君のこころに指差して
規則的に、控え目に。鳴り響く電子音がまどろみの身体を揺り起こす。波打つシーツとタオルケットの間をするすると白い腕が泳ぎ、その指はベッドサイドのアラームへと伸びた。
AM 7:25、薄く開けた視界に無機質な数字を映し出す。ぼんやりとした頭でベランダに出してあるごみ袋ひとつを思い描き、大きな欠伸をした。さあさあ、動かなければ。私はこのあたたかな空間からひんやりとした世界に飛び込まなければいけない。身体は尚も温もりを求めるが、仕方ない。今日も朝が来たのだ。
ぼす、と、数日分の生活感が押し込まれた袋が山に投げ落とされる。数度、なんとなく軽く手を叩き、来た道を引き返した。朝ごはんはまだだ、しかしながら果てさて、冷蔵庫に食材は入っていただろうか。
「おはようございます。意外と早かったですね」
階段をすれ違った憶えはないのだけれど、いつの間にやら部屋の前に立っていた男はキャップの下に覗く目をゆるやかに細めた。爽やかな笑み、とでも呼称すれば良いのだろうか。どちらにせよ、私は今日ここに彼を呼んだ記憶はない。
「あら、もっと遅い方が好都合だった?」
「いいえ? 留守のようでしたから、朝食でも取りに行ったのかと思ったんですよ」
「…要件はなに」
「ここではなんですから、中に入っても?」
「………」
沈黙は肯定とでも言うように。扉へと促す素振りを見せる彼を横目にして、ポケットへ押し込んでいた部屋の鍵を取り出した。普遍的な、シルバーの小さな鍵だ。差し込んで回すと簡単に解錠を知らせる軽快な音が通路に響いた。
「コーヒーは出ないわよ」
来客用のカップが無いもの。
そんな私の言葉に彼は肩を竦めてみせた。
「仕事です、マティーニ」
ソファに身を沈めた彼がにっこりと告げる。少し、意地の悪そうな笑みだ。
「私、休暇を貰ってる筈なんだけど」
「ええ、ですからこれは命令ではなく、あくまで"お手伝い"だそうです」
「ああ、ベルモットね……。良いわ、それで私は何をすればいいの」
小首を傾げる私に提示されたのは数人の日本人の名とその所属。どうやら警察庁の人間らしい。それらの情報収集が目的のようだった。
暗殺など、殺しがメインの仕事でなかった事にほっとした。今更人殺しが怖いわ、なんてか弱い女を演じるつもりは無い。この国は "後始末" に大変手がかかる。そういった仕事をするには些かやりにくさを感じるのだ。
「確かに、このくらいなら片手間でこなせるけど……なぜあなたが? ベルモットならいつも直接連絡を寄越すのに」
「ちょうど彼女と仕事をする機会があったんですよ。その際に言伝を頼まれましてね」
「ふうん……さしずめ運転手さん、とでも言ったところかしら」
「ご名答」
加えて彼女の変装技術が必要でした、と続ける彼の言葉にベルモットについて思いをはせる。彼女の技術は一流なんて言葉では言い表せない、あれは神業の領域だ。ハニートラップ含め暗殺の腕も素晴らしいの一言に尽きる。幼い頃からベルモットの下について学んだ私から見て、よく彼女と共同で仕事をする彼は少し羨ましい。
「ですがあなたもご存知の通り "彼女" は多忙だ」
「ええ、そうね。それで?」
「ベルモット仕込みの変装技術を持つマティーニ、あなたには今日から僕の手伝いをしてもらいたい」
は、と思わず声が漏れた。数度、瞬いて彼を見つめる。まさかそう来るとは思わなかった。しかも、それはベルモットからの命令だと言う。彼女はいつから冗談にキレが増したのだろう。
P P P と、少しばかりの静寂を裂いたのは、これまたタイミングの良い着信音。ナンバーだけが表示されているが間違いない、ベルモットからの着信だ。
「僕のことはお気になさらず」
家主はこちらだけれど、一応彼の顔を伺うとそんな言葉をもらったので、お言葉に甘えて通話ボタンに指を伸ばした。
『Hi, Martini. 私よ。日本の暮らしはどうかしら』
「上々よベルモット。彼が来るまではね」
「おや、人聞きの悪い」
『彼ともう会ったのね、それなら話は早いわ』
電話越しのベルモットの声色はどこか上機嫌だ。話ぶりからしても、先ほどの彼の発言に偽りは無いのだろう。どうせ仕事をするならベルモットが良かったのだけれど、技術ややり方の似ている私達では偏りが出てしまう。迅速に正確に、任務を遂行するならば色の違う二人を組ませるのがスマートだ。
「ようやく休暇を貰ったばかりなんだけどなあ」
『何も毎日彼を手伝いなさいって言ってる訳じゃないのよ。必要とする時にだけ手を貸してやりなさい、それ以外はあなたの好きに過ごすと良いわ』
「ベルモットからの命令?」
『いいえ、私からの "お願い" よ』
「……狡いひとね」
『ふふ、あなたは相変わらず可愛いAngel だわ』
命令であれば勿論のこと、けれどベルモットのお願いとあれば私は断ることは出来ない。それを知った上でこの言葉なのだから、私をよく分かっているなあと少しばかり場違いな想いを描いた。
それから二、三、お願いについての説明を受けたが、大まかな内容は先程の彼と差異はなかった。彼が仕事をする上でベルモットが手を回せない部分を私がフォローする、そんな所だろう。情報収集に関しては、少しシステムにお邪魔するだけで事足りる。そんなに手間はかからないだろう。
『それじゃあ幸運を祈るわ、マティーニ』
「ありがとう、ベルモット。あなたにも」
『彼にもよろしくね』
そこで会話は終わった。通話が切れたことを知らせる音のみが耳に残る。携帯を顔から離し、そばのテーブルの上へ。ことり、と音立てた先から視線をソファに移す。アイスグレーの瞳がじっとこちらを見つめていた。
「バーボン」
「何でしょう、マティーニ」
「話は理解したけれど、私はなにをすれば良いのかしら」
彼はにっこりと笑った。
「とりあえず、美味しいモーニングでも頂きましょうか」
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