山下次郎は困っていた。
時刻は夕方六時過ぎ。辺りも暗くなり、山下家の周囲は住宅街とあって出歩く人もまばらになってくる時間帯だ。だからこそ不用意に女子を一人で歩かせることはしたくはないのだが、どうにもそれは叶いそうになかったからだ。
「…うちの場所、誰から聞いたの……」
「類さんです」
「ああ、そっか…」
脳内で呑気に満面の笑みを見せる同僚に、何をしてくれたんだと悪態をついても意味はなく。正座をし拳を握りしめ俯く姿に、無理やり家から追い出すのはどうにもはばかられた。
──ナマエが山下へとその想いを告げたのは、もう半年ほど前になる。いったいいつ、どこでそんな感情を抱いてしまったのかと、山下は自らの行動やナマエとの出来事を振り返ってみたものの、そんな要素はなに一つ思い当たらず。ただ、自らを見つめるその瞳は、子供の言っていることだと躱してしまえるほど、簡単なものにも見えなかった。
事務所からの帰路だった。近くに住むナマエと、駅に向かう山下が同じ道を歩いたのは、ほんの数分で。そのたった数分が、まさしく運命の分かれ道となったのだ。
それでもその運命になにも考えずに身を投げられるほど、山下は若くはなかった。苦し紛れに出てきた言葉は今思えば最低なもので。けれどなにも言わずにいるよりはマシなはずだと、言い訳じみた思いが浮かぶ言葉でもあった。
「冗談、でしょ」
──あの時のナマエの顔を、山下はうまく思い出せない。いや、正しくは、"思い出したくない"である。それは早々に目を逸らしてしまったことも理由の一つなのだが、なにより、その気まずさに耐えきれず最低な言葉を吐いてしまったからであった。
しかし、言ってしまえばこっぴどく振られたも同然であったナマエは、それ以来諦めるどころか、吹っ切れたように山下への好意を目に見えて表すようになった。
席が空いていれば隣へ。時間が合えば共に帰宅を。事あるごとに、過度ではないとはいえ接触を図る姿は、まさしく若さゆえのまっすぐさで。思わず目を細めてしまうほど美しさを感じさせるものだった。
だからこそ、お節介な隣人も気を利かせたのだろう。互いが思い合っていれば障害なんてないと、あっさり言ってのける舞田らしい行動でもあった。そのお気楽さには普段助けられることはたしかに多いが、今はそうも言っていられない。
うら若き乙女が男の部屋に二人きり。字面だけ見ればとんでもない状況だ。ネットでよく騒がれているような援助交際と違うのは、押せ押せなのは女の子の方、ということぐらいか。
「…あのさ、ナマエちゃん。もう遅いしそろそろ帰らないと…おじさん送っていくから」
「………」
山下の言葉にも答えず、テコでも動かないという固い意思を目に見えて発するナマエ、に内心ため息をつく。呆れなどではなく、どうしようというため息だった。
ここでなにか一言でも強く言えたのならば、状況は変わっていたのかもしれない。けれど山下にとって可愛い同僚でもあるナマエを怒るなどは、到底できなかった。こういうところが甘いのだと痛感する。
「………」
「…あー、ちょっと、類、呼んでくるね……」
せめて二人きりという状況だけでも打破しようと、苦し紛れにおそらく隣で聞き耳を立てているであろう友人の名を出す。それにすら反応を見せないナマエの様子を伺いつつ、なぜか足音を立てぬよう、おそるおそるといった風に立ち上がった。まさにその時だった。
「…山下さん」
「ん?うおっ!?」
ようやく聞こえた小さな声に振り向いたのとほぼ同時に、山下の背中へ強い衝撃が走る。うめき声をあげ何事だと咄嗟に閉じた目を開けば、目の前には驚くべき光景が広がっていた。
見慣れた天井。けれど今はそれがよく見えない。なぜかと言われれば答えは明快で。視界を遮るように、眉間にこれでもかとしわを寄せたナマエがいたからであった。──まずい、これはまずい。なにがまずいって、全てだ。
一気に冷や汗やらなんやら、大量の汗が流れ出す。打ち付けた背中の痛みが、まるで危険信号のように全身へ響き渡る。結構大きな音がしたから、もしかしたら類が様子を見にくるかもしれない。とりあえずうちが一階でよかった。などと見当違いな方向へ向かう思考回路遮るかのごとく、小さな手が山下の顔を包み込んだ。いや、もはや鷲掴んだと言ってもいいだろう。
