「あ…」
「お、」
「………」
「おいおい待てって」

 まずい、と思った時はすでに遅かった。急いで踵を返した身体は前へ進むことなく引き戻され、二本の腕に捕らえられてしまう。

「ひっ…」
「やァーと捕まえたぜェ。ナマエちゃん?」
「は、はは…どうも…」

 今なら怯えていたニキの気持ちがよく分かると、だらだらと流れる冷や汗を感じながらナマエは自身の気の緩みに呆れる他なかった。
 ナマエがここまで燐音に怯え避け続けることとなった原因は、二か月程前に遡る。
 ──その日たまたまオフだったナマエは、ES内にある一室にてダンスレッスンを行っていた。休みの日ぐらいはゆっくりしなよというあんずの言葉に「何だか落ち着かなくってさ」と返し、普段なんだかんだ言いつつ一人になれる時間があまりないだけに、誰の目を気にすることもなく気ままに練習ができるこの時間を楽しんでいたのだ。

『おー、ナマエちゃんじゃねえかァ。一人なんて珍しいな』

 けれどその全ての空間は、天城燐音がやって来たことで壊されることとなった。
 ESの中でも比較的小さなこのレッスンルームは、フロアでも少しだけ奥まった場所にある。故にそこを使うという目的を持たない以上、たまたま前を通るということもほぼ確実にない場所だ。
 だからこそ燐音がここを訪れたということは、確実にWナマエがここにいるWと知ってのことだと、断言できるのだ。
 白々しい言葉に反応してしまえば最後、うまい口車と強引さで、ろくでもない未来になることは目に見えている。ここはなるべく穏便にことを済ませようと、当たり障りのない返答を瞬時に探し出す。とはいえ、自分自身がターゲットだと断言できてしまっている時点で、もはや意味はないのかも知れないが。

『天城さん、どうしたんですか』
『燐音だって。前から言ってただろォ』
『…燐音さん、なにかご用ですか』
『いやなに…』

 彼にしては妙に歯切れの悪い、けれどどこか軽さを含んだ声色にやはりなにか企んでいるなとは察しつつも、さすがに理由もなしに追い出すのは、最後の良心とでもいうのだろうか。なんとなく気が引けてしまう。
 そんなナマエの様子に気付いてはいるのだろうが、これ幸いとばかりに触れることをせず。長い脚をコンパスのごとく広げナマエへと近付くと、覆い被さるように顔を覗き込んだ。

『な、なに…』
『人気者のナマエちゃんが、ようやく一人になってくれたと思ってなァ』
『え、』

 ほんの一瞬だった。言葉の意味をナマエが理解する前に、青い瞳が鼻先まで近付いて来たのは。
 間抜けに薄く開いた唇に、柔らかいものが触れる。そのままなにかを確認するかのように軽く押し付けると、喰らいつくように覆われた。
 その後のことは、正直口に出すのも憚られる。──背中に回された腕の強さに抗うことができないまま、全てを奪うような行為に翻弄され、それでいて与えられる刺激に、ただひたすら息を乱していた。
 端的に言ってしまえば、そう、奪われたのだ。唇を。よりにもよってファーストキスを。
 さすがに身体まで繋げなかったのは良かったと言っていいのかどうか分からないが、この際まだ良しとする。いや良くはないんだけれども。
 そうしてその後、すっかり力が抜け意識朦朧とするナマエを律儀に部屋へと送り届けた燐音は、そのまま何事もなかったかのように姿を消したのだった。
 あれは何だったのか。一体何が起きたのか。そもそも、あの男は何を考えていたんだ。
 冷静になった頭で考えようとも分かる筈もなく。ただ弄ばれただけだという結論に行き着く以外、ナマエに道は残されておらず。
 当たり前に湧き上がる怒りと困惑。しかしそれと同時に否が応でも認めざるを得なかったのは、今までずっと目を背けていた感情だった。



「あの…なにかご用ですか…」

 あれから、燐音を避けに避け続けた二ヶ月。ほんの少しの気の緩みが、まさかこんな状況を招いてしまうとは。
 レッスンルーム。二人きり。逃げられない体勢。発した言葉。唯一違うのは、今いるのはあの時のレッスンルームではなく、それなりに大きな別部屋だということだろうか。
 嫌な既視感を感じながらもその場で最も適しているであろう問いかけをすると、燐音も同じことを思ったのだろう。にやりと笑い、「ナマエちゃんが、ようやく俺っちの所に来てくれたと思ってなァ」とわざとらしく言った。

「にしてもナマエちゃん逃げんの上手ェのな。こんなに捕まえられないの、俺っち初めてだわ」
「そうですか…」
「ニキちゃんならもっと簡単に捕まえられんのによォ」
「あ、あの…」
「うん?」
「あんまり耳元で話さないでもらえませんか…」
「え、なになに、感じちゃう?」
「…くすぐったいんです」

