※ズ!の頃になります。


 握りしめたフォークが突き刺さる。優雅なカフェには似つかわしくない音が響き、周囲の人々がこぞって音源であるナマエへと好奇の目を向ける。けれど今の彼女にはそれを気にするほどの余裕はなく、むしろ視線が刺さるその痛みにさらに苛立ちを募らせるのであった。

「はしたないわよ、ナマエ。せっかく可愛らしくしてるんだから、仕草も可愛くしないと」

 一口紅茶を啜り、鳴上はナマエの行動を咎める。その言葉に彼女も少しやり過ぎたと感じたのか、どこか腑に落ちない顔をしながらも大人しく粉々になったタルトケーキを掻き集め口に運び、まるで自身を落ち着けるようにやや無理やり喉奥へと流し込んだ。

「だって…あの伏見くんが、こんな分かりやすものに気づかないなんてあり得る?」
「まあ、普通なら考えられないわね」

 ナマエの言うこんなものとは、つい先日春を先取りとばかりにさりげなく指先に乗せたピンク色のネイルのことだった。元の爪の色もあり一見すると目立たないようなものではあるものの、寒色な制服を着ていれば誰であろうと気づくような色を選んだのは、女子生徒が自身を含め二人しかいないこの校舎で如何に女子力と言われるものを高められるかと考えた結果であった。
 そして彼女は整えたその爪先を、さっそく恋人である伏見弓弦へと期待を込めていの一番に見せに行った。といっても自分から示したのではなく、朝の挨拶と共に、あくまで伏見に見つけてもらえるようにと、わざわざ彼の登校時間に合わせるということまでしたのだった。
 女とは面倒な生き物で、些細な変化を自ら言うのではなく誰かに指摘し褒めてもらうということに、差はあるものの喜びを感じるのだ。しかもそれが恋人相手なら、なおのこと。
 しかしナマエのそんな淡い乙女心を裏切るように結果は散々なもので。その時のみならず放課後の現在に至るまで、伏見がその変化に全く気付くことはなかった。流石にこれは酷いと溜まりに溜まった感情を友人であり、ナマエの爪先を一番に褒めた鳴上へと吐き出していたのだ。

「でも弓弦ちゃんだって人間なんだから、気付かないことだってあるわよ。たまたま見ていなかっただけでしょう」
「…隣にいた桃李くんの寝癖には気付いてた」

 一瞬でしまった、といった顔をする鳴上に、ナマエの虚しさはますます募っていく。
 ナマエがここまで感情を露にしているのには、もう一つ理由があった。
 それは鳴上が先程見事に踏み抜いた地雷。伏見がナマエの爪先より先に、彼の主人である桃李の寝癖に気が付いたことだった。

「私の変化は寝癖以下か!」

 気が付かないだけならばまだいい。爪先だけ、しかもこんな分かりにくい色なんて、もし自分がやられても同じように気が付かない可能性だってあったからだ。しかしよりにもよって寝癖、しかも普段からややハネ気味の桃李の髪に生じたわずかなそれには気が付いたくせに、それより幾分か分かりやすいナマエの爪先には気が付かなかった。
 つまり自身の変化はたまたまできた桃李の寝癖以下だということであると、その事実が何よりも彼女を悲しませ、そしてここまで荒れ狂う要因となっていたのだ。

「もう死ぬしかないのかな…」
「ちょっとどうしたの、今日はいつもに増してネガティヴね」
「だって…もうどうすればいいのか分からないんだもん……」

 先程までの勢いが嘘のように、ナマエは半ば投げやりに呟いた。──桃李が一番。それは伏見弓弦という人間を好きになった時から分かりきっていたことだった。
 しかし恋人という土俵に上がれたのだから対等とまではいかないものの、その足元ぐらいには及んでいるのかと思いきや、まさか変化にも気付いてもらえないほどだったとは。突きつけられた現実に本人も予想以上にダメージを受けていたらしく、言いながらその瞳にはだんだんと涙の膜が張っていく。

「……もういっそ自分から言っちゃったら?そうしたら褒めてもらえるでしょう」
「…いや、もういいの。明日落としてくる」

 悲しくも寝癖以下なのだと痛感させられてしまったのであれば、これ以上続けていても仕方がない。普段はしないネイルなんてものをしたのは、他でもない伏見のためだったけれど、その当人に気付いてもらえないのならそれは途端に意味を無くしてしまう。
 指先で輝く春のようなピンクは、訪れるのが少し早過ぎたようだ。思わず溢れそうになる涙をごまかすように、ナマエは深く溜め息を吐いた。