目の前の少女がなにをしようとしているのか。即座に理解した山下は大慌てでナマエの肩を掴み、距離を取ろうと力を込める。けれどナマエも負けじと上体を倒そうと踏ん張る。
「ちょっ、ちょっと待って!」
「待ちません!」
「待ちなさいってナマエちゃ、っあーもう!」
しかし山下が本気を出してしまえば、当たり前だが力の差は明らかで。大声ままに思い切り力を込めれば、触れる寸前でようやく距離は離れていった。
山下は息を荒くしながらもなんとか顔を上げナマエを見るが、その視線は交わることはない。ある意味明確な拒絶にも似たことをされた彼女の表情は、俯いているため伺うことはできない。
胸のどこか奥の方が痛む。針で刺されるような妙な感覚に襲われながらも、山下は苦笑い混じりに呟く。
「…こんなことされたら、さすがにおじさん困っちゃうよ」
言い聞かせるような、諭すような口調は、いったい誰に向けたものだったのか。
目の前の子は、前職である教師時代の教え子と変わらぬ年齢の少女である。世間の辛いことも楽しいことも、これからもっともっと知っていくのだ。同年代の友人よりも、ほんの少し大人の世界にいるだけで。ほんの少し、大人に憧れる年頃なだけで。いっときの気の迷いなんかで、未来を棒にふるなんてことはして欲しくはない。
そんな想いがあったからこそ、山下はナマエの好意を受け入れずにいた。受け入れてしまえば最後、この少女が逃げる道は無くなってしまうと、分かっていたから。
「…困ればいい」
「へ…?」
「山下さんなんて、困って、困って困って困って、ずーっと困ってればいい!」
「ちょ、ちょっとナマエちゃん!?おじさん傷つくよ!?」
「困って、それで…、」
淡い桃色の唇が、堪えるように噛み締められた。ナマエが眉間にしわを寄せるところなどこれまで一度も見たことがなかった山下は、初めて見るその表情と弱々しい声色に、驚きで目を見開く。
「私のこと以外、考えられなくなればいいのに…」
その言葉が静かな部屋へ小さく響いたのと、ほとんど同時だった。まるで雨のごとくぼたぼたと互いの間へと落ちていく雫が、みるみるうちに水溜りを作っていった。
瞬間、脳内へ火花のようにフラッシュバックした光景に、山下は息を詰まらせた。──夕焼けの中、隣り合った影は遠く伸びていた。瞳の中に揺れるオレンジが不安の渦に呑まれそうになりながら、それでもどこか懸命にこちらを見つめていて。
その純粋さが、燃えるようなオレンジが眩しくて、尊くて、愛おしくて。現れた気持ちに蓋をするように目を逸らしてしまった。
──思い出せないなんて嘘で、本当は思い出さないようにしていた。無理やり封じ込めていたその記憶は、呼び起こしてしまえば最後。自身の在り方とも向き合うことになるから。
怖かったのだ。ただただ純粋でまっすぐな感情を、素直に受け止めるのが。
いい人がいるよ。きちんと考えて。理性的な大人のふりをして並べ立てた言葉は、本当は全て自分のためだった。
根っこに染み付いてしまった諦め癖は、いつの間にか純粋な少女を傷つけていて。それを、今にも消えてしまいそうな、よりにもよって本人の言葉で気付くとは。
年齢なんかじゃない。人として、大人として、男として、最低だ。
ずくんと重くなった心臓に急かされるように伸ばした腕は、俯くナマエの前で一瞬動きを止める。しかし意を決したように少女の背中へと回り、そのまま強く抱き締めた。
これには流石にナマエも驚いたらしく。大きな目をさらに見開き、しゃくりあげる声をぴたりと止め。戸惑う声で山下の名を呼んだ。
「や、ましたさん…?」
「ごめんね、ナマエちゃん」
言った後に、このタイミングで謝るのはまずかったと山下は早々に思う。現にナマエ、は謝罪を断りの意と取ってしまったらしく。再び泣き出しそうな声色が、細い喉を叩くのが聞こえた。
「あー、待って。えっと、今のはごめんは、そういう意味じゃなくて…」
「そういうって…」
「おじさん、歳のせいにして君から逃げてた」
慌てて訂正し未だ涙声のナマエの背中をさすれば、ぐっと強張っていた身体は落ち着いてきたのか、徐々に和らいでいった。
