忙しいから仕方ないと、理由にもならない言い訳をし続けた結果がこれだ。床が見えないとまではいわないものの、それでも寝床に行くための道のようなものができてしまう程度には物が散乱する部屋に、さすがにまずいと思い始めた時には既に遅かった。
まるでそんなナマエの状況を察したかのように「今日、お部屋にお邪魔してもよろしいですか」と、疑問符をつけることなく、それこそ決定事項のような口ぶりで尋ねてくる伏見に、嘘が下手なナマエが言い訳をできるはずもなく。あえなく部屋へと案内することとなり、あろうことか掃除好き綺麗好きの恋人に、惨憺たる状況を見せつけることとなってしまったのだった。
案の定「今から掃除をしましょう」と笑顔で言い放つ伏見に対して、名前が拒否権など持ち合わせているはずもなく。そうして始まった掃除は、なんと一ヶ月ぶりに重なった互いの休みを返上して行われ、ナマエはますます委縮するしかなかった。
「本当にすみません……申し訳ない……ごめんなさい……」
「お気になさらず。…とはいえ、お仕事を言い訳にして掃除をサボっていては駄目ですよ。散らかった部屋は疲れた体をより追い詰めていきますから」
「はい…」
受け取り方次第では喧嘩になりそうな物言いではあるが、事実ナマエの身には、散らかった部屋のおかげで物に足をぶつける、落として転がったペンが何処かに行ってしまう…等々の弊害が起きている上に、疲れて帰った後に散らかった部屋を見て、自分自身にため息をついたこともあり。心身ともに良くない状態なのは否定できなかった。
それに、例えばここで伏見が、「汚いのは自業自得なのだから、疲れ切っていても自分で全て何とかしろ」と冷たい物言いをしたのであれば、ナマエも「分かってるけど私だってしんどいんですけど!?」などと怒る余地はあるが、同じく仕事をこなしている上に、自分が日常過ごす訳でもない場所を掃除をしてくれているのだから、もはや何も言えなくなってしまうのだ。
いや、ナマエとて文句がある訳ではない。文句など一切ない。なぜなら伏見の言葉は、ドが付くほどの正論だからだ。
ならば何故彼女かここまで落ち込んでいるかというと…それはなにより、"申し訳なさ"がなによりも大きいからだ。休みの日にこんな事をさせてしまっているという罪悪感と、ここまで自室を放置したという居たたまれなさ。気にするなと言われても無理な話で。
自身に対する諸々にほとほと呆れてしまい、ナマエは伏見に気付かれないよう小さくため息を吐いた。
「そうやってため息なんて、吐かないでくださいまし。わたくしがお手伝いしたいからここにいると、何度も申しているでしょう」
「…なんで今のため息が聞こえたのかとかは気にしないでおくけど……まあ、弓弦くんの言ってることは分かってるんだけどね…そうもいかないのが人間の気持ちってものだよ」
「…では、もしわたくしが、"別の目的があるからお手伝いしている"…と言えば、貴方も納得しますか?」
「え、うそ。むしろあるの?」
「ええ。本来無償の心でご奉仕すべき執事として、あるまじき発言ではありますが…わたくしはナマエさんの"執事"ではなく、"恋人"ですから、それは許されますよね」
疑問形でなく断定系なのは、もはや自問自答のようなものだからだろうか。
とはいえそれは正しく、彼は姫宮家の執事であって、ナマエの執事ではない。使える主人ではない彼女に対して行うこと全てに、無償の心を持ち合わせる必要はないのだ。むしろ欲があった方が健全とすら思える。
伏見にとってナマエは初めてできた正式な恋人ということもあり、時折妙な方向に考えが向かうことがあるようで。普段礼儀正しいだけに、そのちぐはぐさにはナマエも驚かされることが多かった。
「ま、まあ、そういう事になる…のかな?…ちなみにその場合、私は弓弦くんに何を返せばいいの?」
「おや、野暮ですね」
「野暮ですか…」
「ええ。せっかくお部屋に二人きりなのですから、やれることは沢山あるじゃないですか」
