自分が悪いのは百も承知だった。
 仕事なのだからと切り離さなければいけないその感情をごちゃ混ぜにしてしまい、こんな状態で会いたくないとナマエが雨彦を避け始めたのは、もう一ヶ月も前になる。
 ダンスレッスンがあると食事を断り、次の日は朝から打ち合わせだと泊まりを断り、たまの休みも友人に会うと断り…エトセトラ。
 諸々の理由に最初は雨彦も納得していたものの、それが一ヶ月も続くとさすがに違和感を持ったらしく。何度も会おうとメールが届いていたが、ナマエはそれをことごとく、取ってつけたような理由で回避してきた。
 普段の雨彦であれば、そんなことをされれば待ち伏せをしてでも問い詰めようとするおうが、ちょうどその頃彼はドラマに出演していたため、撮影で中々時間を作ることはできなかったのだ。これ幸いとばかりに、お疲れでしょうと気遣うように見せながら、ナマエは雨彦を避ける日々を続けていた。
 しかし、当たり前だが撮影が終了すればそんな日々も同じく終わりを迎えてしまうわけで。その日が頭からすっかり抜け落ちていたナマエは北村と共に事務所で遅くまでダンスレッスンを行なっていたところを、それまでの逃避行が嘘のようにあっさりと捕まってしまったのだった。


 そろそろ終わりにしようと北村に声をかけ、連絡を確認するため携帯に落としていた視線は、突如として近づいてきた大きな影と「おい」という低い威圧的な声によって、強制的に上げさせられてしまう。
 目を見開くナマエとは正反対に、切れ長の目をより一層細めこちらを見下ろす雨彦は、怒っていますというオーラを包み隠すことなく醸し出していた。「わあ、海外式の壁ドン。ネットで見たやつだー」と北村が楽しそうにこちらを伺っているのが、雨彦越しに見える。しかしあいにくその海外式とやらに置かれた張本人であるナマエは、冷や汗が止まらない状態である。

「お前さん、最近俺を避けているだろう」
「そ、んなことは…」
「自覚はあるよな」

 もう回りくどいことはしないと直球で言葉を投げかけてくる雨彦に、もはや乾いた笑いを返すことしかできない。助けを求めるように北村を見るも、どこ吹く風。まるでからかう対象を見つけたとばかりの顔つきでにたりと笑い、あまつさえ早く帰ろうと準備を始める始末。
 裏切り者と視線に込めても気にもせず。「じゃあ、頑張ってねー」口パクでそう呟き、手を振りながら颯爽と部屋を出て行った。残されたのは、ただただ沈黙する、恋人同士とは思えないほど気まずい二人である。

「で、どうして避けてるんだ?」
「いや、あ、雨彦さんの気のせいじゃないですか…はは」
「この状況でまだそんなこと言えるとは大した度胸だな」

 普段どちらかと言えば温厚な雨彦がここまで厳しい言葉を投げかけるという時点で、見た目には出ていないもののそうとう怒っているというのは、もはや火を見るよりも明らかで。
 ごまかして逃げようにも、唯一の扉は雨彦の後ろにある。そもそもごまかすなど、散々避けておいて今更無理な話で。なにより、肉体的にも精神的にも威圧感の塊である目の前の男から逃げるなど、そんなことができるのかと聞かれれば、胸を張って言える。無理だ。すでに身体は、床に縫い付けられているかのように動くことは叶わないのだから。
 耐えられなくなり視線を落とす。ついこの間おろしたばかりのシューズのつま先が後ずさると、それを追うように雨彦の足先が視界の中へと入り込む。そして白い指先が伸びてきたかと思うと、ナマエの顎を掴み、無理やり上を向かせた。

「っあ、雨彦さ、」
「逃げたくなったか」

 雨彦らしからぬ乱暴さに驚きつつ、その口調に逆らうことはできない。ぐっと息を詰まらせるナマエに肯定と受け取ったのだろう、雨彦は眉間にしわを寄せ、苦しげに続ける。

「言っただろう。俺は一度手に入れたものは、絶対に手放さないと」

 触れた手は少し震えているようだった。まるで脅し文句のようなそれは、大人だからと、大抵のことは笑って流してくれる雨彦という人間が、ほんの少し見せた本音であった。
 ──怒られると思っていたのだ。理由も分からず避けられて気持ちのいい人間などいない。問い詰められて、いい加減にしろと。最悪よくない終わりになってしまうかもとさえ思った。
 不意に視えた雨彦の本心に、やってしまったと、ナマエは慌てて否定の言葉を続ける。

