優しげな暗影
視界を流れ行く街は、数えるほどの瞬きしか覗けぬ空よりもうんと明るく騒がしい。赤く彩られた指先を携帯の上で滑らせ、眠ることを許されぬこの街にほんの少しばかり愛憐の情を抱いた。
「遅かったじゃねーか」
ぬうと暗闇から手が伸びて、私の腕を掴み力強く引き込んだ。ネオンに輝く世界とは一転、音も光も吸い込まれそうな闇の中に銀糸と鋭い瞳だけが浮かんでいる。
「…女性を誘うなら洒落たレストランの予約と、それからもっと早い連絡をお願いするわ」
背中越しに硬いアスファルトを感じながら、目の前でにやりと不気味に笑う男を見上げた。
「ああいいぜ、お前がその気にならな」
「ふふ、冗談よ。それよりこんな時間に呼び出したんだからそれなりの理由があるんでしょうね」
「ああ…」
狭い路地裏、自然と二人の距離は近くなる。互いの呼吸音まで聞こえてきそうなその空間で、彼はさらに顔を近付け、耳元でそうっと告げた。
「仕事だ、ベリーニ」
全身が粟立つようだった。
それを興奮と取るのか恐怖と捉えるのかはきっと人それぞれなのだろう。
柔く掴まれていた手のひらに小さなUSBを握らされ、そのまま縫うように壁へと押しつけられる。耳元に感じていた吐息が首から頬へゆっくりと移動し、やがて私の呼吸を飲み込んだ。
▼▼▼
「今日は随分と眠たそうですね、名前さん」
手のひらで覆ったはずの欠伸を見られていたのだろう。カウンター越しに放たれた彼の言葉に、頬へ熱が集まるのを感じた。
「あはは…少し仕事が長引いちゃって」
「仕事といえども睡眠は大事です、無理はしないでくださいね」
「う…気を付けます…」
安室さんにそう諭されながら目の前のナポリタンをくるりとフォークに巻きつけ、そっと口元へ運んでいく。トマトの香りが鼻を抜け、ほどよい甘みが口の中に広がった。
「美味しいですか?」
「ええ、ケチャップの酸味の中にほんのり甘みもあってとても美味しいです。まるでレストランで食べてるみたい」
「それは良かった。実は今日のナポリタン、僕が作ったんですよ」
「安室さんが?」
ゆっくり咀嚼して、その味が小さな喫茶店レベルで収まるものではないと心の中で考える。この間食べたサンドイッチもすごく美味しかった。もしかするとあれも安室さんが作ったものだったのかもしれない。
「料理お上手なんですね…」
「いえ、僕なんてまだまだです。でも目の前で美味しいと言っていただけると、頑張って作った甲斐があるというものです」
頬を綻ばせながらそう告げる姿には少年のような面影が見え、成人男性には失礼かもしれないが、彼を少し可愛いと思ってしまった。
よく笑う人だと思う。
もちろん、接客用の顔なのかもしれないが、変な飾り気を感じない姿には好感が持てた。お喋りも好きなのだろう、彼との会話には飽きを感じさせない。
「あ、そういえば」
「?」
何かを思い出した様子な安室さんが何かを探すようにぱたぱたとポケットへ手を伸ばす。一体何を探しているんだろう。しっかりランチタイムを楽しみながらその様子を眺めていると、やがて彼はハンカチに包まれた何かを取り出した。
「もしかしてこれ、貴女のものでは?」
差し出した手に置かれたのは見覚えのある口紅だった。確かわたしが持つ色の中で一番赤い色だった気がする。
どうして安室さんが持っているんだろうと小首を傾げると、彼は車に落ちていたんですと簡潔に示してくれた。成る程、この間落としてしまったらしい。
「わざわざすみません…ありがとうございます」
「いいえ、見つかって良かったです。それにしても名前さんにはなんだか珍しい色だなあと。僕はこの色を見たことがないので…」
「ええ…少し冒険してみたかったんですけど、ダメでしたね。もっと淡い方が良いみたい」
するりとポーチにしまい込み、鞄の奥底にへと押し込んだ。わたしの顔には似合わぬ赤色。次に日の目を見るのはいつになるだろうか。定かでは無いけれど、あまり近くでなければ良いとぼんやり思った。
「僕はメイクの事はあまり分かりませんが…きっと名前さんはメイクの腕が上手なんでしょうね」
「? どうしてです?」
「それはもちろん、貴女の魅力をうんと引き出せていますから。笑顔も素敵ですしね。あとはそう、もう少しちゃんと寝てくれたら、僕は嬉しいです」
そう茶目っ気たっぷりにウインクを飛ばして、安室さんは微笑んだ。凝り固まっていたこころがほぐれるような感覚に、二度寝せず足を運んで正解だったなあと朝方の自分に小さな拍手を送った。
「そんなに褒めたってわたしからはなんにも出ませんよ」
「おや、僕は本当のことを伝えたつもりだったんですけどね」
「お世辞でも、そんな風に言ってもらえるなら貴方に会いに来た甲斐があったというものです」
「え?」
きょとん、と安室さんは瞬いた。
初めて見る、彼の意表を突いた顔に思わず笑みがこぼれる。
「ふふ、ちょっとした冗談ですよ。ナポリタン、ごちそうさまでした」
「えっ ああ、お粗末さまです。食後のコーヒーは?」
「一杯お願いできますか?」
「ええ、喜んで」
すぐにその表情はいつもの安室さんのものに戻ってしまったけれど、コーヒーを待つわたしはどこか満足気に頬を緩めて座っていた。
ふつうの日常に戻ったような気がしていたのだ。
黒く染まってしまったこの身では望むべきではない、平凡な生活に。
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