失礼しました。小さく呟き扉を閉めれば、冬美は肩からふっと力が抜けるのを感じた。
 推薦の話がきているから、休み中に学校に来れないか。──担任からそう告げられたのは、春休みに入る数日前のことだった。こんなに早く推薦の話がくることはありがたかったが、まさかわざわざ呼び出されるとは思っておらず。しかも春休みという、新学年になるにあたり課題といったものがない、まさしく休む為だけの時に。
 とはいえ、元々の趣味が読書といった室内で済むものな冬美にとって、ある意味呼び出しは時間を潰すにはちょうど良いものだった。なんならついでに図書室に寄って本でも借りていくか、と思うぐらいには。
 人ひとりいない静かな廊下を歩く。きゅっきゅと上履きが床と擦れる音、グラウンドからは野球部の声。それと遠くの方で、吹奏楽部の演奏音が聞こえる。──のどかだ。思わず浮かんだ本音に、小さく息をつく。
 最近校内では常に誰かと一緒にいたため、一人きりになるのは久方ぶりな気がする。元々騒がしいのは好まない性格だったというのに、最近ではすっかり慣れてしまった。それどころかあの喧騒がいっときとはいえ無くなってしまうと、なんとも寂しいと思うほどだ。
 しかしそれをあっさり認めてしまうのはいささか引っかかるのか、冬美はうっかり出そうになった思いを慌てて飲み込み。代わりにため息として吐き出した。

「じゅーんくん。どうしたの、ため息なんてついて」
「ひっ…!」

 耳元で聞こえたと楽しげな声と同時に軽く叩かれた肩に、油断しきっていた身体は大げさなほど反応をしてしまった。情けない声が出てしまったと恥ずかしく思う間もなく、「あはは、驚いたー?」と気の抜けた声が続く。
 それにより、今背後にいる人物が誰なのか分かってしまった冬美は、驚いた様子で振り返る。

「ナマエさん、どうしてここに…」

 案の定、そこにいたのは同じ事務所のミョウジナマエで。ほんの少し涙目になりながら彼女を見れば、あれ?と不思議そうな顔をする。

「言ってなかったけ。今度出演することになったドラマの舞台で、冬美くんたちの学校使うことになったんだよ」
「ド、ドラマ?」
「そう。だから今はプロデューサーと下見中〜。あ、許可はちゃんと貰ってるよ?」

 首から下げた『来訪者』と書かれた札を見せるナマエに、当たり前ですよと今度は飲み込むことなくため息をつく。休みの期間とはいえ受付には人がいる。その上でここに入って来ているのならば、きちんと許可は取っているということだ。
 それにしても、あなたは忍者ですかと思わず言ってしまいそうになるほど、音も気配もなく近づいてきたナマエに驚きを隠せなかった。普段から謎の多い人ではあるが、今回の一件でさらに謎が深まったように思う。

「部活動してる人以外いないから、少しなら歩いても平気って言われたんだけど…旬くんはなにしてたの?お休みじゃなかった?」
「連絡事項があると呼び出されたんです。……ナマエさん、僕が何かやらかしたと思ったんでしょう」
「いえいえ、そんなことは」

 わざとらしく場を茶化す質問をするのは、どことなく若里に似ている。冬美は妙な既視感を覚えつつ、そういえば一緒に来たというプロデューサーの姿が見えないことに気がつく。

「ナマエさん、プロデューサーさんはどこ行かれたんですか?一緒に来たんですよね」
「ん?んー…校長?と話してくるって。旬くん達のことも少し話をするからー…とかなんとか」

 要は話している間は暇だろうから、ということなのだろう。素行が悪いわけではないのでなにかお小言を言われているわけではないにしても、校長の話となるとあまり気分の良いものではないのは確かだ。
 しかし人がほとんどいないとはいえ、アイドルを校内で一人にするとはなんたる了見だ。元々少し抜けたところのあるプロデューサーではあったが、今度ばかりはきちんと言わなければ。
 そんな思いを抱いている冬美をよそに、当の本人でもあるナマエは「学校広いねー」などと呑気なことを呟く。その様子に、また妙な既視感。話を聞かないところ。そうだ、いつもの光景と同じなのだ。
 騒がしさが復活したことが良いのか悪いのか微妙なところではあるが、一人の静けさよりはありがたい。それに、連ドラ出演とあって忙しくなりなかなか会えなくなるだろうと思っていたナマエと、偶然とはいえ会えたということには、内心とても嬉しく思う。
 しかし素直にそれを言おうものなら、おそらく当分恥ずかしさでナマエの顔を見られなくなるであろうことは容易に想像できるため、そっと心の中に留めておくことにした。

