「は?雪?」
「そう、雪」
「今日快晴だけど」
ナマエの言葉に怪訝そうな顔で空をちらりと見上げた加州は、すぐに目線を目の前へと戻した。思わず大口を開けてしまいそうになる欠伸をなんとか可愛らしく噛み殺そうとする様子に、ナマエはむっと口を尖らせる。
「違う、そうじゃなくて」
「分かってるって、ごめんごめん。で?その夢の中とやらは、そんな印象に残るぐらいの雪景色だったわけ」
最近妙な夢を見る。そうナマエに告げられた加州が彼女の話を聞いたところ、どうもこういうことらしい。
──思わず目を細めてしまうほど輝く銀世界の中、本体である刀も持たずぽつねんとそこにいる。そんな景色を、誰の足跡も付けられていない絨毯を踏み締めながらただひたすらに歩いて行くのだという。
「歩くだけなんて随分と疲れる夢だね」
「そうね…でも不思議と心地良いというか…」
そしてそんな世界だというのに、何故か全く寒さを感じず。むしろやんわりと、まるで羽にでも包まれているかのような感覚さえ生まれるのだ。
目の前の光景と合致しない感覚を不愉快に感じないのというナマエの言葉に、加州は一抹の違和感を覚える。けれどそんな彼の様子に気付くことなく、ナマエは思い出せる限りの光景を告げてゆく。
「そのまま歩いて行くと、大きな鳥居と…ああそう、椿が…」
「椿?」
「うん。いい香りのする椿が咲いてるの。周りが真っ白だから、それが凄く赤く見えるんだよね」
ひたすらに歩いた白の中。遠目でも何故存在に気付けなかったのかと思うぐらい大きな鳥居と、その周囲を囲むように、血のごとく赤い寒椿が現われるのだ。
現世に人の身を得てからというもの、そんな光景には一切出会ったことがなく。それこそ”これは夢だ”と、認識できるほど現実離れした光景だった。
「…ナマエ、それ見てあんた、どう思った?」
「ん?どうって…綺麗だったと思う、けど……」
段々と尻すぼみになっていく言葉は、それまでとは異なる加州の雰囲気に気が付いたからだった。少し考えた後、加州は戸惑いつつ辿り着いた可能性に口を開く。
「それさ、たぶん…というか確実に、"神域"だよ」
考えていたそれを言霊にした瞬間、僅かだった違和感は、確かなものとなってしこりを生んだ。
神域とは、その名の通り神のみが入ることを許された領域。そこは現実とは大きくかけ離れた場所で、いわば作り出したその神が全てたる、絶対的な空間なのだ。
「誰かが、あんたを連れて行こうとしてる」
「…まさかそんなこと、」
あるわけないよ。そう続けようとして、ナマエは言葉を飲み込む。
人々の語りや言霊から生まれた存在ゆえ神格の低いナマエは、神としての純粋な力が周囲の刀剣男士よりも幾許か弱い。故に彼女は神域を持つほどの力は持ち合わせておらず。だからこそその光景を見た時、そこが神域だということに気付けなかったのだ。
そんな存在を、自身の領域に囲もうとしている者がいる。加州の言葉で、ナマエはようやく事の重大さを知った。
「気を付けなよ。いくら神といえど、お前は少し周りより力が弱いんだから。神格の高い奴に連れて行かれたらそれこそ逃げられなくなるよ」
「…肝に命じておくわ」
目を細めてしまうほどの銀世界。血のごとく赤い椿。羽に包まれているかのような、やわくあたたかな心地良さ。
──越後の冬は酷く寒く、しかし目を見張るほど美しい銀世界が広がっているのだと、いつだったか話していた。
一体誰が私を、なんて。愚問だろうか。
白く染まる息を空気に溶かしながら歩みを進める。そうしてただひたすらに進んで行くと、ああやはり。目の前に現れたのは、何度も見たあの鳥居と椿だった。