「…もったいないわよ、せっかく綺麗なのに」

 そんなナマエを慰めるように、鳴上はさながら王子のような所作で彼女の手を取り指先を優しく撫でる。

「それにナマエ、一緒に手のお手入れもしたでしょ。ネイルもだけど、手も以前よりずっと綺麗になってる。それを一回気付いてもらえなかったってだけで諦めちゃうなんてもったいないわよ」
「……」
「今気付いてくれなくても、いずれは気付いてくれるかもでしょ。早々に諦めないで、もう少しアプローチしてみたら?」

 ネイルというものにとても時間がかかるということ、そしてそこだけではなく手の綺麗な伏見にも劣らないようにと全てを磨いてきたナマエの乙女心というものを分かっているからこその言葉に、これ以上ネガティヴでいるのも申し訳ないと、ナマエは溢れかけていた涙を拭う。

「…そうだねなるちゃん、ありが、」
「おや、ナマエさんに鳴上さん」

 若干ではあるものの立ち直りつつあるナマエの脳内に、今一番会いたくない人物の声が響く。一瞬動きを止めたナマエに対し、鳴上はまるでそれが分かっていたとでも言いたげに、その声の人物に微笑んだ。

「あら、弓弦ちゃん」
「こんにちは。お二人でお茶ですか?」
「ええ。女子会よ」

 握る手は離さないまま会話を続ける二人に、ナマエは動けずにいた。まさか聞かれていたわけではあるまいと背筋に冷や汗が流れる感覚がしつつも、聞かれてしまってもむしろ言いたかった本音なのだから問題はない、と妙な強気がナマエの頭の中に渦を巻く。

「そうですか、それは楽しそうでよろしいですね。……ところで、ナマエさん」
「は、はい…?」

 名を呼ばれれば返事をしない訳にもいかず。伺うように顔を上げれば、ナマエの目の前に手が差し出される。
 突然の伏見の行動に訳が分からずその手と顔を交互に見るナマエに、彼は鳴上と繋がれたままだった手を解き、そして自らのそれで包み込んだ。

「握るのなら、わたくしの手をにしてくださいまし」

 細くしなやかな手が、一回り小さいナマエの手を優しく覆う。時折桜色の指先を撫で、そして愛おしそうにそう囁いた。
 瞬間、ナマエは全身が沸騰したかのように熱くなるのを感じた。「あら、」と思わず出たらしい鳴上の声もナマエには届いておらず、ただ目の前の出来事を処理する事でいっぱいいっぱいだった。

「あ、私用事があったんだわ!やだも〜うっかりしちゃってた。ごめんねナマエ、また今度ゆっくりお茶しましょ」

 わざとらしくそう言い、鳴上はそそくさと姿を消した。最後に一瞬、縋るように目線を向けたナマエへウインクを残して。
 薄情者。遠ざかる背中にそう口の中で呟くナマエに、伏見はこちらを見ろと、今度は咎めるように彼女の名前を呼ぶ。

「ナマエさん」
「は、はい…」
「何故あのようなことになっていたのです?」
「え…?」
「鳴上さまの手を握られていたでしょう」
「あ、ああ…えっと、ね、ネイルを褒めてくれて、それで…」
「ネイルを褒めるのにわざわざ手を握るのですか…」

 怒ってはいない、どちらかというと若干拗ねている。それは付き合い始めてからナマエが感じ取れるようにった、伏見のわずかな感情の違いだった。彼の主であるはずの桃李曰く「そんなことが分かるのはナマエぐらい」らしいが。しかしそれでいてもこの言い方。全く怒っていない訳ではないと早々に察したナマエは、慌てて次の言葉を紡ぐ。

「握ってたわけじゃなくて、その…わ、私がもう落とそうかなって言ったら、せっかく綺麗なのにもったいないって言ってくれたの」
「…落とそうとしていたのですか」
「……うん」
「何故ですか?」
「何故って、それは…」
「………」
「その…、」
「………」
「………」
「……ナマエさん」
「ふ、伏見くんが、気付いてくれなかったから!」

 催促されるように名前を呼ばれたことで、ナマエはヤケだと言わんばかりに大きな声でそう発した。そして次の瞬間、先ほどとは違った意味で顔が熱くなるのを感じた。改めて口に出すと、こんな子供染みたことで一人で勝手に盛り上がって挙句勘違いにも似た不快な想いまでさせてしまっていたのだと、否が応でも自覚をしてしまった。ただでさえ大人びている伏見に近づきたいと普段から頑張っていたのに、これでは逆に子供のようだと呆れられてしまうのではと、ナマエはよからぬ方向にまで思考が飛んでしまう。

