笑顔、笑う、微笑む。同じ意味で少しニュアンスは違う。けれどどれをとってもそこには『嬉しさ』や『楽しさ』が含まれているはずなのに、彼女のそれはどれにも当てはまらない。
 いつだって見えるのは、まるで息をするように貼り付けられた、遠慮したものばかり。親しくなればなるほど、距離を詰めれば詰めるほど。その笑みの意味を変えるのは容易ではない、と。人を笑わせることが何よりの喜びである白膠木簓がそう思い知ったのは、ナマエと知り合ってすぐのことだった。

「ナマエちゃん」
「なんです、っ、」

 一切を飲み込むように結ばれた小さな口の両端。自身とは真逆の状態が常に保たれているそこへおもむろに手を伸ばし、きゅっと、軽く指先で持ち上げてみせる。
 テレビを見ていた横顔は突然のことにびくりと肩を跳ねさせ、困惑の滲む視線を隠すことなく簓へと向けた。

「しゃ、しゃしゃらさん…?」
「うわ、なんやのそれ。めっちゃ可愛え。もういっぺん言うて」
「や、は、はの…」
「歯?」

 ああ『あの、』か。無理やり振り払えばいいのにそれをしないのは、そうしてもいいのか迷っているのだろう。その証拠に目線はあちらこちらへと動いている。
 抵抗しないのならばと、簓はここぞとばかりに柔らかなそこを弄び始める。爪を立てぬよう数度突き、元に戻れと指の背で撫で、かと思えば餅のように軽く摘み上げ、再び撫で上げる。

「はー、柔くて癖になるわあ」
「……」

 むにむに。効果音が付きそうな感覚で何度も繰り返していると、いい加減のこの意味不明の状態に痺れを切らしたのか、小さな手がきゅっと、訴えるように重ねられた。
 よく見ると若干頬を赤くし涙目になっていて、なんだか弱いものをいじめているような気分になってきた。
 さすがに拗ねるかと、もう少し遊びたい気分はあったが潔く解放すれば、案の定警戒していますという目で距離を取られる。

「すまんすまん、そんな顔せんとって。離れられると寂しいわあ」
「ど、どうしたんですかいきなり…」
「ん?んー、何となく」
「は?な、何となく?」

 ますます訳がわからないといった顔。まあたしかに、いきなり自分の顔面で楽しげに遊ばれたら、誰だってそうなるだろう。
 笑ってほしい、なんて。そんな青臭いこと面と向かって言えるものでもないし、言うものでもない。そもそも求めているのは、意図せず溢れてしまったような自然な笑みなのだ。
 人を笑わせることが生き甲斐とはいえ、彼女に関しては、強制や作られたものでないそれが見たい。
 しかしいくら自身の性格や職業その他諸々を駆使しようと、彼女はいつもどこか遠慮した笑顔を見せるだけなのだ。それがなんとも、お笑い芸人という立場的にはとても歯がゆく思う。同時に、恋人としても。
 とりあえず突然の奇行は、そんな愛しさが故とか、そういうことにしておいてほしい。

「え…何か付いてたとかですか」
「いや、そんなことないで。いつも通り可愛えお顔や」
「そういうのは聞いてないです…」

 たしかめるように両手で自身の頬を触る様子はどこかで見たことがある。あ、分かったあれや、ハムスターや。
 子供の頃クラスで飼われていたペットの様子をぼんやりと思い出していると、不意に伸びてきた細い指が、同じように結ばれた簓の口端を持ち上げた。
 驚いて目を開けば、曇りのない瞳でこちらを見上げ、先ほどまでの自身と同じようにそこ を弄ぶナマエの姿があって。

「ちょ、ナマエちゃん、どないしたん…?」
「…何となく?」

 普段から上がっていることは多いといっても、人に上げられた経験は流石にない。戸惑いを隠せず問いかる簓にナマエは少し迷ったような素振りを見せた後、こてんと首を傾げながら、眉を下げ、ふっと小さくわらった。
 あ、ちょい待ちこれって。
 それに気づいた時、簓はほとんど衝動のままにナマエの身体を強く抱きしめていた。先ほどまでの加減などすっかり忘れてしまったかのように、力一杯に。

「うわっ!さ、簓さん!?」
「何なんほんま!そんな可愛いことせんといて!」
「え、可愛いって…さっき簓さんがやったことじゃないですか……」
「物事ってのはやる人で意味が大きく変わるんやで…」

 まさかこのタイミングでそんな笑顔が見れるとは思っておらず。しかも、自身が望んでいた通りの、思わず溢れてしまったような柔らかなものが。
 たまらずさらに抱きしめる腕に力を込めれば、流石に苦しいというように軽く背中を叩かれる。これは本当に離して欲しいの合図だ。
 けれど今度は、あっさり離してしまうにはどうにも惜しい。やんわりと力を抜きつつも腰に腕を回し相変わらず密着していれば、諦めたように小さな身体が胸元へと寄り掛かかる。

「ほんま、ナマエちゃんには敵わんわ」
「何がどう敵う敵わないに至ったのかは分かりませんけど…」

 まあもういいです。そう言わんばかりの呆れたような、それでいて少しだけ照れを滲ませたような顔ですっかり身を委ねるナマエを、閉じ込めるように再び力を込めた。



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