春の風の匂いに包まれて/宮ノ杜雅



「雅様、春でもまだ夜は冷えますよ」

 綺麗に切り揃えられた黒髪が振り返る前にブランケットを肩に掛ける。
掛けられたブランケットに満足したのか、振り返る事を止めてそのまま景色を眺める幼い主人に倣って、▼は斜め後ろから掃除中に見慣れた景色を眺めた。この主人がわざわざテラスに椅子を持ち出して眺めるのだから、何かあるに違いないと▼は思うのだが、残念ながら▼には雅の考えはわからなかった。

「ねぇ」
「はい、なんでしょう」
「今日は何の日か覚えている?」

 一拍考えて、▼は景色から雅の黒髪に視線をうつす。
あと数刻で終わる今日は、▼が宮ノ杜に使用人としてやってきたその日だ。それ以外に▼は思い当たらないが、この出来事がこの主人に関係があるとは思えず、瞬きを繰り返す。
なかなか来ない返事に業を煮やしたのか、振り返った雅の眉間には深く皺が刻まれていた。

「お前が来た日でしょ?そんな事も覚えていないの?」
「一使用人の来た日なんて、普通覚えてないものですよ」
「あのねぇ、この僕が覚えてあげてるんだから、もっと喜んだらどうなの?」

 そうですね、と気の無い返事をして▼は眉を下げて笑う。彼女のこの笑い方が、雅は嫌いではなかった。ただ、時間の経ってしまったソーダのような、気の無い返事は気にいらない。深くなった雅の眉間の皺を見て、▼は慌てたように、それでも本当に嬉しそうに笑う。

「四年、宮ノ杜にお仕えして、初めて雅様にお祝いしていただきました」
「……なにそれ、他の奴らは祝ってたの?」

 『博様は二年目からお祝いしてくださいましたよ』と告げれば、不機嫌さを増した雅はとうとう▼から視線をはずして、再びテラスからの景色に向き合ってしまった。わかりやすく拗ねてしまった雅にバレないように苦笑して、▼はそっと肘掛に置かれていた雅の白い手に触れた。
宮ノ杜に来たばかりの頃はこんなことをしたら即行解雇だったと思うが、今は触れても咎められない事がとても嬉しい、という事を雅は知らないし、▼も進んで言うつもりは無い。本当のほんとうに、解雇されそうになるまでの切り札にとっておくのだ。

「雅様に覚えていただいた事が、一番嬉しいです」
「それ、嘘だったら解雇するからね」
「でしたら、私は一生この宮ノ杜にお仕えできますね」

 嬉しいですと重ねて言うと、それだけで雅の機嫌が少し良くなる。
ふと▼が硝子越しに柱時計を見ると、既に亥の刻を過ぎており、これはまずいと雅の指が掴んでいたブランケットをとりあげる。少々強引だが、こうでもしないと雅は▼の言葉に耳を貸さずに、己の気がすむまで外の景色を眺めているだろう。

「なにするのさ」
「もう亥の刻を過ぎてしまっています、どうぞお部屋へ」
「そうやって煩いところだけ、千富に似てきたよね」
「千富さんに似てきたのなら光栄です」

 へらりと笑って言えば、この状態の▼には何を言っても無駄とわかっている雅も大人しく椅子から腰を上げて部屋に戻るために歩を進めた。椅子の片づけがあるため、▼はその場でお辞儀をして見送る。▼の横を通り過ぎて数歩進んだところで、ふと雅が足を止めて振り返った。

「きっちり起こしに来てよ、明日遅れたらお前のせいだからね」
「畏まりました」

 当然のように求められる仕事に、雅様の頭に私の解雇される未来が本当にあるのか、と疑いながら▼は再び苦笑する。そういえば、明日は新しい使用人がはいるのだと千富さんが言っていたなぁと思い出しながら、▼は細い腕には重い椅子を持ち上げようと、足に力をこめた。

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