トントントン、指先で三回。音のした方向へちらりと目線を向ければ、赤い瞳と目があう。そのまま見つめていれば、答えろとでも言いたげに再び三度音が鳴る。トントン、今度は二回、自らの指で鳴らす。その音を聞いた瞬間、彼の口角が上がったのが分かった。



「遅かったな」
「すみません、少し報告書に手間取っていて…」

 ゆっくり扉を閉めいつもの様に後ろ手で鍵を掛ける。執務時間外とはいえ、いつ誰が来るか分からないから念のために、だ。こちらへ来いと手招きをされて、窓際に置かれた椅子に腰掛ける肋角さんの元へ近付く。腕を伸ばして触れられる距離まで来た瞬間、強く腰を引かれ一気に距離がぜろになった。座った状態の肋角さんと向き合うと、ほんの少しだけ私の方が目線が高くなる。普段は中々無いこの状態が好きなのだけれど、こうなるのは所謂そういう雰囲気の時が多いから、少し照れくさくもある。

「制服で来たのか」
「時間が勿体無いと思って…着替えてきた方がよかったですか?」
「いや、大歓迎だ」

 大歓迎、なんて。制服でする方がいいという事だろうか。趣味が出ていると思う。でも、そうなると分かってて敢えて肋角さんの好きなプリーツスカートを履いて部屋に来る辺り、私も心のどこかでこうなる事を期待していたという事だから、人のことは言えない。
 するすると腰を撫でる指先の感触で、昼間の合図を思い出す。指先で三回は、今夜部屋に来い。了承の場合は二回、断る場合は何もしない。それが、私と肋角さんで決めた合図。館の殆どの人が私と肋角さんの関係を知っているとはいえ、さすがに人前で言うのは憚られるといった理由からだ。その気でない時は断れ、なんて肋角さんは言ったけれど、私には肋角さんからの誘いを断るなんて選択肢、元々持ち合わせていない。それを分かった上でそんな選択肢を出してくるんだから、肋角さんも意地が悪い。

「っ、あ…」

 不意に、ちゅう、と彼からは想像も出来ない可愛らしい音を立てて、首筋に唇が触れた。思わず逃げる様に腰が動くけれど、許さないとでも言いたげに腰に回された手に力が込められる。慣れた手つきで制服のボタンが外されていき、ワイシャツの中に入り込んだ手が下着の上から胸に触れると、一気に頬に熱が集まるのが分かった。

「っあ、ろ、かく、さ、」
「力を抜け」
「は、んん…っ」

 以前、喉を晒し震える姿がまるで小動物の様だと言われた事があった。それならそこへ顔を寄せる肋角さんは大型の捕食者だろうか。それもある意味正解かもしれない。もっとも私の場合は、恐怖とは違った意味合いで震えているのだけれど。肩を掴む手に力が込もる。名前を呼ばれ視線を向ければ、私と同じ赤と目が合う。荒くなった呼吸ごと飲み込む様に、唇同士が触れた。



「ナマエ、起き上がれるか」
「あ、はい…」

 額へ触れた唇がそう問いかけてきたから、掠れる喉から声を絞り出し返事をする。言われた通り身体を起こせば、褒める様に頭を撫でられた。夜を共にするくせに、子供扱いする感覚はやっぱりどこかに残っているらしい。けれど私もそれを嫌だとは思っていないから、なんだか笑ってしまう。

「少し待っていろ」
「え、あ…」

 そう言うと肋角さんは返事を待たずに隣の部屋へ消えてしまう。何だろうと待っていると、手に大きな箱を抱えて帰ってきた。

「なんですか?それ」
「お前へのプレゼントだ」
「プレゼント…?」

 開けてみろと目の前に置かれた薄型の長方形の箱は、何やら高価そうな手触りをしている。おそらく桐の箱だ。思わず身構えてしまう。おそるおそる蓋を開ければ、これまた上等な紙に包まれていて。一枚一枚丁寧にめくっていくと、それはついに姿を現した。

「着物…」
「お前は普段洋服だからな。たまにはいいだろう」

 動きやすいという理由から私は普段洋服を着ている。着物も好きなのだけれど、やはり簡単に着れるという面には敵わない。それでも最近は、館がある地区の時代がちょうどその頃という事もあって、一着ぐらい着物があってもいいのかなと考えていたところだったのだ。

