俺を見つめるその目が灰色だけではない事に苛立ちを覚えた事は何度もあった。けれどその赤が無かったらナマエは今ここにはいないという事になる。しかもそれを与えたのが尊敬する上司だと考えると、複雑だ。


「田噛?」

 名前を呼ばれ意識が戻る。先程まで本棚の前にいたはずのナマエが、いつの間にか隣に腰掛けていた。思わず持っていた物を隠すように握りしめると、目敏いナマエはすぐに問い詰めてきた。

「何持ってるの?」
「…何でもねえよ」
「何それ、よけい気になる」

 握り締めた小さな小瓶を手の中で転がす。だいたい、こんなものを渡すなんて柄じゃない事は十分理解している。だからこそ素直にこれを渡すのを躊躇してるんだ。それでもこれを付けているこいつを想像したら、妙に心が躍った。我ながら単純になったもんだ。

「…ナマエ」
「何?」
「ちょっと目瞑れ」
「は?何で?」
「いいから早くしろ」

 何なんだといった顔で渋々目を瞑るナマエ。警戒心無さ過ぎだろと心配になるが、今はそれが有難かった。無防備にも薄く開けられた唇に噛み付きたい衝動をぐっと耐え、小瓶の蓋を開ける。その音に反応したナマエの肩が少し揺れたが、気にせず指先に付けた赤をその柔らかな唇へと移す。艶めかしく彩られた唇から舌がちらりと見えた。

「た、田噛、もう目開けていい…?」
「ああ」
「なに、なんか塗った?」
「…やる」
「え、」

 おそらく何をされたかは薄々気づいているのだろうが、確証が持てないからか未だに不安げな顔をしているナマエの手に、小瓶を乗せる。ぽかんとした顔で数秒それを見つめたと思ったら、徐々に口角が上がっていくのが分かった。言うなれば、にやにやした顔。

「…………」
「何だよその顔」
「や、田噛がこういうのくれるとは思ってなくて…」

 嬉しい。ぽつりと呟かれたその言葉にやっぱり買ってよかったと安堵する。それこそ最初は小瓶に入っている紅なんて珍しいなと思っただけだったが、それを付けているナマエを想像したらいつの間にか手に取っていた。あの時の感覚は間違っていなかったらしい。けれど、喜ぶ姿を見られて嬉しいと思う反面、もやもやした感情が渦を巻き始める。嬉しそうに細められた瞳の色は二色。その鮮やかな赤のせいで、綺麗な灰色と唇が霞んでしまっているような気がする。
その赤はいらない。せめて今だけは。
 こちらを見上げたその目の上に指を添え、一気に力を込める。嫌な音と共に落ちた赤はころりと足元に転がった。先程とは一転して、苦しげな声が響く。

「なっにすんの、」

 きっと激しい痛みが走っているだろうそこを抑えながら訳が分からないといった顔でこちらを見るナマエに、えも言われぬ幸福感が全身を支配する。今こいつに、あの赤は無いのだ。存在するのは、俺が与えた赤だけ。こんな事したって意味がない事は十分理解している。あと数日もすればこいつの右目にはまた同じ赤が出来上がる。それでも今だけは、ナマエの体にある赤を、俺が与えたそれだけにしたかった。流れる血とは別の鮮やかさ。ああ凄く、真っ赤で美味そうだ。

「たが、み、っ」

 その鮮やかな唇で名を呟かれるだけで心臓が破裂しそうに脈打つなんて。赤は女を魅力的に見せるとかなんとか言うのは強ち間違いでも無い。しかもそれが自分の与えたものなら、尚更。
 重ね合わせた唇の柔らかさを感じながら、頭の片隅でそう思った。



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