 あのとき、嫌な予感はたしかにしていたのだ。
 部屋への帰路でたまたま出会ったあんずに頼まれた書類の宛先がよりにもよって燐音だったことも、彼のユニットが現在レッスンをしている場所がこの前のダンスルームだったことも、扉の前に立った時、中が妙に静かだったことも。何もかもが嫌な方向へ向かっていた。
 大方燐音が色々と根回しをしたのだろう。例えば、自分宛の書類はナマエに渡すよう頼んだとか、予定していたレッスンの開始時刻はそのままに、ルームの予約時間だけを長くしておいたとか、予定通りレッスンをこなした後、自主練だ何だと言ってメンバーに外に出るよう促した、とか。断定はできないが、この男ならそういうことをする、というのだけは断言できる。
 せめてこの密着状態をなんとかしようと身体に力を込めるも、背後から首と腹へ回された腕はそれをさせてはくれない。それどころか逃げようとするナマエに気が付いた途端、同じ様に背中を丸めた燐音が覆い被さり、ますます離れることが困難な状態となってしまう。「ナマエ」と、咎めるように名前を呼ばれ、肩がびくりと跳ねる。

「燐音さっ、ま、待って…」
「待たねェよ。つーか、俺っちもう充分待ったっしょ」
「あっ、や、」

 ──惹かれていた。常に人をからかうような口調の中に、諦めと、それでも捨て切れていない希望のようなものを滲ませた、その雰囲気に。
 同時に何よりも恐れていた。この人のものになってしまうという、たったそれだけのことに。
 低く落ちた声が体内に響く。するりと滑る手は頬を撫で、ナマエの顎を掴むとそのまま後ろから唇を重ねた。

「っ、ん、」
「なァ…嫌だったら逃げろよ」

 普段は勘が鋭いくせに、どうしてこうも肝心なところで鈍いのか。
 あの時、殴ってでも逃げ出すことは出来た。それでも何一つしなかったのは、ナマエが燐音を好きだという至極単純で、それでいてこの世で最も難解な感情を持ち合わせていたという、何よりの証拠だというのに。

「あ、っ燐音さ、ん、う…っ」
「ンな強張んなって、力抜け。気持ちよくなれねェぞ」
「き、もちよくなる必要、ない、んっ、う」
「連れねェこと言うなよ」

 隙間からぬるりと侵入を果たす舌はあの時よりもずっと熱く。絡まる度にくちくちと音を立てナマエの羞恥を煽る。
 いつの間にか真正面から向き合うように抱き締められた身体は、逃げることも叶わず。与えられる快感にただ力が抜けていくだけだった。
 髪が絡まぬようにと優しく後頭部を支える手も、腰を抱く腕も、強引な仕草とは裏腹に甘く絡む舌も。すべてがナマエを翻弄していく。

「っふ、あ、はあっはあ…」
「はは…かわいーのなァ、ナマエちゃん」

 ようやく解放された時には、ナマエの膝は震えて立っていることもままならず。くたりともたれ掛かる小さな身体を燐音は難なく受け止めると、むしろ好機とばかりにそのまま床へと座り込み膝の上へと抱えてしまう。

「腰砕けちまう程よかったか?」
「か、からかわないで下さい…っ」
「からかっちゃいねェよ」

 普段のような軽い口調に、ナマエはかっと顔が熱くなるのを感じる。やはりからかわれていただけなのだと、少しでも流されてしまった自分を恥じるようにつっぱねるが、言葉とは裏腹に、燐音の腕には力が込められる。

「嘘、そんなの嘘…」
「嘘じゃねェって。なァ…こっち向いてくれ」

 俯く顔を追いかけ、子犬が戯れるように時折鼻先を触れ合わせながら、赤い髪から覗く青い瞳が、対照的に赤を滲ませるナマエの瞳を見つめる。

「どーしたらナマエちゃんは俺っちの気持ちを受け取ってくれンのかねェ」

 やっぱり同じ、軽い口調。けれど頬を包み込む手はやけに熱くて、微かに震えているような気さえした。
 ──ああ駄目だ。この手を振り払うことなんて、今の私にできるはずがない。

「…だったら、まずはちゃんと言葉にして…ください」

 恥ずかしさと、溢れるむず痒さに震えてしまう言葉をなんとか最後まで紡ぐ。
きっとあの時。されたこと全てを飲み込もうと決めてしまったあの時から、ナマエの負けは決まっていたのだ。
 その言葉に燐音は悪戯好きの子供のように口角を上げると、目の前で縮こまる小さな身体を辛抱たまらんもばかりに力一杯抱き締めた。

「ちょ、燐音さ、っ!」

 慌てたナマエの声丸ごと飲み込むかの如く乱暴に、けれどひどく優しく唇を落とす。わずかに離れたそこから、どこか嬉しそうな声が響いた。

「愛してるよ。俺の人生、全部賭けたっていいぐらい」


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