてときめきを禁じ得ないものであった。
 恋というものは、なにか紆余曲折があってするものだと思っていた。けれど実際そんなこともなく。気がついたら、いつの間にか。その優しさを好きになっていて。いつだったか恋はするものではなく落ちるものだと聞いたことがあったけれど、本当だったのだとナマエもまるで他人事のように実感したものだ。
 しかしナマエはこの想いを伝える気はなかった。北斗の様子を見ていれば自身に特別な感情を抱いていないというのは明らかで。そんな中で同じ事務所の人間に告白などされてみろ、とんでもないことになるぞ。そう何度も自身に言い聞かせ、溢れそうになる言葉を飲み込んできた。この先もずっとそれは変わらないだろう。
 けれど想いは募るばかりで。伝えることはしない代わりに、せめてそういった感情を持っている人がいるということを知ってほしいと、なんとも矛盾した想いを込めて手紙を書いた。名は添えず、ファンからだと思わせるような言葉を、一つだけ。そしてそれを誕生日プレゼントに便乗して渡してしまおうという魂胆だ。
 よし、と気合を入れ直すため大きく深呼吸をし、勢いよくダンボールへと押し込んだ。やってやったぞ!と誰にでもなく呟きソファへと腰を下ろす。どれだけ情けないんだと自身に苦笑しつつも、一仕事終えたことにより力の抜けた身体をずるずるとソファに沈め、肘掛に頭をぶつけた。

「おはよう」

 ガチャリと古びた音を立てて扉が開く。驚いて起き上がり、面接のごとく背筋を伸ばしてそちらを見れば、まさに先ほどまでナマエが頭を抱えていた問題の当人である北斗がいた。

「お、おはようございます。お一人なんて、珍しいですね…」
「そうかな。俺だって常に冬馬たちと一緒なわけじゃないよ?」
「そ、それもそうですね、ははっ」

 危なかった、あと少し遅かったらバレていた。恐ろしいタイミングで訪れた本人に慌てながらもなんとか普段のような会話を続ける。
 そんなナマエに気づいているのか否か。北斗はロッカーへ上着をしまうと、ナマエの後ろにあるダンボールへと近寄り「この箱は?」と問いかけた。

「ば、バレンタインに皆さんに届いた物です。もう仕分けしてあるので、各自で確認しておいでくださいって、プロデューサーが」
「そっか、エンジェルちゃん達からか。ありがとう」

 中を覗き込みながら軽く物色しているらしい後ろ姿に、まさかあの数の中から自身の物をぴたりと特定されてしまうわけはないと分かりつつもどこか嫌な予感が拭えず。ナマエは落ち着かずそわそわと視線をあちらこちらへ泳がせてしまう。

「ナマエちゃん」
「え、は、はい!どうし…、」

 不意に名前を呼ばれ、慌てて視線を戻す。そしてその手に握られていた物を見た瞬間、ナマエの心拍数は一気に跳ね上がる。

「見てよこれ、黒いプレゼント。しかも俺たちJupiterみたいで、綺麗だね」
「そ、うですね」

 まさかのぴたり賞。あろうことか嫌な予感は的中し、北斗の手にはナマエのプレゼントが握られていた。
 黒の包装用紙と黄緑のリボンを選んだのは、北斗の言う通り、Jupiterらしいというなんとも単純な理由からであった。思いついた当初はかっこいいと自画自賛していたものの、今はなぜそんな目立ちやすい物にしたのだと、後悔の念さえ生まれてしまう。

「手紙も付いてる。嬉しいね」

 リボンに挟まれたそれを丁寧に開いていく北斗を、ナマエはまるでホラー映画でも見るかのような気持ちで、叶うならば指の隙間から覗きたいとさえ思いながら見つめる。いよいよ開かれてしまった手紙の文字を、美しい青い瞳が追う。そうしてくすりと笑い、ナマエと視線を合わせた。

「"あなたのエンジェルになりたいです"、だって」

 止めて、口になんて出さないで。当人に言われるとこうも死にたくなるほど恥ずかしいのだと、知りたくもなかったことを知ったナマエの心中は穏やかではなく。そうですね、と先ほどと全く同じ返答しかできなかった。
 いやでも手紙に名前は書いていないし、私と分かるような痕跡はなに一つ残していない、はず。バレていない、大丈夫、大丈夫。
 暗示のごとく脳内で何度もそう呟くナマエの考えを吹き飛ばすように、北斗の声が響いた。