「………」
それはそれはとても綺麗な笑顔でとんでもない発言をする伏見に、ナマエはひゅっと喉が鳴る感覚を覚える。
「そ…それは、具体的に私はどうすれば……」
「さあ?ナマエさん次第ですかね」
「ひえ…」
「さあ、早く終わらせましょう。あとで美味しいお紅茶を淹れて差し上げますから」
乱雑に置かれていた物たちがそれぞれの在処に置かれ、ゆったりとできる部屋になった頃。二人はようやく座れるようになったソファに並んで座り、伏見が淹れた紅茶を飲んでいた。以前ナマエの部屋を伏見が訪れた際、リラックス効果と疲労解消効果があるからと置いていったものだ。
喉を通る温かさにほっと一息つくナマエを、まるで小さな子供を見る親のような表情で見つめながら同じく紅茶を飲んでいた伏見が、「そういえば、」と、ふと思い出したかのようにポケットを漁り出す。
「ナマエさん」
「んー?」
「これはいつのお写真ですか?」
伏見が取り出した一枚の写真。そこに写っていたのは、夢ノ咲のものとは異なる制服を身に纏い、カメラを向けられているにも関わらず、笑顔ではなく苦笑いのような、微妙な顔付きをした──ナマエだった。
今よりも若干髪が短く見えることから、おそらく最近撮られたのではないことは伏見にも予想ができた。となれば中学生の頃のものかもしれないが、それにしては、以前ナマエから聞いていた制服とは大きく異なっている。
たしか彼女の中学時代はセーラー服だったはずだ。そこは間違えるはずがない。というのも、伏見が夢ノ咲へ編入した頃のこと。彼より数ヶ月早く編入していたナマエに、ネクタイの結び方を教えたことがあったからだ。彼女曰く、「した事がないから、綺麗に結べず困っていた」らしく。その言葉の通りナマエは編入してからしばらくの間、必要な場所以外ではネクタイをほとんど結んでいなかったようだった。
なぜ大して親しくもない自分に教えを乞うたのかとも思ったが、それがきっかけで「今日は綺麗に結べたんだ」などという報告と共に他愛もない話をする仲になり。今となってはこうして付き合うまでに至ったのだから、まあ細かいことは気にしないでおこう。
そんな過去の出来事を含め改めて見た写真の中の制服は、角度によっては黒にも見えそうなくらい暗めのブレザーに、グレーチェックのスカート。夢ノ咲の明るい制服を着こなす彼女からは、なんともイメージがかけ離れたものだった。
「あー…夢ノ咲に入る前に少しだけ通ってた学校のときのやつだから……高校一年生の頃かな」
「ほう…」
何が、「ほう…」なのだろうか。いったい彼は何に感心したのか。その心は伏見以外知ることはできないが、なにやらあまり良いものが含まれてはいないという事だけは、ナマエにも理解できた。
そもそもとしてその写真自体、寮に越してくる前一気に捨てたはずだが、ここにあるということはおそらくどこかに挟まっていたか、たまたま紛れ込んでいたのだろう。こうして伏見が見つけでもしなければ、同じように気にすることなく捨てていたはずの、所謂その程度の物だったのだ。
「あの…できればあまり見ないで欲しいんだけど……」
「おや、どうしてですか?」
「その写真好きじゃなくて…写りも悪いし……」
「そんなことありませんよ。とても素敵です」
「すっ、素敵とかはよく分からないけど、そもそも普通に恥ずかしいから…」
写りが悪いというのはおそらく、長い前髪で顔を隠し、若干俯きがちで暗い雰囲気に見えるからだろう。とはいえ髪の隙間から覗く瞳はいじらしい兎のように赤く大きく、黒く長いまつ毛に縁取られその存在を主張している。恋人という贔屓目を無しにしても、当時はそれなりに目を引いたはずだ。
このカメラを向けていた人物も、同じことを思ったのだろう。そうでなければ、嫌がるナマエを無理に撮る必要はないのだから。
「では…こちらの写真はわたくしがいただきますね」
「…何でそうなるの?」
「だってナマエさん、この写真が好きではないのでしょう?」
