この本丸では、天気や気温が現世──つまりは審神者が本来いた世界と、同じになるよう設定されている。それはどうしても閉鎖的になってしまう本丸での生活を少しでも楽しいものにできればという、審神者なりの意向であった。
故に梅雨というものも、もちろん存在しており。紫陽花を濡らす雨も雅だが生活するうえでは厄介だなと、人の身を得たが故の苦労を歌仙と苦笑いをするのは毎年恒例となっていた。
そんな、太陽がなかなか顔を見せない空が続いていたある日のこと。二振りの願いが届いたのか、陽の光がようやくこちらを覗き込んだ。最近本丸へ導入したばかりの観測系で確認したところ、今日はそのまま夜まで晴れるのだそう。
これ幸いとばかりに本日の洗濯係であるナマエは、共に当番である堀川、愛染、松井らと協力し早起きを渋る連中から寝具を巻き上げ、大急ぎで全員分を洗濯機へ放り込んだのだ。
そして、本丸内で一番陽の当たる中庭にその全てを干し終えた頃。ナマエは非番の者が全員集まるおやつの時間まで、つかの間の休息を過ごすため自室へ続く廊下を歩いていた。
その道中。本来ならばここにいるはずのない刃物が、縁側でご機嫌そうに空を眺めているのを見つけた。
「…御前」
「おお、嬢ちゃん」
声をかければ、なんとも間延びした声が返ってくる。まるで呼びかけられるのが分かっていたとでも言いたげな雰囲気に少し違和感を感じつつも、今はそれよりも気になることがあった。
「たしか今日は畑当番じゃありませんでした?」
「ん?うん」
「…もう終わったんですか?」
「うははは。まあ小さなことは気にするな。ほら、ここへおいで」
これは終わっていないなと察しつつも、言ったところで素直に動くとも思えず。共に畑当番となっているであろう不憫な相手は誰だったか、今朝の掲示板を思い出しつつ言われたとおりに隣へ腰かける。
「早く戻らないと、今日の分収穫できなくなりますよ」
「大丈夫大丈夫」
「いや大丈夫ではないですけど」
「なに、そのうち坊主が探しに来るさ」
「御前…」
「おっと、それ」
坊主と呼ばれているということは、南泉か加州あたりだろうか。目星をつけられそうな相手に同情していると、扇子の先がぴしりとナマエを刺す。眼前に向けられたそれに一瞬たじろぎながらも「それ、とは…?」と問いかける。
「うちの者たちならともかく、嬢ちゃんから御前と呼ばれるのは…少し違う気もするな」
一応同じ主のもとへ集った身内のようなものとはいえ、元はまったく生まれの違う刀同士。ましてやお前は一文字一派でもないのだから、御前と呼ばれる筋合いはないと、そういうことだろうか。やはり元一派の長。そういった礼儀には厳しいらしい。
普段加州と接する姿からは良い意味でそうしたことは気にしない性質だと思っていただけに、予想外のその内容にナマエは驚きを隠せなかった。
「…南泉がそう言っているに釣られてしまって。お気に障るのだったら、すみません」
しかし言われてみれば、少し馴れ馴れし過ぎたのかもしれない。設立初期から顕現していたこと、また慣れるまでの間は新刃の様子を見るのはナマエというなんとなくの決まりから距離が近くなることはあったが、どうやらそれが則宗にはお気に召さなかったらしい。
刀といえど性格は様々。なれば距離感の好みもあるわけで。考えてみれば当たり前なことでも、出迎えた数が九十振りを超えてしまうと考えがなおざりになってしまっていたようだ。指摘されたことを真摯に受け止め謝罪を述べる。
「ふむ、別に責めているわけじゃあないんだけどな」
「はあ…そうなんですか」
「…お前さん、思ったより厄介な性格をしているな?」
「それ、よく言われますね」
広げた扇子で自らの口元を隠しながら「そうかそうか…」と確認するように呟くと、何か思いついたのだろう。扇子を勢いよく畳むと、一人分ほど空いていた距離を、肩同士が触れ合うほど一気に詰めてきた。唐突なその行動にナマエは再びたじろぐこととなる。
「じゃあ、もっと単刀直入に言おうか」
「な、なにをですか」
「嬢ちゃんにはぜひ、"則宗"と呼んでほしくてな」
「うん…?え、ちょっ…!」
扇子の先が、ナマエの顎をくいっと持ち上げる。ふわふわと揺れる髪の隙間から普段は隠れている左目がこちらを覗いていて。薄水色の中にもきらきらと光る色がまるで虹のようだと、ナマエは頭の片隅で思った。
いや、もしかしたらそんな物理的なきらきらではないのかもしれない。あれは、そう。楽しんでいる時のきらきら…もとい、らんらんだ。