戸惑いがちに、おそるおそる。そんな様子で自身の服の裾を掴む小さな手が、視界の端に映る。
「…辛かったよね、ごめんね。ナマエちゃんはきちんと伝えてくれてたのに、向き合おうともしないで」
ひどく泣きそうな声になってしまったのは、気のせいではない。
人間という生き物は歳を重ねれば重ねるほど、自身の気持ちを言葉にするという行為が、なにか得体の知れないもののように恐ろしく感じるのだ。そしてそれは例に漏れず山下も同じで。特に元来自己評価の低い彼にとって、向き合うという行為は、なによりも恐ろしく、なによりも手の届かない尊いものでもあった。
だからこそ逃げてしまった。言い訳がましいことは理解しているが、ただまっすぐ前を見据え、汚れのない気持ちをぶつけてくるナマエの瞳を見ることが、どうしてもできなくて。
「ちが、違うんです、私が、私がかってに…ご、ごめんなさい、ごめんなさい…っ」
ナマエは再び堰を切ったように涙をこぼし、何度もごめんなさいと口にする。
「…どうしてナマエちゃんが謝るの」
「う、だって、ま、また困らせちゃって、うう…」
「ふ…なにそれ、困らせたいんじゃなかったの」
「………困らせたくない…」
ごめんなさい。でも、でも。子供のようにしゃくり上げながら、懸命に言葉を紡ぐ。
「でも、好きでいるのは、やめたくない…」
年甲斐もなく泣きたくなった。その言葉を聞いた瞬間、山下の身体はほとんど無意識のうちに動いていて。背中をさするだけだった手に力を込め、隙間をなくすようにその小さな身体を強く抱きしめる。
「困らないよ…困らないから。そんなこと言わせてごめんね……ナマエちゃんに好かれて困ることなんて、なにもないから」
「う、そ…うそぉ…」
「本当だよ……おじさん、もう逃げたりしないから」
言わせたくなかった。言わせてはいけない一言だった。気持ちを聞きれてもらえず、きちんとした返事ももらえず。かといってこっぴどく振られたわけでもなく。ただ気まずく避けられるだけという宙ぶらりんな状態を続けられ、それでも笑顔を作って。
避けられても、それでも好きだった。そんな相手に目を逸らされるのは、気持ちを疑われるのは、どれだけ苦しかったのだろう。どれだけ泣いたのだろう。小さく溢れた本音に、頭を思い切り殴られたような衝撃だった。
もう逃げてはいけない。諦めたら、もう二度とあの眩しい笑顔を見ることはできなくなる。
意識をした途端激しくなる鼓動を落ち着けるため、山下は小さく息を吐く。華奢な肩を掴み、抱きしめていた身体を解放すれば、その長い睫毛に露をいくつもつけたナマエと目が合う。その中は、未だ不安に揺れていた。
「山下さ、」
「俺もナマエちゃんが好きだよ。こんなおじさんだけど…恋人にしてくれる?」
みるみる大きくなる瞳から、一筋の涙が落ちた。まるで時が止まったかのような感覚。ほんの一瞬静まった部屋には、次の時にはナマエの震えた声が響いていた。
「や、っ山下さんじゃないとだめです…っ」
「…すごい殺し文句。ときめいちゃう」
「好き、好きです…っだいすきなんです…!」
「うん、ありがとう……俺も好きだよ」
未だ大粒の雫を流す少女を抱きしめ、前髪を退け現れた額に小さくキスをする。また年甲斐もないことをしてしまったかと一瞬思ったけれど、きらきら濡れる瞳を下げふにゃりと笑うナマエを見ていたら、そんな思考もどこかへ飛んで行ってしまった。
向き合うのが遅くなったこと。逃げてばかりいたこと。酷い言葉を吐いてしまったこと。傷付けてしまったこと。最後の最後まで、きっかけはナマエからになってしまったこと。全ての意を込めて再び謝罪をすれば、ナマエは一瞬考えるようなそぶりを見せたものの、すぐに「別にいいんです」と呟いた。
「ちゃんと好きって言ってくれたから、それだけで充分です」
「…そっか」
仕草、言葉、雰囲気。ナマエの全てが、至極幸せだと隠すことなく伝えてくるものだから。こんな顔は他には見せられないなと思うぐらいには、頬がゆるむのを抑えるられなかった。
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