「ありがとうございます…私の為に、こんな綺麗なもの」
「そう言うな。俺がお前に似合うと思ったから選んだんだ」
「…はい」

 肋角さんはそう言うけれど、それでもやっぱり勿体無くて。着るのに躊躇してしまう未来が何となく見える。現に箱から出すのすら惜しく感じている。そんな私を見て肋角さんは小さく笑うと、それを箱から出して広げそのまま私の肩に掛けてきた。素肌に触れる滑らかさが心地良い。シーツに広がる赤と灰を指でなぞる。コントラストの差はあるものの、それ以外の色が一切ないその着物は、まるで今の私そのものを表している様で。

「赤と、灰…」
「ああ。俺とお前の色だ」

 言いながら、肋角さんは私の頬に手を添えてきた。指先が右目尻の辺りに優しく触れる。あの頃は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。私の為なんかにその綺麗な、大切な目を抉ってしまうだなんて。後々再生すると聞かされていても、その気持ちはどうしても拭えなかった。けれど今は、この身の一部が肋角さんのものによって動いている。そう考えただけでも気分が高まり全身が甘い痺れに支配される。生前何があったのかは覚えていないけれど、今は右目が無くなっていて良かったとさえ思う。そのおかげで、肋角さんの色が私という生物を形成する欠片となってくれたのだから。

「…明日、それを着て出掛けるか」
「え、あ、明日って…肋角さん、お仕事は…」
「今日全て終わらせてきた。明日は一日休みだ」
「お休み…」
「たしかお前も一日空いてたな。どうする?」

 もしかして、今日執務室に籠りっきりだったのはそういう理由からだったのか。夕方に肋角さんが食堂にいるなんて珍しいなと思ったけれど、それなら頷ける。お昼の時間が取れなかったからあの時間にご飯を食べたのだろう。そこに丁度おやつを食べようと私が訪れた、と。肋角さんと一緒のお休みなんて滅多にないから嬉しいけれど、何がしたいかと聞かれると困る。普段多忙な人だから、傍にいられればいいなんて。それしか思い付かないからだ。

「それとも、部屋で過ごすか」
「え、」
「その方がいいという顔をしているからな」

 そんな分かりやすかったですか、なんて言葉は飲み込んで。たしかに、部屋なら人目を気にする事もない。肋角さんは色々な意味で目立つから、尚の事。でも折角私に似合うと買ってくれたのだ。肋角さんの横を、着て歩きたい。

「ああ、でも…」

 色々な考えが頭の中を巡っていると、ふいに肋角さんが口を開いた。何ですか、と聞く間もなく、体を引かれ半ば強引に口付けられる。驚いて閉じる事を忘れた唇の隙間から入り込んだ舌と共に煙管の香りが一気に広がり、頭がくらくらし始める。一度離れたと思ったら、再び触れ合い、口の端から溢れる唾液も気にせずただひたすら互いの熱を絡め合う。

「ん、んあっ…」
「…もしそうなったら、今日はこれで終わりには出来ないな」
「あっ…!」

 優しく、けれど隠しきれないやらしさを含んだ手付きで、まだ濡れているであろうそこを撫でられた。卑屈な音を立ててゆっくりと動かされる指に思考が持って行かれそうになるけれど、必死でその手を掴み制止をかける。

「まっ、ろ、かくさ、」
「…ん?」
「きもの、汚れちゃ、っ」
「ああ…そうだったな」

 忘れていた、と勢いよく脱がされ乱雑に落とされるそれを横目で追う。床に散らばる様は、椿の花を彷彿とさせた。落ちてなお褪せないその赤は、からっぽの私を染め上げていく。
 いつか、目に見えるものも私の中身も、それこそ感覚全てでさえ、肋角さんの色に変わるのだろう。違和感も感じず、最初からそうであったかの様に。肋角さんがいないと生きてすらいけなくなる事を、恐ろしいだなんて微塵も思わない。優しく触れるその温度が私の全てになる事を、他でもない私自身が望んでいるのだから。



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