「ねえ、ナマエさん」
「んー?」
「この前のことちゃんと考えてくれた?」
「え?」
突然振られた話題に、ナマエは雑誌に落としていた視線を、隣に座る翔太へと視線を向けた。
この前──そう言われ、ナマエはここ一週間程の出来事を思い出すが、特に主だったことはなく。しかしわざわざこうして話題にするということは、"この前のこと"とやらがそれだけ大切なことなのだろう。
頭を捻るナマエの様子に、忘れられていると早々に察したのだろう。翔太はため息を吐き、不満げに眉間にしわを寄せた。
「もー、忘れちゃったの?デートしようって言ったじゃん」
「ああ…」
予想していたよりずっと重要度の低い内容に少し慌てたことを後悔しつつ、ナマエは視線を再び雑誌へと戻す。「再来月号にゲストモデルとして呼ばれているから、傾向研究のために」と石川に渡された物であったが、中高生向けとあってか内容は少し子供らしいもので。どうやって雰囲気を合わせるかをなんとなく思案しながら文字を追っていく。
「ナマエさんちゃんと聞いてるー!?」
「聞いてる聞いてる」
あしらうナマエの言葉に、翔太はナマエが自宅から持ってきたマシュマロをパクパクと頬張りながら、同じように柔らかなその頬をぷくりと膨らませている。
「僕本気なんだけど」
「分かってるよ」
「分かってない!」
「分かってるってー」
普段ならばこの辺りで冬馬か北斗辺りが「またやってるのか」と笑い共に会話に入ってくるのだが、あいにく二人はそれぞれの所用で今席を外している。
だからこそ翔太もこのタイミングを狙ったのだが、当の本人であるナマエは少年の主張に全く耳を貸していない。
「…前からずっと思ってたけど、」
「うん」
「ナマエさん、僕のこと子供扱いしてるでしょ」
「ええ?だって、まだ子供でしょ」
「僕子供じゃないよ」
「十四歳はまだまだ子供です」
と言いつつも、齢十九のナマエも世間的に見たらまだまだ子供であるということは本人も自覚しているが、それはあくまで世間という、大きな括りでみればの話で。
ナマエと翔太の二人となれば、五つという大きな年齢の差がある。それは大人と子供として分けられるだろう。特に成長著しい思春期という年齢において、精神面は天と地ほどの差があると言っても過言ではないのだ。
ナマエの言葉に、ふくれっ面で翔太が反論する。そうしてそれを受け流し、可愛いねと頭を撫でる。今日も変わらずその流れだと、翔太の様子をさして気にすることなく同じ対応をするナマエであった。だが、今回ばかりは違った。相変わらず目線を雑誌へと落としたままのナマエは、ふと違和感に気づく。
いつもの反論が、一切ないのだ。先程までの喧騒が嘘のように静かになったことを不思議に思い、どうしたのかとナマエが目線を上げた、その先。
マシュマロ。そう、マシュマロだった。ふにっと柔らかな感触がして、ほんの少しの甘い香り。物理的にも味的にも、ナマエが感じたのは、たしかにマシュマロそのものだった。
そういえば、ついさっきまでマシュマロの香りを嗅いでた。どこなんてそんなの、今いる事務所以外あるはずがなく。さらに言えば、嗅いだのはほんの数分前で。
雑誌が音を立てて、手から滑り落ちる。付録の小冊子が抜けて滑り、ソファ下の隙間へと入り込んでしまったけれど、そんなことは大した問題ではなかった。
「…は、?」
「はは、なんかすっごい柔らかかった」
自らの唇へと指を当て、ふにふにと感触を楽しむように無邪気に笑う。しかし、口角をゆるりと上げ、「さっきのマシュマロみたい」と小さく呟いたその顔は、ひどく艶を帯びていた。
嘘だ、嘘でしょ。同じように自身の唇へと触れたナマエは、指先にわずかに付いた甘い粉に気づく。それは机の上に広がる柔らかなお菓子に付着していた、ほんのり色のついた甘味料だった。
一切口にしていないはずのそれが、なぜ自身の唇に付いていたのか。それは、どうにかはぐらかそうとしていた答えへと、まさに行き着くもので。
一気に血の気が引く感覚に襲われながら、ナマエは信じられないといった様子で、目の前の存在を見やる。
「な、なんで…」
「だってしたくなっちゃったから」
「し、たくなったからって、だ、駄目に決まってるでしょ、こ、こんな…」
これまで、言葉での口説きに似たなにかはたしかにあった。けれど物理的、肉体的接触はこれが初めてで。しかもよりにもよってキスという、まさしく恋人同士でしか許されないそれをしてしまうとは。
罪悪感、困惑、驚愕。様々な言葉で表せる、けれどいざ口に出そうとすれば途端に頼りない声となり。触れた唇からはまるで穴の空いた風船のように、情けなく空気が漏れるのみであった。
「うーん…何がダメなの?」
「な、にって…」
「ごめんね、僕子供だから。悪いこと分からないや」
なんてことだ。鳩が豆鉄砲を食ったような顔になってしまったナマエがその言葉の意味を理解したのは、翔太の顔が再び近づいてきた時だった。
慌てて距離を取れば、「なんで逃げるのさー」と不満げな顔。いやいや、そうじゃない!
