嘘が煌めく金曜日
『…ーそう、それなら早めに片付けておいた方が良いみたいね』
夜道、と呼ぶには些か明るい時分、住宅街にこつこつと踵を響かせてゆっくりと帰路を辿る。屋内にいるのだろうか、耳元の携帯から届く声はどこか篭って聞こえていた。
「その辺りは任せるけど…もう少し調べておいた方がいいかな」
『そうね、お願いするわ』
「じゃあ何か動きがあったら……、」
『…? どうかしたのかしら?』
背後からなかなか追い抜く気配のなかったエンジン音が、視界の隅で白を伴って現れる。RX-76、その運転席に覗く顔は最近よく見かけるもので、静かに張り詰めさせていた糸をゆるめていく。
「それじゃあ、今度お茶でも行こうね」
『……OK, また連絡するわ』
通話を終えた携帯をポケットに詰め込み、彼の目線に合わせてほんの少し腰を屈める。
「やっぱり貴女でしたか。すみません、電話のお邪魔でしたね」
「こんばんは、安室さん。どうせお話も終わりでしたからお気になさらず。お仕事の帰りですか?」
「ええ、今日は早番のシフトだったので」
彼、安室透は目尻を下げて笑った。ふんわりと辺りにコーヒーの香りが漂い、彼の言葉に嘘がないことを教えてくれる。
「名前さんも仕事帰りですか?」
「いいえ、買い物の帰りなんです。夕飯の買い出しがまだだったから」
「なるほど。それなら、もし良ければ家まで送って行きますよ」
「えっ」
その申し出には思わず瞬いた。言うなればわたしと彼はつい最近出会ったばかりの、ただの店員さんとお客さんだ。そこそこの常連といえども、そこまでして貰う義理はない。というか素直に申し訳ない。
何か裏でもあるのだろうかと思わず勘繰ってしまうのはきっと仕事柄だろう。けれどそのフレンチグレイの瞳に偽りの色は無く、純粋に彼の好意ゆえの言葉だということを示していた。
「駅が近い訳でもないのにヒールで歩いている、という事は家がそこまで遠い訳でも無いんでしょう?」
「ええと…まあ…」
「それに後ろから少し見ていましたが、どうにも歩き方がぎこちない。靴擦れ、ですかね。靴も新品同様に綺麗ですし。酷くなるのは嫌でしょう?」
どうです? とでも言わんばかりににっこりと微笑まれ、わたしはただ小さく両手を挙げることしか出来なかった。ポアロでも時折思っていたが、本当によく人を見ている。
お言葉に甘えて助手席から車に乗り込むと、コーヒーとはまた違う、良い香りに包まれる。これがイケメンの香りかとひとりで勝手に納得し、そろそろとシートベルトに手をかけた。
「それじゃあ、よろしくお願いします」
「任せてください。道案内、お願いしますね」
車は静かに走り出す。行き先を軽く説明して口を閉じるとしんとした空気が広がった。困った。男のひととの車内での会話の仕方なんて、わたしは習ってきていない。
「…今日はお忙しかったんですか?」
「え? あ、いえ」
居た堪れないわたしの様子すらもきっと安室さんにはお見通しだったに違いない。わたわたと返す自分の姿は最高に笑えるものだったのだろう。その証拠に安室さんは苦笑いで声を震わせている。穴があったら入りたいとはまさにこの事だ。
「今日はお店にいらっしゃらなかったので、てっきり忙しかったのかと」
「あ、それでさっき仕事帰りかって」
「ええ。僕のアテは外れてしまいましたけどね」
前方を向いたまま肩を竦めてみせる彼に、なるほど、と先の会話を思い返す。確かに服装も質素であるから、仕事と思われてもおかしくはない。
「本当は友達と会う予定だったんです」
「だった、という事は結局会えずに?」
「はい、向こうの都合がつかなくて。ショッピング楽しみにしてたんですけどね」
「それは残念でしたね…。もしかしてさっきの電話はそのお友達と?」
「流石安室さん、お話が早いですね」
かちかちとテールランプが音を鳴らして、車は滑らかな動きで細道を曲がっていく。数分しか乗っていないが、助手席での乗り心地は今までに乗ったどの運転手のものより良かった。
安くはない車種に、この運転技術。もしかすると安室さんは車が好きなんだろうかとも思いを巡らせる。わたしも免許証は持っているが車に関してはさっぱりだ。
ひとつふたつと話題は流れ、その間にも車はどんどん住宅街の中を進んでいく。近づいてくるドライブの終わりを少し残念に思いながら視線を窓の外へと移した。陽はすっかり落ちかけていて、鮮やかな薄紫が雲を染めていた。
▼▼▼
「おや」
買い物帰りだという名前さんを送り届けたのも数分前のこと、赤く光る信号にブレーキを踏み込んだ車内でころりと何かが転がった。
「赤い、口紅…?」
発信器の類では無さそうで、ふと思い浮かぶのは先程まで隣に座っていた彼女の姿。彼女が使うには少し濃すぎる色の様にも思うが、ここ最近、この車に女性を乗せた記憶はない。きっと乗り降りする際に鞄やポケットから落ちてしまったのだろう。
来た道を引き返そうとレバーに手をかける。が、自らのハンカチで丁寧に包み、胸ポケットへと押し込むことにした。もちろん、ここから先の場所まで戻るには容易い。けれどそのままアクセルを踏み込み、ポアロで渡してあげようと思い直した理由が何を示していたのか、この時の自分はまだ気が付いていなかった。
いや、もしかすると気付こうとしていないだけのかもしれない。
ラジオから流れる流行りの曲を口ずさみながら車を走らせ、ただぼんやりと、次にお店へ来てくれるのはいつだろうかと考える。恐らくこの時既に、安室透という人間の中で彼女の存在が小さく形成されていたのだろう。
それらに目を瞑る行為が吉凶どちらへ転ぶのか、きっと答えを知るものは一人としていないのだ。
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