「に、逃げようとしたわけじゃ…」
「ほう、じゃあどういうわけで俺を避けてたっていうんだ?」

 しかし、だからと言って。簡単に理由を話せるならば、そもそもこんな自体にはなっていないわけで。いざ話そうとすると、恥ずかしさが勝り言葉は再び喉で詰まってしまう。

「え、っと、そのー、ど、ドラマで……」
「ドラマ?」
「雨彦さんが出てた、月曜10時の…」
「ああ、あれか。それがどうした」
「ど、どうしたっていうか…女優さんと、その…だ……」
「だ?」
「だ…だ……」
「……」
「……」
「……ナマエ」
「だっ、抱き合ってたじゃないですか!」

 ええい、ままよ!と室内に響く声でそう叫ぶ。レッスン後で息も上がっている時にいきなり大きな声を出したからだろう、頭がややくらくらした。
 勢いに驚きつつも言葉の意味を理解したらしく。数秒後に雨彦の眉間のしわはすっかり伸ばされ、代わりに目を丸めぽかんと口を開けていた。

「……まさか、抱き合ってたシーンのせいか?」

 拍子抜け。思わず出てしまったといった声色の言葉に、すっかり箍の外れたナマエは半ばヤケに続ける。

「そうですよ!すいませんねこんな子供染みたことでやきもち焼いて!でもしょうがないでしょう!?誰だって恋人が、女優さんっていうめちゃくちゃ綺麗な人と抱き合ってたらそりゃモヤモヤもしますよ!でも仕事だしそんなこと言えないし、ていうかドラマの雨彦さんはかっこいいし!むしろ女優さんとは絵になってるし!そもそも言ったら絶対呆れるって分かってたから言えるわけないし!だから少しでも気持ちの整理ができるまであんまり話さないようにしようと思ったら!雨彦さんはお構いなしにずかずか入り込んでくるし!気がついたら一ヶ月経ってて引っ込みつかなくなるし!どうしろって言うんですかもー!!」

 雨彦さんの馬鹿!と八つ当たりの言葉を吐きながら、しゃがみ込み、赤くなっているであろう顔を腕で隠す。
 仕事と私情を別けられないなど、アイドルとして情けない。なにより、普段からただでさえ年齢差というのを痛感しているというのに、これではますます自身の子供っぽさが顕著になるではないか。
 悔しさやら恥ずかしさやら。諸々の感情は混ざりに混ざって、ナマエの瞳から雫となって溢れ出してしまう。自分はなにを泣いているんだと思いつつも涙は止まらず。ぼろぼろと落ちていく雫は床に水たまりを作っている。情けない。

「ナマエ」
「…………」
「ナマエ、顔を上げろ。泣くことじゃないだろう」
「な、いてないです」
「いや泣いてるだろ」

 目線を合わせるため同じように座り込んだ雨彦は、俯くナマエの腕を掴み、顔を覗き込む。思っていたよりもあっさり退かされた腕の先、頬も鼻も耳までも真っ赤にしながら、どこかばつが悪そうに涙を流す姿に、思わずくつくつと笑ってしまう。

「…なんで笑ってるんですか」
「いや悪い…お前さんがそんなことを気にするとは、思ってもみなかったんでね」
「っどうせ子供ですよ!」
「そういう意味じゃないさ」

 子供をあやすように背を撫で、そのまま引き寄せ自身の胸元へと導く。ナマエは大して抵抗もせずそこへすっぽりと収まり、どこか納得がいっていない様子をしつつも、大人しく頭を撫でる手に身を委ねた。

「なあナマエ、俺は嬉しかったんだよ。お前さんがそんな些細なことでも嫉妬してくれるようになって」
「些細なことって…」
「だってそうだろう?お前さんとはもっと色々してるっていうのに」
「そ、ういうのはいちいち言わなくていいです……」
「本当のことだからな」

 距離を取り、前髪を退かし現れた額に一つ唇を落とす。恥ずかしがると分かっていてわざとそういった言葉を選んでいるのだから、この人も大概子供っぽいのかもしれないと、今更な考えがナマエの頭を過ぎる。
 どこか恨めしげに雨彦を見つめるも、当の本人は楽しそうに笑い、涙で濡れたナマエの頬に手を添え親指でその痕を拭っていた。