「そっ、ういうのはずるくない!?」
「ずるくないよー。だってそう言ったのはナマエさんじゃん」
語尾に音符でもつきそうなほど楽しげな声色に、してやられたとこれまでの自身の発言を悔いる。日頃からまだ子供だからとあしらっていたことを逆手に、悪びれもせずそう言ってのけるその姿は、国民的弟アイドルなどではない。もはや悪魔の領域だ。
「ね、ナマエさん」
再び縮まる距離に思わず後ずさるも、すぐにソファの端へと追い詰められてしまう。それでも逃げようと背中を仰け反らせば、当たり前だが視界は低くなるわけで。これ好機とばかりに、翔太は背もたれと肘掛に手を置き。ナマエへと覆い被さった。
形成逆転。腕の中に閉じ込められた身体は、翔太が退かない限り動くことは叶わない。普段からヒールを履いているナマエを、たかだか数センチの差とはいえ見上げていた翔太にとって、この光景は新鮮なもので。さらにいえば、子供扱いばかりしていた瞳の奥が見たことのない色に染まっているというその事実に、身体のどこかで得もいわれぬ感覚が湧き上がっていた。
どきどき、とはまた違う。そこまで純粋なものではない。その妙な感覚に背中を押されるように、翔太は目の前の存在へゆっくりとその身体を傾ける。せめてもの抵抗だろうか、あちらこちらへ泳いでいた瞳が強く閉じられ、視線を交わらせることを拒んでいた。
照れてどうしようもないと逃げるために瞳をつむるのか。まさかの仕草に、例えるならそう。キューピッドに胸を射抜かれたような、そんな感じ。きゅうきゅうとなる胸をなんとか抑え、翔太は先ほど触れた場所から少しずれた、柔らかなその頬へとキスをする。
ちゅ、と可愛らしい音を立てて触れたそこは、思っていたよりもずっと柔らかく。そしてひどく熱を帯びていた。
「僕、まだまだ子供だから。何かしちゃったらごめんね」
ぺろりと唇を舐め、獲物を狙う目つきで笑う姿に、ナマエの顔がひきつる。
このまま野放しにしていたらまた同じことをしかねない。それこそ今度はもっと大胆なことをしでかす可能性だってある。そしてその度に『子供の悪戯だから』と、流す他なくなってしまう。
しかし、だからといって大人として見るようになったら。今度は『男としてみている』と認めてしまうことになり、今まで以上に行動が直接的なものになる可能性もあるのだ。
どちらに転んでも翔太に都合のいい状態ができあがるこの構図に、情けなくも今更気づいてしまったナマエに、もはや逃げ場はなく。今まで『大人』として接していた塗装が、ポロポロと剥がれ落ちていくような感覚に襲われる。
今のナマエには、もう翔太を子供としてみることはできなくなっていた。
「…ごめんナマエさん。やっぱりもう一回してもいい?」
「っへ、え!?あ、ちょ、ま、…っ」
こんな状態でもう一度されたら、今度こそキャパオーバーで死ぬ。直感的にそう感じたナマエは慌てて目の前の胸板を押し抵抗をする。けれどそれを予想していましたとばかりに、翔太は指の隙間を埋めるように、するりとナマエの手を、指を絡み取った。
体躯の割に意外と手が大きい、というなんとも場違いなことが頭によぎった直後。先ほどと全く同じ感触が、ナマエの唇を奪っていく。しかも今度は中々離れていかないという、なんとも恥ずかしいオプションまでついて。
身体からはすっかり力が抜けずるずると落ちていく。背中に感じる、座り慣れたソファの感触にまずいとは思いつつも、ひたすらに離れては触れる柔らかな熱に浮かされた頭では、そんなこともすぐにどこかへ飛んでいってしまった。
翔太くん。乱れる呼吸の中で名を呼ぶ。すると同じように、まだ少し高さの残る声が、ナマエさんと、小さく囁いた。
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