真夏の邂逅/将陵僚


※RoL

 馴染みのない廊下、窓から聞こえてくる子供の声。揺れる視界。
▼は少しだけ後悔していた。父親の言う通りおとなしく保健室で待っていればよかったのに、滅多に足を運ばないから色々見てみたいという己の我儘を。放課後だからか、誰も通らない廊下の端にうずくまって、痛みの波が去るのをじっと待つ。

「大丈夫か?」

 正面に誰かがしゃがみこんだのだろう。近距離で聞こえる声に緩慢に顔を上げた▼は、視界に入った柔らかい黒髪に自分の幼馴染の名前を呼んだ。困惑したような声がかえってきて、そこで初めて▼はしっかりと相手の顔を見る。自分の幼馴染ではなく、少し大人びて見える少年は心配そうに▼を見ていた。
痛みの波も随分遠のき、遠くなっていた音も視界も正常になった▼が『だいじょうぶ』と言えば、その表情は幾分か和らぐ。

「そうか。保健室行くか?……ってそうだ、いま職員会議中だったな」
「保健室より、音楽室に行きたい」
「音楽室?すぐそこだけど、歩けるか?」

 どれだけ具合が悪そうに見えたのだろう。▼は勢いよく立ち上がるとワンピースの裾を掃った。もう大丈夫といわんばかりの態度を見て少し笑った少年も、倣って立ち上がる。先導するように少年が歩いて、▼はその後ろについて歩いた。
▼には縁のない場所、学校の廊下。数回だけすれ違った生徒が『将陵』と呼んでいたので、この少年は将陵というのだろう。掲示板やクラスの札、開かれたドアから見える教室を物珍しそうに眺めては、ここで幼馴染達が授業を受けているという想像が出来なくて首を傾げた。
 『ついたぞ』という声に、ドアの向こうを見れば、真っ先に目に入ったのは黒いグランドピアノ。中に入って見回せば、音楽界の偉人の肖像画、楽器、生徒用の椅子……おそらく、音楽室らしい、音楽室なのだろう。▼は音楽室をほかに知らなかったし、この世界で音楽室というものがいくつ残っているのだろうか。少なくとも日本にはないだろう。先生がいて、生徒がいて、平和に授業をうけている。改めて不思議だと思った。
 ▼は迷いなくピアノの鍵盤蓋を開け、ペダルを踏んで椅子の位置を調整する。それを見ていた少年は止めようか迷ったのか、何か言いたそうにしてから。諦めたように近くの椅子に座った。

「そういえば、名前は?」
「▼」
「俺は将陵僚。▼は、学校じゃ見ないよな。いちおう全校生徒の前に立ったことがある俺が見たことないし」
「体がちょっと……弱くて。学校には通ってないから」

 全校生徒の前に立つ生徒、なにか役職についているのだろうかと考えて。▼はすこし前に家に寄った総士が生徒会長の話をしたことを思い出した。僚がその生徒会長なのかもしれない、そうだとしたら彼の近くには犬がいるはずなのだが……。いなくてよかった、と安心しながら▼は少し肩を震わせた。犬は昔から苦手だった。
白い鍵盤に指を這わせ、呼吸をする。ドビュッシーの水の反映。この夏の暑さには、涼しげな高音の清流が良いだろう。外の子供たちと蝉の声に目を瞑って、ゆっくりと肩の力を抜いて目を開けた。▼は体調が悪かったことも忘れて、指先の記憶で、奏でることに熱中する。
途中、フッと指を止めると、少しだけ音が残り。静かにピアノの音に耳を傾けていた僚が不思議そうに顔をあげた。印象的な赤い瞳が僚を見つめている。

「真壁一騎って知ってる?」
「知ってるよ。普段はちょっとだけみんなと離れてるけど。良い奴だよ、案外世話焼きだしな」
「……そっかぁ」

 ▼は嬉しかった。大好きな幼馴染を認めてくれる人がいることが。それが優しい人であったことが。目を細めて鍵盤に意識を戻した▼は演奏を続け、音楽室は再びピアノの音で満ちる。
 変わった子だな、と僚はその横顔を眺めた。この狭い島の中、一度見たら忘れられそうにない色をしているのに、僚は記憶になかった。遠見医院でも見たことがないので、自宅療養をしているのかもしれない。最初に声をかけたときも、自分に向かって『一騎』と呼んでいたし、先程の質問からも一騎の知り合いなのだろう。年齢も同じくらいなのだろうか……それにしては幼いような気もした。音楽室に入る前も、入った後もあたりを見回してはコロコロと表情を変えていたことが原因だろうか。
 水の流れのような音が止んで、しばらくして廊下から▼の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。それは僚にとってはどこか聞き覚えのある声で、▼にとっては大好きな父親の声だった。『パパ、お仕事終わったんだ!』と弾むような声で席を立つと扉に駆けていく。僚が声をかけると白い髪を揺らして振り返り、首をかしげる。

「また遊びに来いよ、学校」

 ひらひらと手を振って言われた一言に目を輝かせて、▼は大きく頷いた。

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