「僕に行かせてほしいんだ」
あの時、彼はいったいどんな面持ちで。あの黄金の瞳に、どんな決意を滲ませていたのだろう。
隠すのが上手いその声色からは、なにも読み取ることができなかった。
真夏の本丸では、畑仕事を終えた者にはご褒美として冷やし飴が振る舞われる。暑さにやられ辛いばかりの仕事にならないようにと、厨当番の数振りが作り置きをしてくれているのだ。
流れる汗を簡単に拭い縁側に腰掛けると、蓋を開け一気に喉の奥へと流し込む。口内を満たす軽い甘さとピリリとした刺激は、先日の出来事もほんの少しだけ忘れさせてくれる気がした。
「ナマエちゃん、内番お疲れ様。暑かったでしょ」
傾く陽を遮るように現れた光忠は、隣に腰掛けると持っていた団扇でゆっくりとナマエを扇ぎだす。髪が乱れないようにと気を使っているのだろうか。暑さを和らげるよりも疲れを取るような柔らかな風だった。
「光忠さん、今日は厨当番だったんじゃ…」
頬を撫でる風は心地良いのに、胸中に渦巻くものは穏やかではない。悟られぬようにと視線を逸らしながらそう問いかければ、扇いでいた手はゆっくりと止まり、少しの沈黙の後、纏められたナマエの髪をすくう。
「うん。そうだったんだけど…山姥切くんに、君の所に行ってくれって言われて。歌仙くんにお願いして少しだけ抜けて来たんだ」
ああこれは、気付かれている。すぐにそう分かってしまった。
──太刀の面々も修行に出る準備ができたと政府からお達しが来た際、真っ先に名乗り出たのは、普段から一歩引いて誰かに譲ることばかりしていた燭台切だった。
本丸に二番目に顕現した太刀として早くに練度が上限となり戦場から遠退いていた彼の言葉に反対する者はおらず、審神者も刀として彼が望むならと快諾したのだ。
一度は失われてしまった燭台切光忠という刀の道を、ほかでもない彼が自ら切り開いていく。そのことに対して、ナマエとて他の刀剣たちと同じ気持であった。
「まんばちゃんが、どうして…」
「彼も気付いて、気にしてたみたいだから」
けれど、それでも。長い年月を共に過ごし、”他を愛する”ということを他でもない彼に教えてもらったナマエにとって、ただ純粋にその背中を見送ることが、どうしてもできなかった。
結局、身勝手にも気まずさを感じてしまい出発を明日に控えた今日までその話をすることもできずにいたところを、まさかの燭台切自身から声を掛けられ、あまつさえその話を避けていたのさえ見透かされることとなってしまったのだ。
後ろめたさを感じていた感情なだけに、知られたことで生まれた動揺を誤魔化すように静かに彼の名前を呼ぶけれど、そんなナマエの心中も察しているのだろう。「ナマエちゃん、前髪が汗で張り付いちゃってるね」なんてわざとらしい言葉と共に彼女の額に触れる光忠の手は、手袋越しでも妙に冷えているのが分かった。
「…光忠さん」
乾いた喉からようやく絞り出した声に、名前を呼ばれた目の前の男は顔色を変えることなく「うん?」と、あの優しげな眼を細める。
「皆行ったものだし、私だって、きっといつか行くことになる」
「うん」
「なにより、光忠さんが強くなるためのものなんですから、行かないでとは、思っていないんです」
「…うん」
「…そもそも、まだ出発してもいない、のに、」
「……」
「私…すごく寂しいんです……」
この気まずさや申し訳ない気持ちを端的に言うとすれば、それは"我が儘"だった。
行ってほしくないわけではない、けれど行ってしまうのは寂しい。行かないでとは言えないなら、確実に訪れるその日をせめて少しでも気にしないように過ごせばいいのか。
矛盾するそれらの感情を何とか押し殺そうとしていたナマエを目ざとく見つけたのが、最も長い時を過ごしていた山姥切で。彼なりにナマエを心配しての行動だったのだろう。それを燭台切本刃に言うのは、流石に予想外だったが。
「…ごめんなさい、私、自分のことばかり」
「…そんなことない。嬉しいよ」
やはり言うべきはなかったと瞬時に浮かんできた後悔の念に謝罪を述べるが、予想外の言葉がそれを遮る。
驚いて逸らしていた視線をようやく光忠へと向ければ、呆れが含まれているだろうと思っていた表情はまったく真逆の、とても柔らかなものだった。
「君はいつも自分の考えを押し殺して、僕に何も言ってくれないから」
その声色がどこか悲し気だったことに気づけないほど、ナマエは鈍感ではない。
今度こそしっかり交わった視線は真っ直ぐにナマエを射抜く。
「だからね、ナマエちゃんの本音を聞けて…今どうしようもなく嬉しいんだ」
僕の方こそ、自分のことばかりだ。照れ臭そうに呟く光忠の姿に、それまで抱えていた悩みが風に吹かれたかの如くどこかへ消えていくのが分かった。
思わず髪を撫でていた手を跳ね除け目の前の身体に飛び込む。突然のナマエの行動に驚きつつもしっかりと抱き留めた光忠は、安心したように彼女の背中を撫でた。
「君だけに宛てた手紙を書くから、待っててくれるかい」
「…毎日、何度も郵便受けを覗きに行きます」
「あはは、じゃあ…とびきり元気になるように、たくさん書かないとね」
後日、言葉通り審神者へ届く手紙とは別に、長さ分厚さ共に周囲が若干引くレベルで桁違いの手紙が届くようになるのだが、今のナマエはまだ知る由もなかった。
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