夕暮の土手/夏目貴志


 とん、と背中に軽い衝撃。声を上げる間もなく、夏目は緑色の中を転げ落ちていく。
たまに大きな石が背中やら肩に当たって痛かった。ひとしきり転がって勢いが緩んだところで体を起こすと、見上げた視線の先には楽しそうに体を揺らす妖がいた、どこからか笑い声も聞こえる。妖にちょっかいを出されることはよくある事だった。大きな怪我はないが、痛いものは痛い。
はぁ、と溜息をついて散乱した持ち物をかき集めているとふいに影が差した。次いで視界に白い指とペンケースが現れる。

「夏目君、大丈夫?」
「え。あ、ああ」

 指の持ち主は逆光でよく見えなかった。
一瞬、ペンケースを受け取るかどうか迷う。妖か人間かわからなかったからだ。しかし視界に見覚えのあるセーラースカーフが映ったので、戸惑いがちにだがその指からペンケースを受け取った。
光に目が慣れて、持ち主の顔がしっかりと見えた。同じ学校の制服の女の子。

「ありがとう」
「どーいたしまして。すっごく派手に転んでたから、助けるのも忘れて暫く笑っちゃったわ」

 ごめんね、と眉尻を下げた彼女。あの笑い声は妖じゃなくて彼女だったのか、人の転げ落ちて行くところを見て笑うなんて結構失礼なヤツだなと少し眉を顰める。
 そんな夏目の表情を見て、彼女は慌てて両手を合わせて頭を下げた。

「ごめん!すっごく見事に転げ落ちていくからつい!……でもラッキーだな。私、夏目くんと話してみたいなって思ってたの」
「おれと?」
「うん。なんかいつも可愛い猫つれてるでしょ? いいなぁって思って」

 彼女の目には、ニャンコ先生が可愛く映るのか。。
噂をすればなんとやらで、ガザガザ草むらを揺らしてひょっこりニャンコ先生が顔を出す。わぁ、と嬉しそうに顔を綻ばせると彼女はニャンコ先生を抱き上げた。ニャンコ先生は大声を出して抗議しているが彼女には聞こえていないようだ、よかった。ほっと息を吐く。
ニャンコ先生に頬擦りする彼女に呼びかけようとして、名前を知らないことに気がついた。中途半端に口をあけた夏目を見て察したのか、彼女が口を開く。

「わたし、▲▼って言うの」
「▲…さん、もう暗くなってくるから、帰ったほうがいい」
「さんはいらないって。ああ、もうこんな時間か」

 夏目くんはお家どっち方面?と聞く彼女に『あっち』と指差すと、わたしも同じ方向なのと▼はまた笑った。
よく笑う子だなと思ってじっとその横顔を見ていると、ニャンコ先生が▼の腕の中からからかいの言葉を投げてきた。ムッとして力の限りその頬をひっぱると、ニャンコ先生のからかいの言葉が聞こえていない▼が慌てて夏目を止めた。『折角だから一緒に帰ろうよ』との誘いに頷いて、土手をあがって歩き出す。

「そう、それでね」

 西村や北本もよく喋るが、彼女もとてもよく話す。夏目はあまり話すタイプではないし、ましてやそれが初対面の人間になると話すことはもっと困難になるので、ここまでぺらぺらと話続けられる▼が少し羨ましかった。夏目は相槌をうったり、少し話したりしているだけだったが、彼女は特に気にした様子もなく歩き続けた。
藤原家の前で夏目が足を止める。▼の腕の中にいたニャンコ先生がぴょいと地面に足をついた。

「おれ、ここだから」
「いいなぁ、美味しそうな匂いがしてる。わたしはもっと向こうだから、ばいばい」

 また明日ねと走り出しながら彼女は大きく手を振った。
途中まででも送っていくべきだっただろうかと思いながら夏目は玄関を開ける。塔子さんのおかえりなさいに返事をして自分の部屋へあがると、一足先に部屋に入っていたニャンコ先生がごろごろしていた。制服をハンガーにかけてふと窓を見ると、外は日が落ちて薄暗くなっていた。
▲はもう家に着いただろうかとぼんやりと考えて目を閉じる。屈託なく笑う彼女の表情だけがやけに鮮明に焼きついていた。

「貴志くーん! ごはんよー!」
「はい! いま行きます!」
「メシか! 行くぞ夏目ー!」

 勢いよく足元をすり抜けて階下に向かうニャンコ先生に小さく笑みを浮かべる。明日も会えるだろうか。

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