「あ、あの、伏見く、」
「すみません、本当は気付いていました」
「は、」

 その言葉に、ナマエは俯いていた顔を上げる。そして飛び込んできたのは、本当に申し訳ないと思っている半分、どこか楽しんでいる半分、といった表情の伏見であった。
 それを見て、ナマエは先ほどの言葉の意味とここに至るまでの彼の考えに気づいてしまい、思わず顔を引きつらせる。そして伏見もそんなナマエの表情に気づき、普段のような人当たりの良い笑顔を浮かべた。

「わたくしに気付いてほしいとそわそわしていらっしゃるナマエさんが、あまりに可愛らしく…つい意地悪をしてしまいました」
「ひ、酷い…」
「すみません」

 そう謝りつつ、伏見は握ったままであったナマエの手を、爪先がよく見える形へと握り直す。

「今更になってしまい申し訳ありませんが…とても似合ってらっしゃいます」

一本一本形を確かめるように優しく撫でられ、ナマエは思わず肩を跳ねさせる。そんな反応が面白いのか、伏見は柔らかく目を細めどこか嬉しそうな表情で微笑み、そして。

「次はぜひわたくしに、ナマエさんを彩らせてください」

 小さく音を立てて、その指先へとキスをした。
 こと桃李のこととなると常識からやや外れてしまうものの、この異常集団ばかりの学園内では伏見弓弦は一応常識という枠の中へ分類される人物である。その普段の柔らかな物腰含めおよそ突飛な行動は取らないであろうと思われた人物が、まさか公衆の面前で、今時少女漫画のヒーローでも顔を真っ赤にしそうなほど恥ずかしいことをさらりと、さも当たり前のようにやってのけたのだ。
 これにはさすがに動けずにいたナマエも反応せざる負えない。勢いよく伏見の手を振り払い、「ごめんなさい!」となぜか大声で謝り脱兎のごとく逃げ出した。

「ちょっとちょっと、弓弦ちゃん〜?」

 残された伏見はといえば、まるでその流れを予想してましたと言わんばかりにやれやれと一つ息を吐き、ナマエの残していったケーキの皿を片付けていく。そこへ先ほど姿を消したはずの鳴上が慌てた様子で戻ってきた。

「おや、鳴上さま」
「どうしちゃったのいきなり手にキスだなんて!あまりにロマンチックでお姉ちゃんびっくりしちゃったわ〜」

 そしてそれにも動じることなく、いつもと変わらぬ様子で「そうですね」と返事をする伏見に、もしやと鳴上はある考えが生まれる。

「ナマエは恥ずかしがり屋だから、逃げちゃうこと分かってたんでしょう」
「もちろん」

 その瞳心配半分面白半分といったところだろう、隠れて様子を見ていたらしい。それに気づいていたからこそ伏見はこのような突飛な行動をとったのだが、パンク寸前のナマエはそれに気づくことはできなかった。

「ええ、まあ。こうすればナマエさんに近づく方も少なくなるかなと思いまして」

 その言葉に、鳴上は先ほどの考えが間違っていなかったと確信する。
 そもそもの発端であったナマエのネイルにあの伏見が気がつかなかったこと、それをナマエが拗ねて自身に相談してくるであろうこと、そこへ漫画のようなタイミングで現れたこと、一応常識人であるはずの伏見があんな行動をとったこと。その全てが、この男の作戦だったのだということを。
 伏見は常々、ナマエの周囲との行き過ぎた仲の良さをあまり良くは思っていなかった。他意がないとはいえ自身の恋人が他の男と仲良くしている光景は、確かにあまり見たいものではない。それならば直接言えばいいものの、悪意がない分はっきり言うのも憚られたのだろう。だからこそあの恥ずかしい光景によって牽制し、さらにはナマエにも自身を改めて意識させるという、なんとも回りくどく大体な行動をとったわけだ。
 そして結果的にその思惑通り、あの恥ずかしい光景は明日にはアイドル科全員に知れ渡っているだろう。まさか自身も、周囲への牽制をとナマエの嫉妬姿を見たいがために伏見が仕組んだ罠に組み込まれてしまうとは思ってもいなかった。笑顔でそこまでさらりとやってのけるその姿に鳴上はため息をつく。

「…弓弦ちゃんって、ほんといい性格してるわよね」
「よく言われます」

 最高の褒め言葉だと言わんばかりに、伏見は人の良さそうな顔でにこりと微笑んだ。


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