「あ、ねえ旬くん」
「…なんですか」
「学校、案内してほしいな」
「案内って…学校なんて、基本的にどこも変わりませんよ」
「んー、そうなの?」
「そうですよ。ましてここは私立でもないですし…ナマエさんの所もそうだったでしょう?」
「私、高校ちゃんと行ってなくて。だからあんまり学校って覚えてないんだよねえ」

 冬美自身、ナマエの生い立ちを知らないわけではなかった。それでもいざ本人の口からそう言われた瞬間の重さとは、筆舌に尽くしがたいものがある。しまった、とばかりに思わず口を固く結んでしまう。
 しかしナマエは気にする様子はまったく見せず。ぱっと笑顔になり「それにさ、」と続ける。

「せっかく旬くんといるから、いわゆる、青春?っていうものを、感じてみたくて」

 へへ、と笑う顔に切なさは見えない。その様子に、感じていた罪悪感がふっと消えたような感覚がした。
 絆されたわけではない。けれど自分といるからと、そう言われて嬉しいのは事実で。都合よく湧き上がる喜びを制するように静かに飲み込み、「…行きましょうか、見学」と、あくまで仕方なく、そんな口調でそう言った。
 途端にぱっと嬉しそうな顔になりちょこちょこと自身の後をついてくる姿はまるでヒヨコだと、若干胸を打たれつつ冬美は歩き出した。



「楽しかったあ。学校って普段触らないものもあるから、面白いね」

 普段授業を受けている教室や視聴覚室、音楽室、中庭や購買部、体育館、屋上に至るまで。二人はありとあらゆる場所を歩いた。本来なら行けないような場所にまで行けたのは、冬美の教師陣からの信頼があったおかげだろう。
 特に桜の舞う屋上という、普段でもなかなか入ることができない場所へ行けたのは、冬美としても有り難かった。自分たちのファンだからとこっそり鍵を開けてくれた用務員さんに感謝しつつ、最後はメンバーの溜まり場でもある軽音部の部室から外を眺めていた。

「…感じられましたか?青春とやらは」
「うん、すっごく」

 きらきらしていたのだと、ナマエは言った。経験していないことへの憧れも含まれるのだろうが、きっと、あの年齢であの感性を持って。そうした、子供にも大人にもなり切れない存在が集まったあの場所、あの時間でしか生み出せなかった尊いなにかが、青春と呼ばれるのだろう。そしてそれは時間が経てば経つほど、なによりも眩しいものへと変わっていくのだ。
 それを知っているか、経験したか否かは、気の持ちようにも大きく関わってくるだろうから。ナマエはそれらを、きらきら、と表現したのだろう。

「でも、たぶん…」
「…たぶん?」
「旬くんが一緒だったから、全部楽しかったんだろうね」

 それでも。たった一瞬のようなことだったにも関わらず、楽しかったと、恥ずかしげもなくさも当たり前のように言ってのけるものだから。色々と気にしていた自分が阿呆のようにさえ思えてくる。

「今度忍び込んで、一緒に授業受けちゃおうかな」
「…それは止めてください」
「ふふ、冗談だよ」

 窓から入る風がナマエの髪をさらさらと揺らす。明かりの点いていない部屋には夕陽が差し込み、壁を赤く染めている。冬美は眩しさに思わずきゅっと目を細める。
 視界の端で、ナマエが小さく、「ありがとうね」と呟いたのが見えた。

「…ナマエさん」
「ん?」

 柄にもないことを思ってしまった。勢いに身を任せるなどあってはならないことだと思うが、それでもこの関係を決定的なものにしたい。その気持ちに背中を強く押され、冬美は口を開く。

「もう一つだけ……青春、してみませんか?」

 冬美くん、と。戸惑うナマエの声が遠くに聞こえる。春の夕方はまだ肌寒く、頬を撫でる風はほんの少し冷たかった。
 いつだったか読んだ小説にあった、夕陽の差し込む教室で告白をする。そういえばその小説は後々映画化もされていた。本当は推理小説なのに、大衆向けに改編されたのか恋愛がメインとなってしまっていたのはいささか残念ではあったが、今はそれに感謝している。脳裏に浮かんだおかげで、大切な言葉が震えることはなかったから。
 向き合った大きな黒い瞳が、珍しく驚いた様子を見せていた。ぽかんと開いた唇がふるりと震えたかと思うと、細い首元から徐々に染まっていき、最後は耳まで真っ赤になる。
きっと自分の顔も同じようなことになっているのだろう。触れずとも熱さを感じる頬から、それは容易に想像できた。
 ふわり。再び吹いた風に乗ってやってきた桜が部屋の中に舞う。ひらひらと互いの間に落ちていくそれと同じ桜色が、少しだけ震えながら遠慮がちに開かれていく様を、冬美はただ祈るような気持ちで見つめていた。





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