「でも、それならお前さんも同じだろう」
「…なにがですか」
「ほう、自覚なしときたか」

 まさかここで突然自身を引き合いに出されるとは思っておらず。さっぱり心当たりがないナマエは、なんのことだと雨彦に訝しげな視線を向ける。

「挙げればきりはないが…そうだな、まずは伊瀬谷との距離感。なにをするにも近過ぎる。具体的に言うとすれば、一緒に写真を撮り過ぎだ。ブログで毎回お前さんが登場してるものだから、できてるのかってネットで噂になってたしな。あとは、北村とも仲がいいだろう。今日のレッスンもそうだが…この前一緒に買い物に行ったんだったか」
「え、なんでそれ知って…」
「俺が知らないとでも思ったか?ああそれと、先週は天道さんにも振り付け教えるとかで遅くまで一緒に残って。それでその…後家まで送ってもらったって?」

 その他にも、事務所の人間全員とのこれまでのやり取りや出来事全てが、淡々と、事細かく正確に述べられていく。中にはナマエがほとんど覚えていないようなものまであった。
 どれもやましいことはなに一つない、全て仲間としての出来事だとは雨彦も理解はしているらしいが、その口調から『全てが気に食わない』と思っているのは明白で。今度は違った意味で血の気が引いていくのを、ナマエは感じていた。

「…ちょっと私お手洗いに、」
「まあ待て」

 よくない空気を察したナマエは、この場から逃げようとまたもありきたりな嘘を切り出すが、もはや通用するわけもなく。恐ろしいほど爽やかな笑顔の雨彦に腕を掴まれ、再びその胸元へとダイブすることとなる。わずかに鼻がぶつかり、じわりと痛む。

「ちょ、雨彦さん離して…っ!」
「なに、ちょうどいい機会だ。お互いに気になったことを洗いざらい話して、すっきりした気持ちで向き合うべきだと思わないか?」
「や、私は別に、気になることなんてなにも…」
「遠慮するな」

 笑顔のはず、なのだが。有無を言わさぬ力加減で抱きしめられた身体は、色々な意味で悲鳴をあげそうだ。もしやこれは、墓穴を掘ったというのではないだろうか。
 そんな遅すぎる後悔の念に苛まれているナマエに構うことなく、雨彦は仰け反る背中に回していた手を、躊躇なくシャツの中へと潜り込ませた。レッスン終わりということもあり温まっていた身体に、雨彦の手はとても冷たく。ナマエは思わずひっと悲鳴を上げる。

「ちょ、あ、雨彦さ、私汗かいて、っ」
「で、あとは…」
「まだあるんですか!?」
「一夜を明かせるぐらいにはな」

 なんとか逃げようと胸板を強く押すも、なんの意味もなく。むしろ行為を助長させる要因となってしまったらしく、雨彦はしっとりと汗ばむ首筋に、音を立てて唇を触れさせていく。
 ちゅっ、と状況に似合わない可愛らしい音が響く。そも度肩を跳ねさせるナマエの様子に満足げに笑いながら、雨彦は耳元でわざとらしく囁いた。

「嬉しかったよ、さっきの」
「う、さ、さっきって、」
「お前さんもようやく、俺と同じところに落ちてきてくれたんだな」

 恍惚とした表情でナマエの頬を撫で、抱き締める腕に力を込める。──ナマエの行動を逐一覚えていたこと。逃す気はないと、子供染みた嫉妬が嬉しかったというあの言葉。あまつさえ、俺と同じところまで落ちてきたという表現。想像をはるかに超えてこの男は自身に依存しているのだと、思いもよらぬ形で知らされてしまった。
 中へ入り込んだ手は、背骨の溝をなぞりながらゆっくりと上がっていく。その不穏な動きにまさか、とナマエが思ったと同時に、指先が器用にも下着のホックを外してしまった。

「嘘、待って雨彦さ、…!」
「一ヶ月もお預けをくらったんだ。もう待たない」

 蠢く手は前へと回り、無防備な胸へと柔く触れる。ここは事務所だと静止の言葉を発するはずの唇も、丸ごと飲み込むように塞がれてしまう。
 絡まる舌と触れる手の熱さ。抱き締める腕の力に、近づく直前で見えた、雨彦の至極嬉しそうな顔。
 もはや色々な意味で今の自分に逃げ場はないのだと、半ば諦めたように察したナマエは、震える手をその背中へと回し、同じように目の前の存在を強く抱き締めるのだった。





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