「ち、近い近いっ!」
「うはは、なんだ照れてるのか?」
「だ、誰だってこんな近かったら照れるでしょ…!」
「何を言ってるんだ。加州の坊主ともいつも同じような距離感じゃないか」
「あ、あれは清光だから平気なのであって…っ、そもそも!清光はそういうのじゃな…」
そこまで言ったところで、ナマエは今、自身がとんでもない発言をしたことに気がついた。思わず抵抗していた手を止め、伺うように則宗へと視線を向ける。
「ほう、坊主はそういうのじゃないから照れないのか。じゃあ今僕に照れているのは…どういう事なんだろうなあ?」
そこには案の定。薄水色をとろりと下げ、反対に口角をゆるりと上げた、しごく嬉しそうな顔がこちらを見ていた。
──仲の良い加州とは、いくら近距離に居ようと照れることはない。けれど則宗と近くては照れる、というのは、みなまで言わずとも分かっている。それはつまり"あなたを意識しています"と、全身で表しているようなものだ。
いつのまにか腰に添えられていた手が、さらに二振りの距離を詰める。柔らかな髪に頬を撫でられ、ナマエはじわじわと顔に熱が集まっていくのを感じた。
「どっ、ういう事でもない、ですから。と、とにかく離れてくださ、ぃわあっ!?」
とにかく距離を取ろうと胸を押し返すも、その手もあっさり絡め取られ。視界が傾いたと思ったら、次の瞬間ナマエの視界には、見慣れぬ廊下の天井と菊の花のような金髪が広がっていた。
「わー!?何してんですかあんた!」
同刀種であるとはいえ、男と女という身体の力量さというのはどうしても生まれてしまう。特に太刀の中でも機動に特化したナマエは、代わりに打撃力が他よりも低いのだ。
それに加え動揺していたところに不意打ちで押し倒され、体重を掛けながら床へ縫い付けられてしまえば、もはや逃げることは叶わないわけで。
「うはは。まるで懐かない猫みたいだなあ」
「猫はお宅にいるでしょう!というかほんとに退いて、っ」
「ちょっと則宗ー!どこにいんの則む…じじいー!まだ当番の途中でしょなにサボってんだー!」
遠くで加州の怒号が聞こえる。やはり先程の予想は当たっていたらしく、共に畑当番だったのは加州のようだった。おおかた、腰が痛いなどと言って少し休憩する体で抜け出したのだろう。朝から洗濯で走り回っていたナマエが一息つく、ちょうどその時を見計らって。
最初に感じた違和感はやはり間違ってはいなかった。そうでなければ、こんなタイミング良く、畑から少し離れた場所にあるナマエの部屋へと続く縁側で休憩しているなど、ありえないのだから。
「きっ、清光ー!清光助け、っ」
ある意味ではこの状況のきっかけ、しかし最も頼れる救世主である刀の名を震える声で叫ぶ。今後の状況説明が面倒になろうと、とにかく早く助けてほしいという一心での行動だった。
しかしそれ以上言葉を続けることは叶わず。ナマエを抑えつけていた手が今度は頬を掴むと、やや乱暴に正面を向かせる。小さく窄められた唇を、がぶりと、文句を丸ごと飲み込むように則宗の唇が塞いだ。
「おいおい、こんな状況で坊主の名前を呼ぶとは…さすがの僕でも怒るぞ?」
一瞬だけ触れた唇は、思っていたよりもあっさりと離れて行く。代わりに普段よりも幾分か低い声が、地を這うように吐き出された。笑っているはずなのに、笑っていない。
何故こちらが怒られなければならないのか。そもそもこちらとしては何も悪いことをしていない。あなたが来る前から、清光のとは仲が良かったし、なによりあの一文字一派の御前であるあなたに、そんな馴れ馴れしくできるほどの刀ではないんですよ私は。というか、今、なにをした。
ぐるぐると頭の中を文句が駆け巡るも、口に出そうものなら地雷を踏み抜いてしまうことは明白だった。
それでも不満と困惑は顔に滲んでしまっていたのか、ナマエを顔をじっと見つめた後、則宗は「うははは」と目尻を下げる。
「まあそう気を張るな。このじじいに、ぜーんぶ任せておけ。なあ、ナマエ?」
加州の声が徐々に遠くなっていくのを感じる。縋るようにわずかに向けた視線も、はらりと落ちてきた金髪によって遮られてしまい、文字通り逃げ場はなくなってしまった。
戸惑うナマエに焦れたのか促すように親指が唇を撫でる。わざとらしく名を呼ぶその声に、心臓を握られた感覚を覚えた。
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