似合いの恰好/カノン



 ポセイドン神殿、その玉座の前で▼は跪いていた。
渡された書面に目を通していたジュリアン……の体を借りたポセイドンは顔を上げると▼に労いの言葉をかける。新しい海龍はよく働く。朝早くに海界を出て地上の聖域に言ったと思えば、その足でそのままアスガルドに行き、朝と言っても過言ではない時間に帰ってくる。その働きぶりは他の七将軍や海闘士も認めていた。ポセイドンもよく評価していたし。何より個人的に彼女を気に入っていた。
 この▼、ポセイドンを信仰する家系に生まれ、幼い頃から敬虔な信者であった。アテナにより壺に封印されていたポセイドンにも届く祈りは、海龍の海闘士として選ぶには十分な理由だったし。何よりポセイドンはギリシャ神話の神、まぁまぁ、いや、そこそこ女好きである。正式に海龍として海界にやってきた▼が自分やその支配下の為に尽くしているのを見て、気に入るのには時間はかからなかった。
ふとポセイドンは膝をつく▼の瞬きが異様に多い事に気が付いた。心なしか表情もいつもの覇気がなくぼんやりとしているように思える。▼はといえば、ポセイドンの前で眠気と戦うなどという海闘士としてあるまじき行いに、恥じて顔を俯かせていた。しかしそれで生物の欲求である眠気がなくなるわけではなく、目蓋が閉じないように必死に瞬きをしている。

「▼、来い」
「はい……はい!?」
「こちらへ来いと言った。お前が来ぬならこのポセイドン自ら行ってやろう」

 お止め下さい!と眠気が吹き飛んだ様子で▼は立ち上がった。神であるポセイドン自ら階段を下りるなどあってはならない、顔を青くして玉座への短い階段を上る。
ポセイドンの足元で膝を折るとその顔を見上げた。煌めく翡翠の瞳、ここまで近くで見るのは海龍の鱗衣を賜った時以来だろうか。改めてギリシャ彫刻のように美しい主を見て、▼はほぅと微かに溜息をもらす。ポセイドンは自らを見上げる視線を受けとめると、その目の下にあるうっすらとしたクマに顔を顰めた。
顎を掴まれぐっと顔を近づけられると、突然の出来事に▼は息を詰める。

「無理をするなとジュリアンも言っていたと思うが」
「していないつもり、ですが。あの、ポセイドン様、申し上げにくいのですが、流石に……顔が近いです」
「はは!お前でもただの少女のように照れるのだな、珍しいものを見た。見たついでに言っておいてやろう、ジュリアンは次のパーティーにお前を連れて行くようだぞ。それまでにそのクマを消しておくのだな」

 ぱっと手を放されると、心臓に悪いと顔を俯かせてポセイドンの次の言葉を待った。暫くポセイドンは沈黙していたが、『今日はもうよい』とあっさりと下がる事を命じられる。失礼しますと一声かけて▼は玉座の間を離れた。
 雑兵に見送られながら神殿を出て、▼はようやく肩から力を抜く。神というのはやはり人間では理解が追い付かないものだろうか。先程の事といい、いつもやる事が唐突すぎる。驚きすぎて記憶から飛びそうになっていたが、ジュリアンの外出にも同行することになりそうだ。己の柱に帰って、以前与えられたドレスやサンダルを見つけなければならないだろう。『持っています、新しいものは必要ありません』とアピールしなければ、あの海商王はすぐにドレスから何から一式を買いたがる。


 曇りひとつないガラスに移る自分にクマがないことを確認して、▼は大きく溜息を吐いた。
 パーティーというのは息が詰まる。敵意には慣れたものだが、ジュリアンと共にいる事による好奇の視線には未だに頭痛がしそうなほど慣れない。暫くの間ジュリアンと共に各地を回っていたソレントは、もうその視線にも慣れたと言っていた。では、他の海将軍はその視線に耐えられるかと聞かれれば、▼は逡巡したあと『無理だろう』と答えるしかなかった。よって、必然的にこういった場でのジュリアンの護衛は▼かソレントになるのだ。
 このパーティーの主催者の男性と話すジュリアンの横でぼんやりと笑っていた▼は、視界に入った姿に目を見開いた。
城戸沙織。地上の女神・アテナ。何故ここに、などと言うまでもない。彼女は城戸財閥の総帥、招待されていたとしても可笑しくはないのだから。ジュリアンも彼女の姿に気が付いたのか、男性との会話を早々に引き揚げて▼に視線を送った。城戸沙織と話したいから暫く一人にしてくれ、とそういう事だろう。ひとりの青年としてのジュリアンは彼女の事を大変気に入っているらしい。了解の意を込めて頷いて、さり気なく▼はジュリアンから離れる。目の届かないところにはいかないだろうし、アテナも黄金の誰かを護衛につけているだろう。二人が視界に入る適度な距離を見つけると、壁に背をつける。周囲を遮断するように目を閉じて流れる音楽にだけ耳を傾けていた所に、聞きなれた低い声が名前を呼んだ。

「……カノンか」

 嫌々といった風に目を開けて視線を送る▼にカノンは苦笑いする。己のしたことを考えれば好かれているとは思っていないが、こうもあからさまに嫌われると逆に清々しい。常々邪険に扱いながらも、律儀で真面目な性格な彼女はカノンの言葉に耳を傾けている。
海皇の支配する海と同色のドレスは華美ではないが、鍛えられたしなやかな体を引き立てる。▼をてっぺんから爪先まで眺めたカノンは『ジュリアン・ソロもいい趣味をしている』と頷いた。幼い頃から良いものばかりを見てきた海商王は、確かな審美眼を持っているようだ。しかしながら、煌びやかなドレスはしっくりこない。

「お前は鱗衣が一番似合うな」

 カノンの口から出た言葉に▼はぱちぱちと瞬きをした。
 ドレスを着た女性に対する言葉ではないと思うが、▼にとって鱗衣はポセイドンから賜った大切なもの。誇り高い海闘士の証である。似合うと言われて悪い気はしないし、むしろ誇らしい事だ。胸からじんわりこみあげてくる喜びで自然と上がった頬をそのままにカノンに礼を言った▼は、自分に軽く手を振るジュリアンに気が付いた。沙織との話にひと段落ついたのだろう。最初のように付き添おうと、▼はカノンに『失礼する』とだけ言ってその場を離れた。
 今度はカノンが目を瞬かせる番だった。素直に礼を言ったこともだが、まるでポセイドンやジュリアンに向ける様な笑顔が自分にむけられたことに驚いたのだ。普段見る顔と言えば真面目そうに口を引き結んだり、嫌そうに眉を寄せたり、不機嫌が一目で見て取れる顔。とても好意的とは言えないものばかり。なんだ可愛い顔もできるじゃないか、と思いながらカノンはドレスの裾をひるがえす▼の背中を見送った。

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