朝/百



懐かしい名前を聞いた気がする。一番身近なのに、ここ数年では紙の上でしかみない名前。
夢と現の間にある意識ではそれを理解するのに数分を要し、ボクが目を覚ますのを望んでいるであろう相手はボクの肩を揺すりはじめた。瞼には緩やかに日の光が当たっているのだろう、端から端まで、ぼんやりと赤い。

「▼!」

渋々起き上がる。目を開けて、ぐっと伸びをする。ボクの肩を揺すっていた相手、百におはようと言えば、どこか呆れた声でおはようと返ってきた。毎度毎度起こしにくるのだから、律儀な男。まぁ、相方のユキさんも相当寝起きは悪いようだから、慣れっこかもしれないけれど。
ベッドサイドの時計を見て眉を寄せる、予定していた起床時間より随分と早いのだけど。ボクの表情からそれをくみ取ったのか、百は人の家のカーテンを全開にしながらアラームがずっと鳴っていたことを教えてきた。どうやら設定を直すのを忘れていたらしい。早く起きて悪い事もないだろう。もう一度伸びをして、二人分の乱れのあるベッドから立ち上がった。人の体温というのはよく眠れるらしい。こうやって犬猫のようにすぐ一緒に寝るからお互い浮いた話のひとつふたつ、ゴシップにさえされないのだろう。

「冷蔵庫の中なにもないけど、どうするの?」
「ふぁ……あふ。開いてる店のひとつやふたつあるでしょ。ファミレスとか」

カーディガンを羽織ってリビングに行けば、アイドリッシュセブンの新曲のコマーシャルが流れていた。画面の中で歌う陸に心の中でおはようと声をかけて。水でも飲もうと冷蔵庫をあけた。いつの間にか常備されるようになった桃と林檎のスパークリングとミネラルウォーター以外、たしかに胃に入りそうなものはない。……というか、食べられるものは昨日酒と一緒に胃にいれてしまったのだが。それを思い出すと同時に少し頭のあたりが痛くなった。あとで薬でも飲もう。

「キミがボクの名前呼ぶの、久しぶりに聞いた」

唐突過ぎる言葉だったからか百はしばらくペットボトルを握ったまま固まり、数秒してから聞こえてたんだ、と照れくさそうに続けた。

「最近じゃキミくらいしか呼ばないから。あと病院の看護士さん」
「あぁわかる。正式な手続きとかそういう場所でしか、呼ばれなくなっちゃうよね。あれ、ユキは?知ってなかったっけ」
「知ってたかな……。会った時にはもうキミが▼って呼んでたし。そもそも、わざわざ呼ぶ人じゃないでしょ」

バンさんはどうだったかな。あの人も、会った時にはもう百が▼と呼んでいたから。それが名前だと思っていたかもしれない。
そう考えると、本当にいまボクの名前を呼ぶ人間というのは百しかいないのだなと、リビングに飾ってある写真を見ながら思った。家族は国に残っているし、なによりもっと違う呼び方をしていた。ボクの名前は日本ではどうあっても浮いてしまうので。なんだかんだ▼と呼ばれるのが一番好きだけれど。

「オレは▼って呼び方も好きだけどな。猫の名前みたいで」
「張本人の人間を目の前にして言うキミの度胸はすごいと思うよ。まぁ、ボクも好きだからいいけどね」

二人座ってもまだスペースのあるソファに並んで、流れる朝番組を見る。二階堂がドラマの番宣をしていて、あぁこの子達も随分と色々な所で見るようになったなと実感した。音楽の売り上げランキングのコーナーにはいると、見えるのはRe:valeの文字。その少し後にボクの名前。MV撮るのたいへんだったなと現場を思い出して溜息を吐く。それで何を思ったのか、百は『オレは▼の今回の曲もいいと思うよ、三枚買った!』といらない報告をしてくる。一枚でいいでしょ。

「▼」
「なに」
「んー……今日は何時までいていい?」

溜息を吐く。昨日の夜からいるのだから、今更だとも思うのだけど。
小さい子供の様な目で、何年間も、毎回毎回同じことを聞いてくる、本当に律儀。百はボクが前に渡したもののことを忘れているんじゃないだろうか。可哀相な鍵、使用用途も意図も察されないなんて。いつぞやの誕生日に貰ったグラスをテーブルに置いて、チャンネルを変える。子供向け番組の着ぐるみがカメラに向かって手を振っていた。ファンサービスか、まぁためになることはあるかもしれないから、そのまま見る。

「好きな時に出て行って好きな時に入ってくればいいじゃない。そういうものでしょ、ボク達」
「不用心……」
「陸のグッズと貴重品がなくなったら真っ先にキミに掴みかかるから安心して。白状するなら早めに頼むよ」

怖い!と聞こえた声を無視して、未だに画面の中で手を振る着ぐるみを眺めた。

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