ネバーランドに追い込んで


時折、ガラス一枚隔てた向こう側が、人間の喧騒で溢れた世界だということを忘れてしまいそうになる。まるで夢でも見ているようだとも思った。けれどこれは、紛れもなく現実の世界なのだ。

指が紙上を滑る音に混じって、遠くからこぽこぽとコーヒーを淹れる音が聞こえていた。人の疎らな店内に心地良く響く、耳触りの良い音だ。

「随分と熱心に読んでいましたね」

窓の外へ向けていた視線を、声の降る方へと向ける。人の良さげな笑みが、ひと皿のサンドイッチと共に差し出された。
先の彼の言葉が指すのは、恐らく閉じて置かれた文庫本のことだろう。簡素な書皮に覆われた本は表紙が見えないが、ここ数日同じものを読み込んでいたから、少しだけ気に留まったのかもしれない。

「どんなお話だったんですか?」
「青春ミステリ…と呼べば良いんでしょうか。二人の学生が互恵関係を結んで、小市民を目指すお話なんです。…でもきっと、安室さんはもっと謎めいた日々を見てきたんでしょうね」

探偵さんなんでしょう? と、唇に弧を描くと、彼はやや気恥ずかしそうに頬をかいた。

「僕なんてまだまだで、先生から学ぶことも多いですよ」
「先生…?」
「ほら、ここの二階に探偵事務所があるでしょう。眠りの小五郎、僕はあの人の一番弟子なんです」
「ああ!コナン君のところの」

ポアロに通っている以上、あの人たちのことはよく見聞きしていた。実際に噂の推理ショーを見たこともあるし、時折新聞に名前を見かける事だってある。
安室さんの探偵としての姿を見たことは無いけれど、そんな名のある探偵が取るほどの弟子なのだから、きっと彼の頭脳もなかなかのものなのだろう。

「コナン君を知っているんですか?」

わたしの口から放たれた名前に、彼は少しばかり驚きの色を浮かべた。その口ぶりでは安室さんもあの子のことを知っているんだろう。それとなくポアロで会うことや、以前事件に巻き込まれた経緯を軽く伝えると、安室さんは納得したように頷いてみせた。

「あの子、とても利発的な子ですよね。将来は名探偵さんかも」
「おや、ということは僕のライバルになりますね。負けてられないな」

そう意気込んでみせる安室さんの言葉には小さな笑い声をあげた。つられるように目尻を下げる安室さんだったが、背後から店員を呼ぶ声にすっと背筋を伸ばす。今はランチタイムだ、少々引き止めすぎたのかもしれない。「ただいまお伺いします」そんな安室さんの言葉に会話の終わりを悟り、目の前のサンドイッチに手を伸ばした。

「そういえば、まだ貴女の口から名前を聞いていませんでした」

席から数歩離れた安室さんが、ぱたりと足を止めて振り返った。

「ご存知かとは思いますが、僕は安室透と言います。貴女のお名前を伺っても?」

やや間をあけて告げた名前に、シャドウグレイの瞳が細められる。いつ見ても彼によく似合う綺麗な色だと思うのだ。

「それでは名前さん、どうぞごゆっくり」

会釈を返すと声が、足音が遠のいて行く。
その背を暫し目で追いながら、きらきらと輝く日常を噛みしめるのだ。



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