「それは、そうだけど…」
「嫌いなものをわざわざ手元に置いておく必要はないでしょう。でしたら、わたくしがいただいても問題はありませんよね」
「………いやいやいや、おかしい、おかしいよ!なんか一瞬納得しそうになったけど、私がその写真を好きじゃないからって、弓弦くんが持っていく理由にはならなくない!?返して!?」
ナマエが必死に静止するも、伏見はどこ吹く風。気にすることなく写真をポケットににしまおうとしている。
これは本気で持っていくつもりだと理解したナマエは、写真を奪おうと慌てて手を伸ばした。
「ちょ、本当に返し…っ!?」
「おっと、」
しかし既の所で、伏見は写真を奪われぬようさらに遠くへ避けてしまい。その手は虚しく空を切ることとなる。
代わりに、突然身を乗り出したことでバランスを崩したナマエの身体は、そのまま伏見の上に倒れ込んでしまった。
「おや…ずいぶんと大胆ですね」
「あっ、ご、ごめん…っ!」
「構いませんよ。元からこうするつもりでしたから」
「え、わっ…!」
まるで押し倒したかのような体勢になってしまったことを、近くなった伏見の顔と声で理解したナマエは、離れようと慌てて身体を起こす。
けれどそれは、いつの間にか腰に回っていた伏見の腕によって叶うことはなく。構わない、と言うや否やくるりと体勢を変え、今度はナマエの上に伏見がいる状態になってしまった。
「ああやっぱり。この体勢がしっくりきますね」
にこにこと効果音が付きそうなぐらい満面の笑みの伏見に見下ろされ、ナマエはようやく彼の考えていること、もとい企みに気が付いた。
そもそも伏見の普段の判断能力と身体能力を考えれば、ナマエが倒れ込んでくると分かった瞬間片手で自身の身体を支え、なおかつ受け止めることなど容易くできたはずだ。
にもかかわらず簡単に押し倒されたということは、確実にそれを狙っていたということに他ならないのだ。
「はっ、離して弓弦くん…!」
「…ところでナマエさん」
「え、な、なに…っ」
「先ほどお話していた、"見返り"の件ですが…」
「…うそ、あれ本気だったの?」
「もちろん」
「て、手伝いたいからここにいるって言ってたのに!」
「なにを今さら。理由が欲しいと言ったのはナマエさんの方ではありませんか」
「そ、だけど、あっ」
騒ぐナマエを涼しい顔で抑え込む伏見は、腰に回していたままの腕で彼女の身体をぐっと抱き寄せると、足を割り開き自らの身体を滑り込ませた。
いかにもな体勢になってしまったことで、ナマエの抗議は一瞬艶を帯びる。
「…まあたしかに最初は、ちゃんと"掃除"が目的だったのですが……、」
部屋に響いた自身の甘い声に一瞬で顔を真っ赤にしたナマエを見下ろしながら、自らを落ち着けるためなのか、それとも湧き上がる欲を隠しきれないだけなのか。熱のこもった息をゆっくり吐き出し、伏見は続ける。
「わたくしも男なので、恋人に何かしていただけるのであれば、それなりにさせたい事は……"色々"あるんですよ」
頬に添えられた手はするりと滑り、細くしなやかな指先が、わずかに開いたナマエの唇を弄ぶ。返事を促すその手つきはまるで愛撫のようで。どくどくと早まる心臓の鼓動が全身に響き、ナマエの呼吸は熱く乱れた。
「ああナマエさん…どうかこの弓弦めに、貴方からの"ご褒美"を…いただけませんか?」
浮かべられた淫靡な笑みに、ナマエはいよいよ脳が溶け出す感覚に襲われる。何度も交わった身体は簡単に高揚し、触れてくれといわんばかりに想いを溢れさせていく。
すっかり脱力した身体はもはや抵抗しないと悟ったのか、伏見は唇に触れていた指を離すと、代わりと言わんばかりに自らの唇を重ねる。
するりと滑り込ませた舌に迷わず絡み付く熱に、伏見の脳も溶けていく。
いっそこのまま混ざり合ってしまえばいいと、叶わぬ願いを叶えるように、小さな体を強く抱き締めた。
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