「こんなことわざわざ書かなくても、目の前にいるんだから言えばいいのに。……ね、ナマエちゃん」

 バレてないはず、なのに。
 勢いよく顔を上げた先。ばちりとあった青の瞳に、どうして、なんて言葉はもはや無意味だった。指先で弄ぶ歪な形のリボンを結んだのも、不器用なメッセージも書いたのも、それを箱に入れたのも。自作自演。北斗には誰なのか、全て分かっていた。そしてそんな状況に追い詰められてしまったと、ナマエが理解したことさえ、分かっているのだ。
 それなのにあえて決定的な言葉を言わない北斗に、もう首にかけた手をいっそ一思いに締めてくれと思うほどにはナマエは動揺していた。
 なにも言えずただ冷や汗を流すナマエに、しびれを切らしたのか北斗はどこか困った様子で目を細め、「でも、ごめんね」と小さく、ため息混じりに呟いた。

「ナマエちゃんは、エンジェルちゃんにはならないで欲しいな」

 よくぞ舌を噛んで自殺しなかったと、褒めて欲しいぐらいだった。ただ動きが一瞬止まってしまったことだけはどうしようもなかった。本人にバレたというだけでなく、目の前でこうもはっきりと拒絶されてしまうとは。しかも女性には無条件に優しい、あの北斗に。
 なにも言えず視線を落とす。膝の上で握りしめた拳の内側に爪が刺さる感覚に、ナマエの瞳に涙がにじむ。
 そんなナマエの様子を、まるで予想していたとでも言わんばかりに北斗は「ああ、ごめん。少し違ったかな」と否定の言葉を続ける。
 そうしてなにを思ったか。うなだれるナマエへと近づき隣に腰かけると、その腕を掴み、強く自身の方へと引いてみせた。視界の端で、ソファに置かれていたクッションが床へ落ちていくのが見えた。
 突然のことにされるがままのナマエの身体は、男にしては薄い、けれど自身とは明らかに違う硬い胸板へと抵抗もなく抱き寄せられる。

「ほ、くとさ、」

 一体なにが起きたと、困惑の混じる声で名を呼ぶ。こればかりは流石に冷静なふりはできなかった。
 それに答えるように、北斗はナマエの頬へと手を添え、やや無理やり目を合わせる。普段女性に対して優しい北斗らしからぬその手つきに、ナマエの困惑はますます増していく。
 一層縮まった距離。甘い言葉を吐き出す唇の、わずか数センチ先。息を吐き出すのさえためらわれるその距離に、赤く濡れたナマエの唇が震える。
 ナマエの様子を察したか否か。北斗はその大きな瞳を細めると、まるでキスでもするように顔を傾け、優しく囁いた。

「君にはエンジェルちゃんじゃなくて…俺だけのヴィーナスでいてほしいから」

もう駄目だ。ナマエがそう思うのと、唇の端に柔らかな感触がしたのは、ほぼ同時であった。この距離で触れたそれが何か分からないわけもなく。驚きや困惑といった言葉だけではもはや表せなくなったナマエを置いていくように、北斗は彼女の腰へと手を添え、その距離をさらに縮めてしまう。
 低く甘い声が、「ナマエ」と耳元で響く。脳内を溶かすようなひどく艶のあるそれに、動かないと思っていた身体がびくりと跳ねる。猫のように甘えた吐息を慌てて飲み込んだ。

「…その顔…もしかして誘ってる?」

 しかしそれでも湧き上がる熱は抑えきれていなかったらしく。苦笑混じりにそう言われ、ナマエはようやく自身がひどく物欲しげな顔をしていたということに気がついた。

「さ、誘ってないです…!」
「それは残念」

 否定するように大きな声を出すも、それすらも北斗にはナマエの可愛さを助長させるものらしく。どこか嬉しそうにナマエの頭を撫で、薄く涙の滲む目尻へと音を立ててキスをする。
 恥ずかしさからであろうナマエの顔は真っ赤になっていて。もうこれ以上は駄目だと北斗の胸板を軽く押すも、咎めるようにその手を掴まれた。「でも…」と小さく、北斗が囁く。

「すっかり誘われちゃったから、やっぱりここにしていいかな」

 細くしなやかな指先が、優しくナマエの唇へと触れる。してもいいかと、あくまでナマエに問うているように見せかけて。その実駄目だと言われてもなにか理由をつけて触れてしまおうという考えを隠しもせず告げてくるものだから、ナマエはいよいよなにも言えなくなってしまう。
 無言を了承と受け取ったのだろう。北斗は嬉しそうに目を細めると、ひどく甘さを含んだ声でナマエの名を呼ぶ。
 促され顔を上げた先。再び近づく唇に今度は抗うことなく、ナマエはゆっくりと瞳を閉じた。





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