大きく聳え立つ鳥居は、その先の空間が一切見えない。同じ銀世界が広がっているから境なども分からず見えないだけなのではと言われると、そうではなく。まだナマエには、"その向こう"へ踏み入れる権利と"心"がないのだ。
だからこそ鳥居へと辿り着いたその時に、いつもは目が覚めてしまっていたのだろう。
しかし今日は、今日だけは違った。
誰かいる。この世界で自身以外の生き物を認識できたのは初めてで、けれどその輪郭は酷く曖昧だった。
おそらく人の形をしているという認識ができる程度の存在の元へと、ナマエは妙な確信を持って進んで行く。
──あの姿は、きっと、絶対に
おいで、ナマエ。どんどんと近付く距離に比例して大きくなっていく声は、耳に馴染んだ心地良い低音で。ナマエの身体を酷く高揚させた。
「──う、さん」
答えようと吐き出した声は、ゆるりと伸びてきた手に遮られる。そのまま輪郭をなぞり優しく頬に添えられると、少しだけかさついた親指が、薄く開く唇へと触れた。
まだ夜も明けたばかりだというのに第一部隊はもうすぐ出陣らしく、玄関先が少しだけ騒がしかった。寝巻きのままはしたないとは知りつつも、自室のある離れから玄関へと続く長い廊下をばたばたと駆けていく。
それまで見ていた景色とは打って変わって本丸は今日も快晴らしく、裾が捲れる度足元を撫でる風がひどく心地よかった。
「わっ!」
「おっと」
角を曲がった瞬間、同じ様に曲がってきた誰かに勢いよくぶつかってしまう。しまったと思ったのも束の間、頭上から降ってきた声にそれがまさしく目当ての本刃だと気が付いた。
「さ、っ山鳥毛さん…!すいませんぶつかって…!」
「私は大丈夫だ。それより雛鳥、そんなに慌ててどうした?」
「や、玄関に急がなきゃって…あれ?山鳥毛さん、どうしてここに…」
山鳥毛は今日第一部隊として出陣する。だからこそナマエはこんなに慌ただしく玄関へと向かっていた訳だが、どうやら彼自身もナマエを探していたらしく。彼女の姿を見るとどこか安心したような声色で笑う。
「いやなに、出陣前に雛鳥の顔を見ようと思っていたんだが…慌てていたところを見ると、君も私を見送りに来てくれたと思ってもいいのかな?」
「そっ、それは、そうなんですけど…」
まさしくそうだったとはいえ、いざ指摘されると気恥ずかしい。少し恥ずかしがり屋だ何だと言いつつ、こういったことは真っすぐに言ってくるのだから何とも調子が狂ってしまう。
気恥ずかしく目線を逸らすナマエの頭を優しく撫でる手は、そのまま輪郭をなぞり頬へと添えられる。少しだけかさついた親指が、薄く開く唇へと触れた。
「…山鳥毛さん」
「ん?」
声が、瞳が、体温が。酷く甘さを含んだ全てが、ナマエを包み込む。──ああやはり。この刀の隣は、とても心地良い。
「私、桜の花も好きなので…桜も沢山咲いてたら、嬉しいなあ、って…」
ナマエの言葉に山鳥毛はきょとんと目を見開くと、ややあって「ははっ」と笑い出す。
「そうだな、君は桜がよく似合うからな」
まるで春告鳥が求愛をするかの如く優しい声色は、楽しくて仕方がないと言っているようで。
「きっと向こう側は桜も咲くさ。ただ今は…雪化粧の中の椿も悪くはないから、一緒に歩いてみないか?」
手を取って向かったあの鳥居の向こうは、彼の言う通り桜の花が咲き誇っているのだろう。
戦いの場に身を置いている今は、まだそちらへ行くことは出来ない。けれどいつか、全てが終わった、その時は───。そんなナマエの思いを理解しているからこそ、山鳥毛は椿を見ようと告げたのだ。
答えるように、頬を滑る手を柔く握り返す。ふわりと吹いた風から、椿の香りを感じた。
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